#2
「割に合わない! “アルファ”とやりあうつもりですか!? わたしの給料じゃ割に合わないですよ!」
“アルファ”。
人間、或いは死後間もない人間を呪いに感染させ、知能と運動能力を著しく減少させた状態……所謂ゾンビ状態の、正体不明の始祖、最初の一人が“アルファ”と仮に呼称される。
ゾンビとなったものは先述の通り、知能と運動機能が退行して自我すら失うが、その非常に死にやすく退治されやすい状態を生き延び、長く過ごしているうちにゾンビは徐々に失ったものを取り戻し、さらに長い時を経ることでゾンビになる以前よりも優れた能力を身につける。特に運動能力の強化が顕著だ。
ナツメ商会でも百年以上前からゾンビの存在が記録されており、その始祖であるアルファがもし生きているのならば、既に化身と大差ない程の能力を身につけているのでは、と考えられている。三年目になったばかりの新米霊媒師では手に余る相手だ。
「さすがにゾンビの始祖が相手では動揺してしまうのも無理はないです。しかしアルファと事を構えるのは最後の手段です。出来ればアルファとは会いたくないですね」
「イマイチわかりかねます。怪殴丸まで持ってアルファのいるかもしれない場所に来たのに、アルファを避ける?」
「時間です。来ます」
かたかたかた、と、せわしないサンダルの音が近づいてくる。そしてシキミと紬の横を、サンマを加えた大きなドラネコが走り去り、それを追いかけて一人の女性がぷんぷんと愛嬌たっぷりに怒りながら走り去っていった。周りのみんなは笑っていた。空に浮かんでいるのか描かれているのか、この空間を照らしているのかただの記号かわからないようなお日様も笑っているような気がした。
「今の女性に見覚えは?」
「『ワラビさん』ですよね?」
「ええ、ワラビさんでもあります。現実世界では?」
「見覚えもあるような……」
「今、お魚咥えたドラネコを追いかけて走って行ったのはあなたの祖母……夏目菊子さん……旧姓日出菊子さんです」
「わたしをこんなところに連れてきたのは紬さんのお見事な誘導です。デタラメを使わずわたしを見事に操った。しかし、そのデタラメはさすがに通りませんね」
「菊子さんは亡くなってはいないですよね?」
「死体が見つかっていないだけです。役所の書面上は死亡扱いです。生命保険も受け取ったし、年金も受け取っていません。覚えています。父の買っている東スポの一面をカッパ発見記事が飾った日……。二〇〇二年十月二十四日に祖母は姿を消しました」
「それが、真実です」
「東スポは日付以外全部誤報なんですよ。あのカッパ記事だって、ヤラセだってわかって裁判に発展したんですから」
「菊子さんはカッパにさらわれたのです」
「紬さん。帰りましょう。少し休まれたらどうですか? いいカウンセラーを紹介しますよ。保険適応外なので一回七千円もしますが、今の紬さんには必要だと思いました。紬さんの言葉の信憑性が東スポレベルです。百歩譲ってアルファがここにいるというところまでは認めましょう。ここが異常だということはわかっていますから。昭和の世界? 西武園ゆうえんちじゃあるまいし。アルファがいるのなら、もっとベテランで武闘派の除霊師を連れてくるのがいいでしょう」
「その選択肢はありません。わたしの目的は菊子さんの奪還です」
「祖母は……。失踪した日に死んでいたとしても当時還暦です。さっきのワラビさんはわたしより若かったですよ」
「こちらをご覧ください。菊子さんが夏目家に嫁いだ時のお写真です」
紬が見せたシキミに見せたモノクロ写真には、今と変わらぬ姿をセーラー服に包んではにかむ紬、大きく見開かれ強い目力を持った若き日の祖父、そして高級な雛人形のように絢爛に着飾ったおすまし顔の祖母の三人があった。そのおすまし顔の相好が崩れ、ドラネコを追いかければ、先程令和からの侵入者の前を通り過ぎていったワラビさんと同じ顔になるということは、明晰な頭脳と正確な記憶力を持つことを自負するシキミのプライドが否定させてはくれなかった。
「……見た目が同じだけです。シェイプシフターかスキンウォーカーか……。そういった類の人に化ける妖怪なんじゃないですかねぇ」
「わたしはご本人だと思っています。ですがそれではシキミさんが納得出来ないと思うので確かめましょう。手ぶらでは帰れないでしょう?」
「シェイプシフターかスキンウォーカーなら、銀に弱いです。銀に触れさせれば拒絶反応が起きる。それで手打ちにしましょう。ワラビさんは祖母ではない。それを確かめたら撤退します」
「ええ、ありがとうございます。それがわかればわたしも満足です」
シキミは何故紬がそこまで祖母に固執するのか考えてみた。ナツメ商会は明治維新直後から東日本の怪奇現象解決を担っており、当時から紬は夏目家と親密な関係にあったとされる。さっきの結婚写真だって、親族以上の扱いで写真に映っているし、結婚した当事者よりも嬉しそうな顔をしていたのが紬だった。
「ちなみにこの出張、何日かかるかわかりませんが、原宿地下霊園に帰還するまで全て残業として扱われます。つまり一日過ごすごとに二十四時間分の残業手当。経費は全てカマエルに請求します。それとは別にボーナスが支給されます。具体的にはこちら」
「へぇ」
紬が電卓をたたいて具体的な金額を提示した。クールでインテリ、孤高の天才、若い身空で達観したペシミスト。そんな自己プロデュースで平静を保ってきたシキミも、破格というにも破格の報酬に、まるで殴られたように目が眩んだ。アルファとやりあって割に合う金額だ。
そして紬が、シキミをその気にさせる最も簡単な手段をとらなかったことに一種敬意を抱いた。「出来ないんですか? 出来ないなら仕方ありませんね」。紬がそういえばシキミは目くじらを立てて憤死寸前になり、一発でこの仕事を引き受けただろう。天使の化身は、プライドの高すぎるシキミの難儀な性を見抜いている。それはシキミ自身もわかっていることだ。その上で、挑発によるアジテートではなく誠意で協力を仰いだのだ。その誠意に、シキミは過剰な忠誠を以て応えた。
「この場所のルールが知りたいです。昭和で止まっているこの街で、令和のわたしたちは異物として排除されないのですか?」
「厳密に言えばこの街も暦は昭和ではなく令和ですが……。便宜上、昭和としましょう。しかし、シキミさんが令和のままのふるまい、例えばスマホを使ったり令和でしか知りえない知識、新語、ミームを使っても、この街の管理人のような存在やアルファのしもべが粛正にやってくるということはありません。そうですね、例えば野口英世の千円札だってここでは使えます。ただし、それがこの街の恐ろしいところです。二日もすればシキミさんもこの街に馴染んでしまうでしょうね。この街の住人は暴力も暴言も伴わず、それでいて逆らいようもなく、シキミさんを昭和の住人にしてしまうでしょう」
「さぁてどうだか。……」
「今ならまだ扉を見失っていませんから、一度車に戻りましょうか。現金は用意してあります」
「それは助かります」
二人は扉をくぐって薄暗い駐車場に戻り、荷物を運び出した。シキミの個人的な荷物は着替えや化粧品の他にノートパソコン程度だった。職務上必要なナツメ商会支給の各種装備もたんまり車に用意してある。
海外由来の妖怪であるシェイプシフター及びスキンウォーカー。どちらも変身能力を持つ妖怪だが、純度の高い銀に弱いという弱点がある。その銀製のナイフもナツメ商会の標準装備だ。シキミも荒事に関してはある程度の心得はあるものの、街の住人は知性はまるっきり人間……もし、昭和から生き延びたゾンビなのだとしたら勝ち目はない。
怪殴丸での射殺を除いて。
「紬さん、重そうですね。持ちますよ」
「ありがとうございます」
恐らくこのボストンバックの中に、昭和の街での長期調査が可能な資金が入っている……。記憶力に優れる故に細かいことを根に持つシキミである。薄給だから発泡酒しか飲めないと嫌味を言ってきたあの新人なら何年経っても持つことのない、純粋な現金の重みだ。
「ところで、向こうでの宿は決まっているのですか?」
「きちんと申請し、平屋の日本家屋ですが一軒家を借りています。二人分の個室はありますし、浴室とお手洗いは別、台所には旧式ですが冷蔵庫もあります。居間にはテレビもありますよ」
「わぁビックリー。映っているのは王、長嶋のON砲かな?」
「その二人はいません。ベンチでは原監督が腕組みして、ショートは坂本選手が守っていますよ。白黒ですけどね」
「あくまで二〇二二年なんですね。曖昧奇々怪々にして狂ったメリハリだ」
「その前に、観なければならない番組がありますから、そちらを優先的に」
「ええ、これは調査ですからね」
金は人を単純にさせる。腕が痺れる程の重さの現金を運んだシキミは、この依頼成功の暁には、この重みに近い額が通帳に印字され、当分は贅の限り……コンビニではなくデパートで買ったワインと生ハムで豪華な晩酌が楽しめるとうきうきし始めていた。
この場所……。山中研究所の地下に広がる昭和の街は異常。そこが異常であると正常に判断、認識出来ていれば、自分は大丈夫で狂ってもいないと思い込んでいた。
「借りた家はこの辺りのはずなのですが」
「そういえばどうやって借りたんですか?」
「この街にしばらく滞在したいと申請しました」
「鎌倉紬名義で?」
「ええ、もちろん職業欄にはカマエルの化身と記入しましたよ」
「それでも申請が通るんですね。道を訊きましょう。この住所ですね。すみません」
シキミは日用品と装備品とパソコンの入った鞄は地面に置けたが、お金様の入っている鞄は肌身離さなかった。鞄を携えたシキミと何も持たない紬は『レインマン』のポスターじみた奇妙なコンビとなり、家の前をホウキで掃除している老人に声をかけた。だいぶ長い時間そうしているのか、既に老人が掃いている場所は何もない。それどころか、舗装のないその場所は土が抉れて粘土層が露出していた。その一種奇怪な有様は、まるで無感情に肌をかきむしって血が滲んでいるような異様さを感じさせた。
「やぁ。ここは山中町の三丁目だよ」
「ええ、それはわかっているんです」
「やぁ。ここは山中町の三丁目だよ」
「ええ、だから」
「やぁ。ここは山中町の三丁目だよ」
全く変わらぬ声量とオクターブで老人は繰り返した。まるでロールプレイングゲームで辿り着いた街の最初の住人。同じセリフを繰り返す。話しかけられるたびにテープで録音を再生していると言われても不自然には感じない。
「シキミさん、こちらの家です」
「……。紬さん。本当は家の場所、わかっていたでしょう。わからないふりをして、わたしをあのジジイに話しかけさせた」
「うふふ、どうでしょうね」
老人に自我を感じられなかったシキミはその面前でジジイと呼んだ。由緒正しいお家柄とはいえ、シキミはあまり品行方正な人物ではないのだ。シキミは一種茫然と地面を掃く老人の額に銀の万年筆を当ててみた。しかし反応はない。この老人は妖怪ではないという証拠だった。
「呪い……洗脳されているんですか?」
「彼は人間ですし、自分の意思でやっています。その行動も、セリフも」
「何故?」
「怪奇の奥に潜む恐怖、それは自らで解き明かして答えを知ることで恐れが減り、理解も深まり、立ち向かう勇気も湧くものです。この老人に関しては、トリックと呼ぶにもシンプル過ぎる怪奇ですけどね。ヒントを言うならば、彼は自らの意思でやっている。そしてトリックでも超常現象でもない。もっと簡単なことです」
紬の借りた家は全く持って何の変哲もない、言うなれば水のように無個性で他と区別のつかない家だった。がらがらがらと摺りガラスの引き戸を開け、土間で靴を脱ぐとやはり何らおかしなことはない部屋だった。シキミと紬の個室はそれぞれ六畳、居間は九畳、トイレは和式で風呂からは煙突が立っていた。
「……」
それぞれ個室での荷ほどきを始め、シキミが真っ先に危惧したのは電源の規格が異なることによるスマホとパソコンの電池切れだった。デジタル中毒のZ世代であるシキミにそれは堪える。120以上のIQはツールを使ってこそ真価を発揮するのだ。しかし、個室には“ご自由にお使いください”の札が張られた玉手箱があり、そこには北欧式家具店のように文字のない取扱説明書があり、それによるとどうやら玉手箱に収まっていた変換器を使えば令和の規格で電力が使えるようだった。しかもスマホもノートパソコンも電波は良好、苦行じみたデジタルデトックスの憂き目にあうことはない。
「シキミさん、始まりますよ」
「はいはぁい」
果たしてこの街が昭和ならば、自分の愛飲する銘柄のタバコはあるのだろうか? 予備は一箱しかない。咥えかけたタバコをパッケージに戻し、シキミは紬とちゃぶ台を挟んでテレビを観た。
「ワラビでございまぁす」
ずんちゃかずんちゃか、とご機嫌なリズムで、ワラビさんと化した若い姿の祖母……菊子(仮)が全国の名所を旅するオープニングが始まる。巨大な河川にかかる鉄橋の上のワラビさん。画面には新潟県阿賀野市阿賀野川とある。シキミは新潟水俣病でしか聞いたことのない地名だったが、スマホで調べると二〇〇四年に複数の自治体が合併して出来たのが阿賀野市だった。そういった地名の変更もこの世界ではアップデートされている。そしてこの街の『ワラビさん』は、日本中の名所を全て紹介し終えて何もないただの河川を紹介しているのだ。
「実写版だ」
昭和の頑固親父で悲しい理由で特徴的な髪型を強いられた家長のウドロウ、良妻賢母という概念の擬人化であるウドロウの妻でワラビさん兄弟の母であるコゴミ、主人公のワラビさん、ワラビさんの夫で事実上の婿養子ノビル、ワラビさんの弟で小学校高学年のツクシ、小学校中学年の妹のヨモギ、そしてワラビさんとノビルの幼い息子タラ。日本人ならば誰もが知る日本一有名な家族にして、かつては理想の家族像であり、令和の現在は高度経済成長期に閉じ込められ、昭和を日曜日の夕方に召喚し続ける一種のタイムカプセル。この時代を回顧する人物も少なくなってきているというのに、一切の変化なくこの家族と彼らの過ごす街は、時間の進行と同時にやってくる未来をノスタルジーで何十年も相殺し続けている。
「父さんったらひどいや!」
「今日はデパートに行くわよ!」
「今日は一杯どぉうだぁい?」
「バッカモーン!」
「宿題をやらなきゃ!」
シキミが幼い頃から、日曜の夕食時にテレビから自然と流れてくるセリフだった。観たことのないエピソードかつ実写ではあるものそのセリフに聞き覚えのあること、この街で実写の『ワラビさん』が放送されていること、そして若返った祖母が何の理由か主役のワラビさんを演じていること。
自分が謎解きに躍起になっていること、その躍起はこの怪奇に対する一種恐怖を抱いていることに気が付いたシキミはいつも通りのルーティーンを試みた。見下し、蔑み、皮肉を言い、揚げ足をとり、茶化すのだ。そうすれば賢い自分の優位は保たれる。
「そういや『ワラビさん』って何が面白くてみんな観ているんだろう?」
そのルーティーンで放ったはずの一言は墓穴だった。より深い謎のどつぼにはまり、一種ツッコミだったはずの言葉は鋭く自分の頭に突き刺さった。
「この時代を知る者が作った幻影に、同じ時代を知る者たちが自らを重ねているのですよ。その時代を知らないシキミさんのような若い世代は、概ねシキミさんと似た考えです。昭和の世界はツッコミだらけ。その粗探しと時代遅れを嘲笑しているのでしょうね。純粋なホームドラマというには、少し異質な気がします。しかし、この場所では『ワラビさん』の山中家こそが理想の家庭です。先程シキミさんは、この街のルールが知りたいと言いましたね。またヒントを差し上げます。この街にルールはありません。ええ、全くの無法地帯です。ゴムとびをしている女の子の横でシキミさんがスマホでゲームをしていても誰も何も言わない。何故ならシキミさんの持ち込んだ令和は、無法のもとに違法ではないから。ただし、ルールがなくても模範はあります。それが、この『ワラビさん』です」
「ルールがないけど、模範がある……。……みんな、この『ワラビさん』を模範とし、『ワラビさん』の世界の模範的な住人であろうと自主的にこの生活を送っている。だからさっきのジジイは、善人なジジイを演じていた。そう、この街ではみんな、『ワラビさん』世界の住人を演じている。そういうことですか?」
「ええ。正解です。この街の住人は、無法でありながら、提示された模範……あるべき姿に自主的に従うような善人。まるで、外の世界の『ワラビさん』の世界のように、ピュアな人たちです。と、いうことは?」
「ワラビさんが祖母だとして、その祖母を奪還すればこの街の模範であるワラビさんがこの街から消える。世界の根幹である『ワラビさん』が放送されなくなることで、この街はカオスに陥る」
「そうなるとは断言出来ませんが、これが難しいお仕事だとはご理解いただけたはずです」