フックマン #1
東北地方某所。
前後を見れば、ハイビームにしてもまっすぐな道が果てしなく続いている。左右を見れば百メートル前と区別のつかない鬱蒼とした森林。まるで一次元の世界だ。それすらも、車のライトを消せば何もなくなる。
この車……彼氏のタケシが奮発して買ったカローラは、エイコにとっては走る愛の巣だった。親の目を盗んで二人は良くドライブに出かけた。何もない場所だったが、お互いがいれば、そしてこのカローラと言う場所さえあればそこは天国だった。
カーラジオをつけると、ちょっと時代遅れの曲が流れ出す。
男はオオカミなのよ、気をつけなさい。
ピンクレディーの『S・O・S』。時代遅れのお節介な教訓だ。
「ちょっと古い曲ね。替えるわ」
ダイヤルを摘まみ、チャンネルを調整する。運転席にエイコの頭が近づき、より強く彼女のにおいをかいだ時、タケシは徐々にブレーキを踏んだ。そろそろお楽しみの時間だ。
「エイコ」
「えぇ? もぉう?」
小さな鈴を鳴らすようにエイコはころころと笑い、タケシの首に腕を回して……
「SOS! SOS!」
おかしい。チャンネルは変えたはずだ。ならば何故まだ先程の曲の続きとして、この救難信号のフレーズ連呼が続いている?
不審に思って不穏な沈黙がしばし、車を支配し、二人は耳をすませた。それを待っていたように、ぎぎぎぎぎと鼓膜を直接ひっかくような聞くに堪えない轢音が発生した。周囲には何もない。だが、自慢のカローラに傷が? そう思ったタケシは一気に熱から醒め、周囲を見渡そうとした。その瞬間にぱきき、と小さな音を立て、窓が一気に曇って何も見えなくなったのだった。
「いくら寒いとはいえ、これはおかしいぞ」
そしてタケシが助手席側、フロントガラスを見るとそこは正常だった。タケシの座る運転席のみが一瞬にして灰色に覆われ、視界を失ったのだ。
カーラジオはまだ騒いでいる。その音を不快には思わなかった。これ以上奇妙な音を聞いてしまうとおかしくなりそうだったし、この音が聞こえているうちはまだ自分たちは正常な世界に繋ぎ留められている気さえしたのだ。
「SOS! SOS! やつが出た……“フックマン”だ! 警戒せよ! 繰り返す。“フックマン”出現! 全員すぐに逃げろ!」
世界と、カローラと言う子宮の中。それを繋ぎとめる臍帯めいた電波さえも狂ってしまった。ラジオは完全に正気を失い、歌ではなく意味不明の言葉を繰り返していた。
「ちょっと待て、エイコ。この窓ガラス、曇っているんじゃない」
「どういうこと?」
「傷だ。ものすごく細かい傷が……窓全面を覆っているんだ。摺りガラスになってしまっている……」
タケシが窓ガラスに触れると、彼の体温で掌のシルエットに本当に曇る。タケシの言う通りに、このガラスだけが曇っているのは一瞬にして傷が覆い尽くしたからだ。それにどこか安堵さえしていた。現象自体は恐ろしいはずなのに、何もかもわからない状況下で一つでも謎が解けたことが、麻痺した感覚に気休めの緩和を与えたのだ。
「一体何ギャバァーッ!?」
CRAAASH!!!!!
突如として窓ガラスを突き破ったのは、光沢を失う程に血で染められた黒鉄の鉤爪。その長さは三十センチはあっただろう。先端は三日月のように湾曲し、釣り針のように返しがついている。その鉤爪が……。タケシの頸動脈に食い込み、一目で死ぬとわかる夥しい出血を伴って喉笛を引き裂き、顎に引っかかってようやく引き裂きが終わった。びっと飛んだ血は直接エイコの目を打った。瞬きすら間に合わない程一瞬の出来事で、瞬きも出来ない程ショッキングな光景だった。
「ダメダメ、ダメ、ダメダメ……」
いつの間にかカーラジオは元の曲に戻っている。陽気な歌詞と同じ言葉を熱病のうわごとめいて繰り返し、エイコは鉤爪がタケシを車外に引きずり出すさまを見ていた。もうタケシは助からない。そう判断したエイコは、一生後悔するであろうと理解しながら反対側のドアを開け、逃走した。
「今日もまだ誰か、乙女のピンチ」
カローラだけが何も知らずに歌っていた。
Daughters of Guns
EP6 HOOK MAN
エイコはアスファルトと土の境目を駆けた。恋人が死んだ……それも正体不明の存在に惨殺されたという状況下において、自分の走るこの境界線が彼岸と此岸の野球ボールめいた縫い目であり、今自分は生者でも死者の両方であると錯覚するようなポエットを与えた。そういった一種陶酔じみた高揚を糧に走らなければ、すぐにあの鉤爪の怪人に追いつかれて自分が彼岸の住人である死者に転んでしまうとさえ思ったのだ。
そして、その光は唐突に表れた。後方から強くハイビームが照らす。車だった。もう自分は死なないという不思議な全能感を以て彼女は道に飛び出し、両手を広げてその車を停止させた。
「馬鹿野郎! 急に飛び出すな! 死にたいのか!」
タイヤが焼けるようなブレーキ痕を残し、大きな車が急停車した。運転席の女性はぐいんと頭をハンドルにぶつけそうになった後、血相を変えて飛びだし、エイコを恫喝した。こんな休日の夜なのに背広で固め、神経質そうな性格を暗喩する細い銀のフレームのメガネ。そのメガネを割りそうなくらいに大きく目を見開き、怒鳴ったのだ。だがそれは生きている人間のリアクションだった。もう助かったも同然だと、エイコの足は極端な緩和でガクガクと震えた。
「おケガはないですか?」
助手席からやってきたのは白いレースのワンピースと薄紅色のカーディガンの女性で、表情は柔和だった。彼女自身には何も敵意や害意はないだろうが、おそらくその女性すら認識していないであろう脅威が彼女に悪霊のように付きまとっている。だが、今は短気な背広の女性よりもこちらのふりふりの女性を心底有難く感じた。
「助けてください! 恋人が殺されてしまったのです!」
「殺された?」
「大きな鉤爪を持つ何者かがタケシを殺したのです! 喉に尖った鉤爪が食い込んで、引き裂いて、顎を砕いて……。車外に引きずり出された時、もうタケシは断末魔すらあげませんでした」
まるで何度もその光景を目にしたように、エイコは恋人が死んだ瞬間を鮮明に思い出して説明出来た。
その必死の訴えを聞いていたのかスマートホンを持ったトレンチコートの男が後部座席からやってきた。
「大変でしたね。あなたのお名前は?」
「エイコです」
「エイコさん。我々と一緒なら大丈夫でしょう。まずは車にどうぞ。外は冷えます。申し遅れました。私は明智と申します。運転手は夏目樒さん、助手席にいた可愛らしいお洋服のお嬢さんは日出菊子。まずはシキミさんの強い口調をお詫びいたします。車へどうぞ」
明智なる男に促されて案内された車の中は、まるでSFマンガの宇宙船のように未来的で快適、座るだけで夢心地になりそうな心地の良いシートに目に優しい照明、運転席付近にはいくつもの装置のダイヤルが設けられていた。
恋人を殺されて恐怖する女性の隣には女性がよかろうと、運転席のシキミはそのままだったが、明智は助手席へ、そしてキクコがエイコの隣に座った。そして魔法瓶から、ハーブティーを新しいマグカップ……用意がいいことに誰も使っていないマグカップを取り出し、ハーブティーをエイコに飲ませた。やはりこのキクコなる女性は親切で温かみがある。だが、何かが恐ろしい。ウソもついていないし、演技もしていないが、先程の鉤爪の怪人と同じようなものを抱えている。それでも、その違和感を中和するキクコの安穏とした空気に巻き込まれ、急激に緊張が緩和したエイコは一気にまどろみの揺籃へと落ちていった。
最後に思い出したのは、自分の後ろからやってきたこの三人は、自分たちが乗ってきた無人で血みどろのカローラ、そしてタケシを殺害した鉤爪の怪人を全く目撃していないという不可思議だった。
エイコが眠ったのを察した明智は、ナツメ商会アーカイブにアクセスして得た情報をシキミとキクコに共有した。社員ではない彼も、事実上のシキミ、キクコバディの一員としてアーカイブへのアクセス権を与えられていた。
「間違いない。毎年同じ日、同じ場所、同じ属性……つまりカップルの殺害。毎年同じルーティンを繰り返す怪異。“フックマン”だ。ユニスポとナツメ商会アーカイブの両方に記録されている」
……
【ある意味優等生!? 人気のない場所でカップルを襲う鉤爪の怪人!】
本誌記者が衝撃の情報をキャッチした! ――今、東北の静かな森がざわめいている。「人気のない夜の道で、イチャつくカップルの車だけが狙われる」。そんな信じがたい話を本誌はキャッチした!
噂の主は“鉤爪の怪人”ことフックマン。
なんと出没は毎年同じ日・同じ時間・同じ場所という几帳面ぶり。まるでカップル狩りの出勤表でもあるかのようだ! 地元の老人アポロ・クリード氏(101)はこう証言する。
「“鉤爪の怪人”……フックマンは大体五十年程前から出現が確認されています。フックマンが現れる場所はまっすぐに道が走り、その周囲を深い森林に囲まれています。人気のない場所で人や車の往来も少ないですが、この日に限ってこの場所に足を踏み入れたカップルは車の中でイチャつき、そしてフックマンの襲撃を受けてしまうのです。おかしくないですか? 周囲には確かにラブホテルもありませんが、フックマンが現れるこの日に限ってカップルはこの場所で発情し、劣情を抑えきれずに……。おっと、私もまだまだ現役ですな。あれはもう五十年も前のことじゃ。私も昔はモテてな、危うく襲われるとこだったが、既に妻子のある身。このままだと不倫がバレると、当時のかみさんがフックマンより怖かったんじゃ」
人気のない場所でイチャつくカップルへの襲撃……。まさにホラー映画のモンスターにおいては一〇〇点満点の行いだが、イチャつくカップルを襲うホラーの怪物は意外とオタク野郎のイケてない人間に退治されることも多い!
本誌特派員がその日にその場所に向かってみたが、独り身野郎には興味も用もなしと言わんばかりに血も涙もないスルー。フックマンには会えなく、あえなく日の出を迎えた。
だが本誌特派員は諦めない! 来年こそコスプレイヤーか声優の彼女を車に迎え、一緒にフックマンに襲われてやる!
次号「フックマンの正体は街のイケてない数学教師」「フックマン、インドでヨガパワーを習得」「ついに出た!? 令和版フックガール、登場か!?」など怒涛の続報を待て!
……
「今年も現れたわけですね」
「当然だが、共存は不可能な存在。怪異皆保険には誘うことは出来ぬ」
「だからわたしたちはフックマンを退治しに来たわけじゃあないですか」
「そうだな。ナツメ商会アーカイブでも、個別の項目が設けられている怪異としてはナンバリングの数字が小さい。それだけ古くから観測されている怪異かつ、毎年死者まで出すということだが、祓うことは出来なかった。今年は違う」
「怪殴丸」
「そうだ。だが、我々はこの女性の後ろからやってきた。それでもこの女性が乗っていた車も、襲われた現場……説明通りであれば酸鼻極まるゴアであろう場所も目撃はしていない。何もないまっすぐな道だった。認知のズレ? それともフックマンの能力? 或いは、この道自体がフックマンと癒着し、怪異スポットと化しているか……」
「つまり存在は知っていたけど、何も知らなかった。わたしたちのご先祖、意外と役に立ってなかったんですね」
「そう卑下するな。ナツメ商会でも武力に依った怪奇現象解決が可能かどうかの試金石にはちょうどいい。勝てぬと思えば夜明けを待てばいい。また来年リベンジすればいいのだ」
……また来年があると思っているのか? “27クラブ”の呪いを解かない限りシキミは来年にはもういない可能性の方が高い。初対面時に、自分にはコミュニケーション能力に問題があると何度も言った明智。確かに直接的に「君は助かる」とはなかなか言ってはくれないが、こうやって行動では示してくれる。
「えぇと、シキミさん、明智さん」
「どうしました? キクコさん」
「エイコさんに残っていたフックマンの波長に、怪殴丸が反応しています」
「お出ましか。さぁ、お楽しみの時間だ」




