フックマン #4
トシヤとカナは大学生だ。今日は二人でドライブデートに出かけた。よく効いた空調が柔らかく温かい空気を車内に循環させる。しかし、二人の間には一触即発の空気が漂っていた。
「……」
しまった……。建物すらない場所に来てしまった……。今日は二人とも家には帰らないつもりだった。郊外のピンクの外装のホテルとか、そういうところに泊まるつもりだったが、車の外は一寸先も見えない闇である。だが、時計を見ると日付を跨いでいる。朝は必ずやってくる。そうか……。外は一寸先は闇。つまり向こうからもこちらは見えない。ならば、もうここでいいのでは!? トシヤとカナは空調以上の火照りを抑えきれず、トシヤは探り探りにブレーキをかけた。カナは疑問にも思わないし、止めない。合意はあるとみなした。やがて車が止まり、二人はシフトレバーの上で手を絡めた。恋のシフトがブブンブンだ。唇と唇が触れそうになった時、トシヤの目は恐ろしいものを捉えた。
「ギャアアアババババババ!?」
何か硬い……鉤爪状のものが車の窓ガラスを叩き、べちんとトレンチコートのおじさんが全身をガラスに浴びせて張り付いたのだ!
「どうも! フックマンです」
「フックガールです」
車の中からは悲鳴しか聞こえない。明智とキクコのコメディアンめいた名乗りを聞いていなかったことは幸いだ。怪人ではなく、狂人と思われるだろう。
「フックマンはこうではないのか?」
「もっと……オバケらしさ?」
「ならば……。ゴシャ! ギガゴズバァ!」
突然の奇声! フックと腕を振り上げて威嚇するが、車の中のカップルからはよく見えていないようだった。
「ダメだ……。明智さん! 次のフックマンが来ます!」
森の奥から、気だるげに血染めのフックを引き摺った鬼が来る。その足取りは、先程までのように簡単に撃ち殺してきたものとは違う。気だるげではあるが、だるいのではなくゆっくりと時間をかけて威嚇することで獲物に苦痛を与えているのだ。
おそらく、今までに明智とキクコを襲い、返り討ちにされたフックマンは「明智とキクコが男女の二人組」という理由だけで機械的に追ってきていたが、今車の中にいるトシヤとカナは今まさに行為を始める寸前だった。それに比例した凶暴性の上昇。条件に反応し、優先順位に従って行動するプログラムじみた存在。今は明智とキクコではなく、トシヤとカナを殺すという目的で動いている。
「おい、扉を開けろ! 敵が来る!」
明智はフックマンの模倣をやめた。それでも、トシヤとカナには木の枝で作った鉤爪、トレンチコートという新たなフックマン像が刻み込まれたことだろう。
「伏せろ!」
反対側……トシヤの背後からも新たなフックマンが出現し、紙でも貫くように窓ガラスを粉砕して鉤爪を突き刺した。明智の声でトシヤは身を屈めて間一髪助かったが、フックマンは簡単な手首の操作でトシヤから火照って高速で巡る血を引きずり出せる。
「明智さんも伏せて!」
BLAM!
超常の白炎が明智、カナ、トシヤの頭上を横断し、反対側のフックマンを爆散させた。……。怪殴丸からは、殺害の愉悦が伝わってこない。怪殴丸はもうフックマンを殺すことに飽きたか、殺す価値のないものと判断し始めている。
「すまぬ」
明智はキクコが割った窓から強引に車内に手を突っ込んでロックを解除し、トシヤの両肩に手を置いた。
「すぐに説明する。まずは私たちを信じ、乗せてくれ。後部座席に移ってくれ。私が運転する」
「……」
フリーズするのも無理はない。一度に多くのことが押し寄せすぎた。焦らしに焦らされ、ようやく愛しの恋人と甘いひと時を過ごせるかと思いきや謎のおじさんに絡まれ、その背後でお人形みたいな服装の女の子が鉤爪の怪人を……射殺した。そしてもう一人の鉤爪の怪人は自分を殺そうとし、そいつも女の子が射殺した。
トシヤもカナもまだ若い。鉤爪の怪人なるにわかに信じがたい存在よりも、もっと身近……イメージしやすい恐怖である“銃”を扱う女の子に恐怖し、言われるがままに後部座席に移って震えた。お互いを支え合うことも出来ず、一つの命として抗えずに恐怖に震え続けたのだ。
「明智さん、運転出来ないはずでは!?」
「昔は免許を持っていた」
「昔って……」
「私が明智日日日と名乗る前。つまり、化身になる前だ」
「ミカエルの化身は三日天下……。そう昔のことでないのを祈ります」
「胸の前で十字でも切るといい」
明智がアクセルを踏んだ瞬間、タイヤがアスファルトを噛んだ。舌打ちしながらリアガラスを見ると、トランクに次のフックマンが鉤爪を突き立てて車の発進を妨げ、強引にアクセルを踏み込むとそのフックマンは引きずり回され、やがて腕がちぎれて地面に伏した。
「まだフックマン反応はあるか?」
「振り切ったようです。……なんですか、さっきの奇声」
キクコは怪殴丸の無制限射撃という比類なき殺傷能力を持ちながら、かなりの小心者だ。一度は車が動き出したのだからと、まずはリラックスに努めようとしている。車を強奪……形の上ではフックマン&フックガールに拉致されたトシヤとカナを気遣う余裕はまだない。
「なんのことだ?」
「ゴシャなんとかっていうの」
「ゴシャ! ギガゴズバァ! のことか。私が普段ゲームで愛用している武器の名だ。私がやっているゲームには、なまはげモチーフのゴシャハギというモンスターが登場し、そのモンスターの素材から作る武器がゴシャ! ギガゴズバァ! だ。フックマンはなまはげを模した姿と考えた時、ふとゴシャハギが思い浮かんだ。……私が先程話した伝承の話を覚えているか」
「情報が最初に存在し、多くの人の耳に入って、口から出る時は少し改変が加えられる。その改変の分だけ最初の情報が肥大化し、やがて伝承となって呪いになる……ということでしたよね」
「似たようなものだ。まず、この土地の伝承にはなまはげがいただろう。そして四十五年前のフックマンはなまはげを模した。そのフックマンを模した私は、なまはげを模したゴシャハギとフックマンを同時に演じた。つまり、この地の伝承としてのフックマンは、なまはげ、フックマン、ゴシャハギと変化して行った訳だが、私の中ではフックマン、なまはげ、ゴシャハギの順で連想されていった。ゴシャハギのデザインはフックマンやなまはげを誇張して他人に危害を与える目的ではないが、こうして情報とイメージは人の意識を通過して変質していく。ゲームのプレイヤーはゴシャハギを氷属性、ゴシャ! ギガゴズバァ! の素材といった認識をする。つまり攻略サイトの上では氷属性のゴシャ! ギガゴズバァ! を作るならゴシャハギを倒せ、ということだが、この時点でゴシャハギのモチーフはなまはげという起源情報は意味を失っている。すまぬ、このような状況ではうまく説明出来ぬ」
「大丈夫……ではありません! 前方……前方に何人かフックマン反応があります!」
「仕方ない。こうなればフットボールだ! エンドゾーンを目指して突進するだけだ!」
前方に現れるフックマンを次々と撥ねながら、車は狂ったように走り続けた。
〇
「村長さん」
「どうかしましたか、夏目さん」
公民館の近くまで戻ってきたシキミは、腰に提げていた拳銃を抜いた。人には向けない。ただ持ち、銃口は地面に向ける。フックマンに備えていた男たちににわかに緊張が走った。
「森の中に残してきたわたしの相棒たちがフックマンを射殺しました」
「射殺?」
「先程も申し上げた通り、わたしたちは怪奇現象解決の専門家。それぐらいのことは出来るのです。こちらが写真です。射殺したフックマンの鉤爪。わたしたちはフックマンを殺せる」
シキミが手に持っている拳銃は実際はエアガンである。岩塩の弾丸を撃ち込むことで悪霊の弱化、弱いものなら退治も可能だが、シキミ・キクコぺアが怪殴丸を所持している以上デジタル時代の鳩時計のように低機能で、ノスタルジックな玩具に過ぎない。
だがこの場では様々な含みを持つ。
相棒たちがフックマンを射殺……。シキミが村長に見せた写真には、確かに森の中に転がる鉤爪が収まっている。しかし怪殴丸で射殺されたフックマンは跡形もなく爆発四散するため、この鉤爪も明智が仕込んだ偽物だ。それでも今は、村長を騙せればいい。
「その上で、お聞かせ願いたい。隠していることはないですか? ……本当は知っているんじゃないですか? カギヤフックマンが何者だったのか」
そのフックマンを殺せる人物の相棒であるシキミが持つ拳銃もフックマンを殺せる。そう誤認させる。ならばシキミもフックマンを殺せるのだからこの機に膿を出しきれと話させるか、或いはその銃で殺されることを恐れさせて話させるか。どちらでもいい。要は真実を知ることが出来ればいいのだ。
そのためにいくら虚偽を使おうとも。
〇
一九七七年。
数年前から若者でも車が買えるようになり、特に公共交通が未発達のこの地域では多くのものが個人の車を持っていた。
村長も当然車を持っていたが、彼はカタブツで、代々続く為政者で商業の名家。長男と言うこともあって父……先代の村長につきっきりで指導され、高校卒業後は村の拠点である商店の経営と前村長の秘書業で忙しかったが、未来の伴侶はお見合いで決まる予定だった。
一方の妹は自由奔放で、彼女もいつかは政略結婚じみてお見合いに出されるはずだったが、身分違いの青年と恋に落ち、車の中で逢瀬を重ねていた。
妹ははっとするような美貌の持ち主であったから、想いを寄せる男子は少なくなかったし、その恋人を良く思わないものもいた。妹の奔放さはどんどん村の話題となった。
そのために先代の村長がでっち上げたのがフックマンだった。アメリカでは一九五〇年代から、車内での不純異性交遊を抑制するための方便として、そういった場面を襲撃する鉤爪の怪人フックマンの都市伝説が使われていた。その話を聞いた先代の村長は、その噂を流布したのだ。
しかし誰も信じなかった。当たり前だ。こんな田舎で、フックマンなるハイカラな名前も、いかにも大人が用意したでっちあげだし、無節操な不純異性交遊の自覚がある若者たちはフックマンが自分たちを抑えつけるための虚言ということも理解していた。
情報だけでは止められない。そして先代の村長は、自分の娘に恋するカギヤという愚鈍な青年を走狗とし、鬼の面、藁の外套、鉤爪で姿を整え、自分の娘とその恋人の乗る車を襲わせたのだ。脅すだけのはずだった。
「……妹さんの乗っていた車種は?」
「カローラです」
「そうですか……。で、何が起きたのです?」
「全員死にました。カギヤは勢い余って妹の恋人を殺し、殺人を犯したショックで茫然としたカギヤを、妹が殺した。フックマンの鉤爪で」
「つまりその時点で二代目のフックマンとなっていたわけか」
「そして妹も自ら命を絶ちました。……警察の事件簿の上では、カギヤが妹とその恋人を殺し、最後に自害したことになっています」
「妹さんのお名前は?」
「エイコです」
「……わかりました。わたしは何も言いません。なにしろ警察ではないのですから。へへ、しがない怪奇探偵ですよぉ。しがない怪奇探偵。……たまに家電修理。だから、皆様の過去にとやかく言う権利はないです」
「我々が罪深いことはわかっています。だが、他に何か手がありましたでしょうか?」
「それを考えるのもわたしの仕事じゃないですね。夜が明けます。もう大丈夫かもしれないですね」
村長に言った言葉はほとんど自分に言い聞かせたものだった。
怪奇や怪異に説教や説得が通じるのであれば、こんな仕事は聖職者に任せればいい。池袋抗争で明智が諭してくれたように……実際彼は聖職者だが……仕事の中で後回しにしたいことはそうしてしまい、上手く別の人間に押し付ける。その代わり、浮いた分の仕事量は別でこなす。青二才のうちはそれでいい。
シキミは答えられなかった。モラルのない不純異性交遊……それを止めるための出来の悪い方便……。結果的に三人死んだ。だが代案は挙げられない。答えはわからなかった。
だから自分のやれることをしよう。シキミは愛車の後部座席のガラスをノックし、今夜最初に出会った人物の名前を呼んだ。
「エイコさん」
「はい」
エイコはまだ車の中でハーブティーを飲んでいた。シキミは扉を開け、彼女を外へと誘った。東の空が白み始めている。時間が来る。
「落ち着いて聞いてくれると助かります」
「なんでしょう」
「実はエイコさんは……死んでいます。死んだのは四十五年前、一九七七年の晩秋。今は二〇二二年の秋」
「……え?」
「詳しく知る必要はないです」
エイコ。一九七七年の秋に、カローラに乗って恋人とデートに出かけ、そのまま帰らぬ人となった村長の妹こそ、シキミが今夜最初に助けた女性……エイコだった。
「でもタケシが……」
「タケシというのは恋人でしょうか。そのタケシさんがフックマンに殺された後、あなたはどうしました?」
「逃げましたよ……。逃げたに決まっているじゃないですか! 走って、走って、それでシキミさんたちに助けられて」
「ええ。一寸先も見えない真っ暗闇の中をまっすぐに走っていました。わたしには出来ないです。ハーブティーを飲んだでしょう? 水筒の容量以上に飲んだでしょう? でも、実はまだ水筒は満タン。この村に着いてから、あなたはわたし以外の誰かと話しました? わたしは、あなたを誰かと話させようとしました?」
「いいえ」
「そして、わたしたちは走っているエイコさんに後ろから追いついた。でもわたしたちは、エイコさんを襲ったフックマンも、惨劇の現場であるカローラも目撃していない。あれは一九七七年の出来事だから。あなたは四十五年間、毎年あの場所に現れ、逃げ続けている。そして誰かの車に乗り、フックマンはあなたを追ってくる。あなたのお父さんが流布した不純異性交遊抑制のためのフックマン、それに説得力をつけるために受肉させたカギヤフックマン、そして実際にフックマンに襲われて死んだエイコさんとタケシさん。この時点で、この土地のフックマンは伝承として“成った”のです。そのコアとなるのは、先程経文風車にかけたカギヤ……フックマンのアバター。そして実際の恐怖と脅威を裏打ちするあなたみたいですね。あなたは毎年フックマンの脅威をあの場所でリマインドし続けた」
「……」
茫然としていた。憎悪も悲しみもなかった。情報過多でオーバーヒートしてしまったか、或いは圧倒的虚無により白紙になったのか。だが、彼女がいく先はもう一つしかない。
「エイコさん、何が一番辛いですか?」
具体的には訊けない。タケシが死んだことか、父親の暴走か、村の友人カギヤの凶行か、それとも自分がカギヤを殺してしまったことなのか……。自分がもう死んでしまっていることか? そもそも彼女はエイコの霊魂の成れの果てなのだろうか。死んでいることにも気づいていないのに、一九七七年の少女は二〇二二年のスマホや車を見ても驚かなかった。フックマンの犠牲者代表として、最適化されて毎年あの場所でフックマンをリマインドする怪異……。四十五年前に死んだエイコ本人ではないのなら、自分が死んだことも、自分がカギヤを殺したことにも気づいていないのは自然かもしれない。それはフックマンの脅威を伝える装置には不便で不要だからと切除されているとしたら……。
「楽になりましょう」
シキミは経文風車の風をふうと吹きかけた。
エイコが消えたのは経文風車による成仏なのか、差し込んだ日光により今年のフックマンの時間が終わったからなのかはわからなかった。
そして誰も聞いていないと判断し、シキミは吐き捨てた。
「わたしは全然楽じゃないよ。……でも生き抜いてやる」
〇
1 HOUR LATER……
「散々な夜だった。これでフックマンを退治出来たかもわからないし」
車のハンドルを握り、朝焼けに背を向けてポインター号は西へ走る。紫紺の空は徐々に白み、ちりちりと小鳥の声が混じり始めた。あれ程物騒で騒がしかったのに、冷たい静寂に覆われていた夜はどこかへと逃げ、新たな一日が始まっていた。
「そうだな」
明智はそれしか言えなかった。彼も言葉に悩んでいるのだ。昨晩は何一つ成果を上げられなかったかもしれない。分身フックマンを大量に殺したが、シキミがフックマンのコアと認識したエイコの霊を成仏させることで本当に解決したのか、或いはあの場所にフックマンの伝承が残る限り、明智の仮説通りに次のフックマンが現れるのか……。事実、明智とキクコもフックマンとなっていた時間帯が僅かながらあった。そしてキクコは気付いていないかもしれないが、怪殴丸は分身フックマンを射殺したが、フックマンという怪異の根本的な解決にはなっていなかった。フックマンの正体が伝承された情報であるならば、情報を殺すことなど何者にも出来ないのだ。
「進捗はあったか?」
「一応ね。14番のチェッカーをクリアしました」
14→徒歩、ランニング、自転車、自動車で累計五〇〇キロメートル以上移動
「累計五〇〇キロメートル以上の移動。推測出来るのはこの呪いがわたしに憑いた時期ですね。新潟に行った時に既に憑いていたのなら、新潟との往復、栃木との往復で五〇〇キロは超えている。今回の東北行きでここがクリアになったということは、わたしが呪われたのは最近なのでしょう。……最近は、この呪いのことがどうしても頭をよぎる」
「忘れることは出来ぬだろうな。残酷だが、そういうものだ。そういう呪いなのだろう。他人の現在、過去、未来のすべてに纏わりつき、必死になって呪いを剥がそうとする人間を嘲笑する。本質的には死を与えるというよりも、生きている間の記憶を呪うものなのだろう」
「……忘れてしまえたら楽なんですかね?」
それは皮肉でも悲観でもなく、少女のように純粋に問うものだった。
先程シキミはエイコの霊に壮絶な過去を伝えることなく成仏させた。真偽はわからないが、エイコ、エイコの恋人、エイコに恋する男の三人が四十五年前に死んだ。誰が誰を殺したかはわからないが、三人も死んだのだ。それでも現在まで霊魂が残り続けたのは、筆舌に尽くしがたいひどい無念か怨念があったに違いない。だから思い出す前に……成仏させたというのはいささかきれいな言葉であり、手段と結果からすればシキミはエイコを消した。
自分もこのまま、呪いのことなど忘れて何も知らないまま二十七歳で死んでしまう方が楽なのではないか? 木工の魔窟の人間ソファが言っていたように、辛いことを消去することで緩やかに死んでいく精神的安楽死こそが最大の幸福なのでは?
……キクコも元に戻らないままの方が幸せなのでは?
「答えは出ぬ。だが、我々と違って超常を相手にしない人間は、辛い記憶を丸ごと消去するという選択肢すらない。我々は決してそういった人間に対し優位ではないが……。だが……」
シキミは忘れてしまった方が楽な記憶をいくつも抱えている。人間ソファに抱かれたこと、紬が目の前で死んだこと、大学の除籍、27クラブの呪い。そういったものをすべて忘れ、好きなように生きて呪いで死ぬのはお気楽だろう。
キクコは一切の手がかりすら掴めないだけで記憶のほとんどを失っている。ここまできれいさっぱり忘れてしまうと以前の記憶への愛着すらない。
そして明智も知らなかった方が楽だった事実を知ってしまっている。
日出菊子……。煉獄に落とされ、そこから帰還した唯一の人間。だが、五十歳以上も若返り、記憶も失ったキクコは煉獄に落ちる前のキクコと同一人物だろうか? 同じ名前、同じ姿、同じDNAの別の人間なのでは? そしてそれをシキミにもキクコにも話すことが出来ない。もしも明智が二人にこれ程の親しみを抱いていなければ、むしろ捨て台詞めいて真実を伝えることが出来ただろう。今ではもう不可能だ。キクコが壊れてしまう気がする。煉獄の記憶を取り戻してしまうと煉獄に行く以前のキクコ、煉獄帰りの記憶喪失のキクコともまた違う、別のキクコが生まれてしまうような恐怖さえ抱いた。
「答えは出ぬ」
「答えは出ていますよ。サンタクロースにプレゼントをもらえるクリスマスが一番。正体が親だったなんて知らずにね」
……。大昔のクリスマス、自分が幼いシキミの枕元にプレゼントを置いたこともあったのだろうか? それ程大事なことも思い出せない。それを苦しいとも思えない。
「冬が来るな」




