#3
「聞き込み、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
簡単な話だ。このあと街の住人は全員が演じている。自分のような異物が話しかければ、さっきのレレレなジジイのように、決められたセリフを繰り返すだけだ。それも、全員がとびっきりの善人でピュアで、なおかつ役に入りきっている。
一つでも絶対の法則がわかれば、他の法則は簡単に見つけられる。
「……」
紬はテレビを観てゆるりとこの世界の情報を探っていくようだ。シキミの考えでは、外で足を使うシキミにも、ここでゆっくりとする紬にも、予想される危険は半々だ。
アルファ視点ならばシキミは所詮取るに足らぬたかが人間の小娘。野放しにしていても全く問題のない雑魚である。アルファが築いたこの街の治安とコンセプトを乱すことなど出来はしないとアルファは考えているだろうし、シキミ自身もそう思っている。だが大天使の化身はアルファにとっても放置は出来ず、細心の注意を払うべき存在だ。
怪殴丸は置いていこうと思った。怪殴丸が必要になりそうで、なおかついざという時に怪殴丸を使いこなせるのは紬の方なのだ。
〇
怪殴丸。
正体不明の金属で作られた拳銃で、所謂オーパーツである。
岩倉使節団がサンフランシスコから持ち帰ったとされ、長らくナツメ商会の最深部に保管されてきた。怪殴丸の銘が示す通り、怪異に対して殴り殺すような強力な威力を発揮し、それぞれ弱点の異なるワーウルフや吸血鬼等の怪人、ゾンビ、ゴースト、日本由来の妖怪、海外由来の妖怪、果ては化身まで殺害可能な怪異中の怪異、未だにメカニズムのわからぬ千古に解きがたき謎に包まれたナツメ商会の切り札である。
当然リスクも存在する。怪殴丸は寿命を削って弾にするため、一発撃つだけで使用者は激しい眩暈と頭痛、吐き気、吐血や鼻血、血涙に襲われるが、それで済めばいい方だ。大体の者は引き金を引くと同時に昏倒してしまうため、使用するシチュエーションは自ずと敵が一人の場面に限られ、最悪の場合は寿命を使い果たして相打ちになってしまう。
まだ若く、日本にいた頃は体育祭でも大いに頼りにされるくらい運動神経や体力にも優れ、地元豊島区の陸上大会にも助っ人出場したシキミならば一発は反動にも耐えられるだろう。しかし紬の言うとおりにこの場所にいるのが純粋な人間ならば、アルファとの遭遇時以外に怪殴丸の出番はない。
この昭和の街が、無法の下に、模範に任意で従うことで成り立つという絶対のルールがあるように、シキミも絶対のルールを決めた。単独行動中にアルファと遭遇してしまった場合、戦闘の選択肢はない。即ち中学時代は豊島区の女子で最速を誇った俊足による全力疾走と逃げ隠れで紬の下へと帰還し、紬に怪殴丸で撃ってもらう。これが、この街での調査における最優先事項にして絶対のルールである。
「おばちゃん。これと同じのある?」
「はいよ。百円」
シキミがタバコ屋で店主に見せたパッケージは二十一世紀になってから発売された銘柄だったが、そこには問題なく並んでいた。シキミの暮らす二〇二二年では六百円だが、ここでは街のコンセプト通りの値段だった。
「大きいけど、これでお願いします」
差し出したのは二〇二二年当時の福沢諭吉の手の切れるようなピン札。おつりは当たり前のように聖徳太子の旧紙幣で返ってきた。概ねシキミの想像通り、想定通りだった。紬が持ち込んだのは全て最新の紙幣であったため、この街で戻ってくるのが旧札であるか試したのだ。その結果の副産物として、この街はあくまでも二〇二二年であるために最新の銘柄のタバコもあることは、最早驚くべきことではなかった。通貨も商品も、外の世界から来る人間が不自由しないようにされているのだ。喉に小骨が刺さったような違和感は、物価の違いである。極端な値上げが定期的に行われるタバコとはいえ、同じ商品で六倍もの差があるのだ。それでは山中研究所の地下で買い物をすれば得をするばかり、山中研究所は貧しくなるばかりだ。
そもそも、山中研究所がこのような場所を作った資金はどこから捻出されているのだろうか?
「善意か、任意か。それが問題だ」
しばし散策をしたシキミは大きな池のある公園へ辿り着いた。池の縁では年配の男性が手からは釣り竿、口からはタバコを突き出し、釣り竿の先からは水面に向かってぴんと伸びた釣り糸、タバコの先からはなんとも気の抜けた紫煙がふらふらと行き場を失い空に伸びていた。子供たちはゴムとびにめんこ、キャッチボールと、令和の時代では公園では禁じられている遊びばかりだった。
ぱちん、となる音に振り向くと、木陰のテーブルでは池の釣り人よりさらに老いた男性たちが将棋を指し、どうやら負けたとみられる方が金を支払っていた。賭け将棋だ。
「どうも。次はわたしと指しませんか?」
「いいねぇお嬢ちゃん」
「もちろん、賭けますよね?」
「俺が勝ったらパンツ見せてくれ」
「いいでしょう。わたしが負けたら素っ裸になって逆立ちして池を一周したっていいですよ。その代わり、わたしが勝ったらわたしの質問に答えてください」
将棋は得意である。決して負けない自信はあったが、昭和の世界の住人はまだ知らない羽生善治、藤井聡太、そしてAIの存在で大きくレベルアップした将棋界を知るシキミと知らない昭和では勝負にならない。
次第に長引く老人の長考。一方のシキミは早指し。あっという間に決着はついた。シキミの圧勝だった。
「参った。強すぎる。それで、質問ってのは?」
「ええ、この街の住人は、何かを恐れているんですか?」
「参ったなぁ、お嬢ちゃん。意味が分からない」
「何かを怖がっているんでしょう?」
「参ったなぁ、お嬢ちゃん。意味が分からない」
「わかった。もっと率直に訊く。この街はアルファに支配され、アルファが一番心地よかった時代を懐かしみ、それを令和に再現するために作られた町。あなたはその役者。任意で善意と言っているけれど、結局はアルファが怖い」
「参ったなぁ、お嬢ちゃん。意味が分からない」
「ファックオフ!!」
勝利した報酬は得られないと理解した。この老人にアドリブはなく、役を降りるという選択肢もないのだ。この街では、この老人は公園で将棋を指す以外の役割がなく、令和からの侵入者にヒントを与える立場にない。知っていても与えない。それが、任意と善意による山中研究所への忠誠心であり、それは鋼のような強度で彼の行動を支配する。その行動原理がやはり任意と善意であれば、自らの優等生っぷりに酔いすらしただろう。
シキミはアメリカ仕込みの悪態をついて将棋盤をひっくり返し、キャッチボールの少年のボールを横取りして釣り人の多い池に投げ込んだ。
「魚まで洗脳出来るかな!? ここは普通じゃない……。ここは普通じゃないんだ!」
自らにそう言い聞かせないと、さらなるどつぼにはまってしまいそうだった。かと言ってこれ以上感情に任せてものをいうと、理性を失ってとめどなく悪態をつく下品な子供になってしまう気もした。
「……」
落ち着け……。こんなの全然簡単だ。新聞に載っていたセンター試験の問題で全教科満点をとるのより、テレビのクイズ番組で現役東大生を鼻で笑うのより簡単だ。楽観的に考えれば、公園で将棋を指す老人すら口を割らない、という情報を得られた。
いかにしてこの難局を切り抜けるべきか考えたシキミは、一道の光明を見出した。それはやはり『ワラビさん』である。
……。何故、祖母が若返り、ワラビさんになったのか。その謎はまだ解けなくていい。だがこの街の住人から情報は得られない、という絶対の法則がわかった。一つでも絶対がわかれば、一六〇通りの法則が見つかる。シャーロック・ホームズもそう言っていた。だから手始めに、わかるところから『ワラビさん』の法則と謎、仕組みを解く。
この時代は寛容だったと聞く。シキミは歩きタバコをしながら、スマホにマッピングした借家に戻った。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい。お風呂にしますか? ご飯にしますか?」
窓の外では青かった空が徐々に焼き菓子色になり、近所の人家には素朴な白熱の燈火が点じられ始めた。この場所では街中だろうと自然の多い公園だろうと、構わず会話の合いの手を打ってきた小鳥の声は聞こえなくなり、代わりに豆腐屋のラッパとラーメンのチャルメラが窓を揺らした。どう再現しているかは正直な話お手上げではあるが、日光による時刻の反映もあるのだ。昼夜の切り替えのみならば照明のスイッチを切ればいいのだが、時刻の反映ともなると天井が回転しているとしか思えなかった。
「紬さんが作ったんですか?」
「はい。わたしはカマエルの化身ですが、宗教上食べられないものはありません。とは言っても、今日は豚コマのカレーですけどね」
「またノスタルジーなものを」
今のテレビではエンドレスで『ワラビさん』が流れている。しかしその『ワラビさん』は、例えば将棋の老人や釣り人、タバコ屋の老婆のようにナチュラルに街に溶け込むのではなく、どこか現実離れして喜劇じみた物語を展開していた。それはやはり生活ではなく、番組だった。だが『ワラビさん』は脚本に沿った山中家の日常を二十四時間リアルタイムで放送しているのではなく、再放送も含まれていた。
「カツを乗せますか?」
「いいんですか? 大盤振る舞いですね」
「物価が安いですから。それに一人暮らしではせっかく腕をふるってもどこか空しい。喜んでもらえるのなら奮発してしまいます」
ちゃぶ台で『ワラビさん』を睨みつけていると、カツに包丁が入るさく、という心地よい音がした。カレーのにおいが鼻孔をくすぐり、肩肘張りすぎていたシキミの全身がどこか弛緩するような感覚があった。
「あ、紬さん。運びますよ」
「大丈夫です。ビールをお注ぎします」
白い泡の冠を被る琥珀色。紬は器用にビールを注ぎ、泡の冠は最小限だった。まるで紬みたいだ、とシキミは思った。新人にはビールは嫌いだと言ったが、本当は大好物だ。アメリカのビールと違って日本のビールは偉大。そして、紬はあの若さで大天使の化身に選ばれた偉大な人物で、さらに数百年生きることで人間性の涵養と陶冶を重ねた。それでも決して威張らず、小さな冠で満足し、それを笠に着ない。
自分が男だったら紬みたいな人間と結婚したいとまで思った。料理を作らせ、風呂の用意をさせ、ビールを注がせるなんて前時代的な考えなのに。
「いただきます」
とても甘いカレーだった。それでも粗挽きのスパイスと溶けた野菜のざらりとした感触が舌の上に残り、肉の脂とビールの化学反応は絶品で一気に疲れが吹き飛んだ。公園で演じた失態は、先程までは当たり前のリアクションだと思い出しても憤るものだったが、紬のような鷹揚な姿勢で臨むべきだったと反省さえした。
「タラちゃんの役者が違いますね」
「とてもいいところに気が付きましたね」
再放送の『ワラビさん』は主役こそ祖母であるものの、ワラビさんの息子のタラを演じる子役が昼間に見た最新版とは別人だった。
『ワラビさん』はこの街において絶対。途絶えることなく放送される模範。
それでも人間は時間には逆らえない。タラちゃんを演じる子役も成長し、いずれタラちゃんを演じられなくなる。だから交代する。
「一つ。『ワラビさん』は絶対に毎日最新版が放送される。そして、『ワラビさん』の出演者は、『ワラビさん』の出演者を演じる役者を演じている。そして彼らも成長や老化が来る」
「いいですよシキミさん。と、いうことは?」
「そうですね。アルファはこの街で、ゾンビを増やしているのではないということはわかりました。出演者を全員ゾンビにしてしまえば、役者の交代は必要ないから」
「正解です。……多分」
「そうなると祖母だけがわかりませんね。ゾンビは老化を止めるけど、若返りはないはず。ですが、大体わかってきました。この街の絶対を……ぶっ壊す方法」
「穏やかではないお言葉ですね」
「そもそもこの街は、善意と任意で成り立っているんです。わたしは徐々にそれに染まりつつあった。物価の安さもそうですし、紬さんの良妻賢母っぷりに、この街で暮らすなら紬さんを嫁にもらいたいと思ってしまった程。それは結局、この街の持つ同調圧力のせいです。みんな嫌々従っている、ではなく、みんなやりたくてやっている。その空気はわたしのような異物に強い圧力を加え、この街の住人でいることを強いる。やがてこの街の居心地の良さに心底馴染み、忠誠心とこの街を守ろうとする殊勝な心が芽生える。同調圧力。日本人に一番効く力だ。残念ながら、わたしはそれなりにアメリカ暮らしも長いのですよ。紬さんにそんなつもりはなかったでしょうけど、幸せであろうと試み、幸せを感じている人々の中で幸せを感じれば、それは環境のおかげだと思い込んでしまう。それが、この街を支える鋼の忠誠心の端緒となるものです」
「では、どうします?」
「長居はしていられませんね。わたしが正気を保てるうちに、『ワラビさん』をぶっ壊します。祖母以外なら誰でもいい。『ワラビさん』の出演者を襲撃します」
〇
山中研究所の某所。ここではパソコン、スマホ、プロジェクターと言った類は負い目なく使用出来る。白衣を着た研究員が最新鋭の機器で何かを作り、ガラス張りの見通しの良い会議室では、洒落た格好の芸術家といった風体の複数の男女が楽しげにディスカッションを行っていた。簡単に言うならば、この洒落た男女は脚本家、演出家といった、実際芸術家で間違いない。彼らが『ワラビさん』の製作の中枢である。彼らは昭和のコンセプトとは無縁に、そして最新鋭でもなく、自らのパフォーマンスを最大限に発揮できる環境とツールを使用し、ローテーションで毎日『ワラビさん』を制作しているのだ。彼らは何も演じていない。生粋の研究員にして、クリエーターだった。
だが、このクリエーターたちと研究員たちのお仕事については別段のお話もない。
「恩田さん」
やってきたのは恩田なる偉丈夫。社長だの部長だのといった御大層な肩書はなく、ただの恩田だった。だがただの恩田の登場に全員が畏まり、彼の方向を向いて頭を下げた。
「楽にしてください」
言葉は温厚だった。だが一九〇センチを超える長身をがっちりとした肩幅はどこか異国……? 要するに日本人離れした骨格だった。しなやかな筋肉と、冷酷な性格を暗喩する冷たい目の光は、まるで豹のようだった。
「この理想郷にふさわしくない行動をとろうとするがいるようですね。こんなことは前代未聞だ。ほほぉう、大天使カマエルの化身に、夏目家の末裔ですか。怪殴丸を所持しているでしょうね。大人しく暮らしていればいいのに、仕方がない」
理想郷にほんの少しの瑕疵があれば、それの原因が例えバグやネズミであろうとも全力で叩き潰す。その神経質は、理想郷を守るための崇高な使命感か、もしくは肉食獣めいた凶暴性か。いずれにせよ恐怖にものを言わせる悪人の性根を隠すため、まるで芝居のセリフみたいな言葉をのたまうのが恩田という男であった。
「私が直々にお説教してあげましょう」