人間ソファ #2
年季が入っている様子なのに古びた印象を全く受けない樫の扉は、蝶番一つをとってもきい、と鳴くこともなくシキミとキクコを洋館……“木工の魔窟”へと招き入れた。招き入れたのは家具屋の女店主とも不気味な洋館の主とも言い難い、言うなれば鹿鳴館の社交場に娘を送り出した後の奥様のような静かな圧力と穏やかな脱力……リタイアの空気を薄く纏った貴婦人だった。年齢は五十がらみだろうか。先程よりも入念に、シキミとキクコの肌つやや髪、顔の整い、体つきを観察しているが、欲情するでも若さと美貌を羨むでもない分類不能の気味の悪い視線が、少し不愉快な肌触りで二人を撫でていた。
何もかもが中途半端、分類不能だった。何者でもない訳ではないが、何者かはわからなかった。
「いらっしゃいませ。竹取家具店へようこそ」
竹取……かぐや姫……。あからさまに偽名だった。
「こんにちは。それとも素敵なお店……お宅? お招きいただいたので、お邪魔しますと言った方がよろしいでしょうか?」
「あら、礼儀正しくてかわいいお嬢様」
日傘を傘立てに立てるキクコを褒めるその目は笑わない。すべてが異常であるのに、この貴婦人の中ではその一般的に異常と認識される行為が、まるで靴でも履くかのような、箸で魚の切り身を摘まむかのようなごくごく些細なルーティーンになるまで繰り返され、異常性を完全に中和することこそ出来ずともどこか違和感を薄れさせてしまうのだ。
だからこそより異常。シキミはそれに気付けている。だが肝心のキクコは、洋館の中に展開される瀟洒な家具に目移りし、普段のよくも悪くも薄弱な自我が豆電球のように小さい光で千切れんばかりに輝いていた。
こいつは思っていたより早く怪殴丸の出番が回ってきそうだ。そんな風にシキミは思った。キクコに比べればごくごく弱いものではあるがシキミにも人並み以上の霊感はある。むしろキクコ程強い霊感の持ち主だと異常に慣れて異常を異常と気付けないのだ。
この洋館に籠る……実に密度の濃い感情。恨みや憎しみではないが、目の前の貴婦人以外の誰かがその強いオーラを発している。
「こちらをご覧になって。洋館の西側は英国風の家具を取り揃えておりますのよ。ええ、確かに時代は雑多ではありますわ。でも貴女のきれいなお洋服とお似合いのビクトリアンな椅子とテーブルから、産業革命にインスピレーションを受けたスチームパンクな掛け時計兼本棚もありますの。『シャーロック・ホームズ』と嶽本のばらの小説を収めてみてはどうかしら? それとも古き良き六十年代ソーホーのクラブの楽屋の姿見と鏡台なんていかが? 『ラストナイト・イン・ソーホー』はご覧になって? 見ればきっと貴女も鏡の中に違う自分を見つけられますわ」
「素敵な鏡台……」
「そちらは二千円ですわ」
「二千円ーッ!?」
「おほほ、お姫様たるもの、平常心が何よりのお化粧ですわ」
セールストークの言葉は熱いがどこか血が通っていない。一歩下がった視点でシキミは見極める。確かに貴婦人はキクコに家具を買わせようとしている。それは間違いない。だが、それはビジネスではないように感じた。この洋館に満ちる邪悪な気配は……。一部は貴婦人のものだ。大本は違う人物か、ゴーストか……。
キクコは舞い上がってしまっている。素敵な家具! オシャレなデザイン! 実用に耐えるしっかりとした作り! そしてこの洋館に何がいようが、それが害をなす存在であるならば最終的に怪殴丸で撃ち殺してしまえばいいというキクコらしくない高揚……少女じみた興奮が彼女の平常心を鈍らせている。
「東側はどうなっているんですか?」
「こちらは東洋風の品をそろえておりますよ。金の蒔絵の硯箱はお化粧道具を入れるのにぴったり。江戸幕府の大奥や、中国後宮も羨む調度品がたっくさん。でも今の時代、誰もがお姫様になれますわ」
「まるでシンデレラのお城みたい」
「おほほほ」
随分馬鹿なこと言っちゃって。気付いてくれ、邪悪な気配は一つじゃない。なのにこの竹取家具店では、生きている人間のいた痕跡、いたらたてるであろう音が皆無だ。ここには怪奇が潜んでいる。
「……」
でも、水を差すことないか……。キクコを奪還した後は、いわば二十歳の赤ん坊じみて誰も正解を知らない道のりで記憶と自我のテトリスを埋めてきた。そこには穴も隙間もあるだろう。それを埋めるのが一種の幻想趣味めいたものであるならば否定はしないし、キクコと会話が成立するようになってからは自分が甘えすぎているような気がした。元来しっかり者な性格もあって、ここ最近のキクコは何かを我慢……とまではいかないが、自分程までには感情や自己顕示欲を解放していなかった。
それが今、あんなに楽しそうだ。あんな風に感情をあらわにする姿を見たのは初めてかもしれない。家具を眺めることで満たされているのならばあえて水は差さない。キクコが考えている通り、何が出ようと怪殴丸で殺してしまえばいいのだ。
「メガネのお嬢さん」
「わたしですか?」
「コーヒーをどうぞ」
「ありがとうございます」
「あなたもお好きなようにお店を見物なさって。この洋館は全ては売り物、つまりディスプレイ。どれでもお好きなものをどうぞ。バルコニーならどこでもおタバコをお吸いになれますわ。ドリンクは全てセルフサービス。無料で提供させていただいておりますわ」
「……」
ここは単独行動でいいのだろう。この三か月間、常に二人で行動してきたのだからキクコには自分抜きでの鮮烈な体験や記憶が必要だ。それがこの家具屋なのだ。
ワイシャツの胸ポケットからライターを抜き、指で弄びながら日の当たらない北側の部屋の奥へと向かっていった。
その部屋は大きなガラス戸から中庭を一望出来る造りにはなっていたが、住宅街の一角とは思えない程の鬱蒼とした木々が茂り、日光の入らない北側の部屋ということもあってか昼夜の概念すら見失ってしまう程の暗さと陰鬱さが漂っていた。この部屋もビクトリア朝の家具が取り揃えられていたが、何故西側のディスプレイルームに置かれていないのかが不思議な程によく出来ている家具ばかりだった。さほど興味もなく、審美眼も持たないシキミですらこの部屋の家具と調度品の質の高さは理解出来た。この部屋は、部屋としての完成度が高かったのだ。そうだろう。白い革張りの豪奢なソファの前にはレトロなブラウン管のテレビ、ごうんごうんと音を立てる旧式の小型の冷蔵庫、見上げればほこりまみれのエアコンと、この部屋には生活の痕跡があった。いや、今でも貴婦人の居室なのかもしれない。ならばこここそは本当に売り物にもしない程の最高級品かもしれない。
部屋で一人になったシキミは、どっかりと少しお下品にソファに腰を下ろしてみた。
「……ッ」
ぬわ、とした気持ちの悪い温度がヒップ、背中、太ももを這いまわった。貴婦人が先程までこのソファに腰かけていたとしても、残っていた体温ではなく、このソファの持つ温度だった。
腰かけた瞬間にその違和感に呑まれたシキミはヘビに睨まれたカエルの如く、言いようもない怖気に全身を撃たれて動くことが出来なくなってしまったのだ。……。肌の感触は、気持ちの悪い温度以外の何をも察知していないが、心の中ではソファの中の何か……或いはソファそのものの魂のようなものが蠢くのを確かに感じた。
「……」
顔をあげると、幽かに差し込む光に照らされる真っ暗なテレビの画面には、嫌悪感に目を見開き、歯を剥き出し、冷や汗を流す自分の姿が鏡のように映っていた。
「キ、キ、キク……キエエエエ……」
これ以上喉を開けば、ただちに恐怖の絶叫を発したに違いない。だが、それは許されない。
キクコはこの家具屋を楽しんでいる。それに水を差すわけにはいかない。それは決して年上の孫娘と年下の祖母であるとか……いや、年齢すら関係ない。家族としての繋がりも関係ない。キクコがこの三か月、最も密に過ごしてきた相棒同士だからこそ邪魔をすることが出来ない。そして、怪奇現象解決の専門家である自分が、それも東日本で他の追随を許さない圧倒的名門である夏目家の人間が、こんな程度の怪異に悲鳴を上げていい理由などないのだ。
その二つのプライドによってシキミは悪鬼の形相で全てを堪えた。
やがてひとりでにブラウン管テレビにスイッチが入り、合衆国就任演説の原稿じみて文字がスクロールされ始めた。
……。
お嬢様、お嬢様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様な無躾なメッセージを、差上げます罪を、幾重にもお許し下さいませ。
こんなことを申上げますと、お嬢様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。
……。
それは、シキミも愛読するあまりにも有名な文豪の短編小説に登場する怪人からの手紙の書き出しとほぼ一致していた。
その時点で、シキミはこの先に予想される展開で身震いし、喉は絶叫以外に嘔吐さえしてしまいそうだった。そして声も吐瀉物もすべて押しとどめたシキミは、彼女にとって残酷なその文字のスクロールを最後まで見届けたのである。それはあまりにも長い罪の告白であったため、要約すると以下の通りとなる。
この竹取家具店のお抱えの天才家具職人はこの世のものとは思えない美しい家具や調度品を仕上げる一方で、直視に堪えない程の醜い姿をしていた。自分の作品である家具は美しい女性たちに気に入られ、買われていくのに、その家具を売る時は決して客に姿を見られぬようどこかへ隠される。
それでも女性を抱きしめたいという劣情を抱いた家具職人は、ソファの中にスペースを作り、その中に潜り込んで隠れることにしたのである。そのソファは家具職人の最高傑作であり、特段の想いを込めたからかいつも以上に女性に人気があった。若い女性はこぞってそのソファに腰かけ、家具職人は皮越しにその女性たちの可憐な温もり、箸でつつけば弾けそうな柔らかい肉、剛健な男のものと違って飴細工のように精巧で細く脆く、故に触っているだけで興奮を禁じ得ない骨……。身動き一つのたびに躍動する乙女の肉体の一つ一つで、家具職人は劣情を満たし続けた。そういう動機と行動だった。
そして、今はシキミが座っているという訳だ。つまりシキミは、この世のものとは思えない醜さを自称する男に今まさに、その温もりも肉も骨も動きも、すべてを包まれてしまっているという残酷な宣告であった。そして自らの罪を告白し、告解しつつもその悍ましい行為を改めなかったのは結局、心身共に吐き気を催す邪悪である。だからこそかえってシキミは、冷静さを取り戻した。怪殴丸で断罪すればいいのだ。あとはどう撃って殺すかをインタビューするしかない。
だが、ここから先があの短編小説とは異なっていた。
「しかし私は、このソファと座る女性を愛するあまり、自らの身を顧みないようになり死んでしまったのです」
「……死んだ?」
死んだだと? ソファに潜んで女性の体を好き放題に触っていた変態家具職人は、死んだというのか? ならばこの生暖かさの正体はなんだ?
「ええ。何故死んだのかは自分でもわかりません。しかし、死んだことは確か。私の肉体は痕跡も残さずこのソファと一体化し、私の魂は伝播してこの部屋そのものとなりました。貴女が触れているのは私の素肌です。付喪神というのでしょうか。そんな貴女に提案があります」
「サノバビッチ……ユニスポ報道の消えた家具職人ってこいつか……。でもテメェはくたばれファック野郎。死ね……。死ね! クソッタレ! もう死んでるのか……。だからこそ、万死に値するという言葉が存在するんだよ、クソッタレが」
「本当に私と一つになりましょう」
「ワッザ?」
「私と一つになり、貴女自身もこの部屋の一部となることで、貴女は今までの辛い記憶や体験、肉体的苦痛といった全ての軛から解放され、これ以上にない幸福の中に存在し続けるのです」
「誰がテメェなんかに口説かれるかブタ野郎。わたしはな、ずっと……。ずっと! 小中高! 近所の十の学校からナンバーワンのイケメンを選出してもわたしとは釣りあわなかったんだ! わたしがアメリカに行ったって、あの大陸にもわたしを満足させる程の男なんていなかった」
「いいこともあります。次の誰かが私と一体化する時、貴女は解放され、私は貴女の辛いことをすべて浄化し、辛い記憶が何一つないという極上の幸せを土産に貴女を帰してあげられるのですよ、シキミさん」
「……ッ?」
いつの間に名前を……。
「今、お辛いでしょう。コーヒーを呑まれましたし、私は貴女の体を文字通り手に取っているのです。貴女の体の巡り、血のにおいも感じます。お辛いでしょう。座っているだけでもお辛いし、恥辱でしょう。そういったものも、すべて感じなくなるのです。ええ、解放された時は私と一体化していた記憶も、そもそも私という存在も、すべて忘れて解放されるのです」
「何度も言わせるな、ブタ野郎」
「貴女の最も辛い記憶を消せるのです! ……貴女の最大の苦痛……。コロンビア大学、随分と辛かったようですね。あのように追放されてしまうなんて……」
「テメェ今なんて言った?」
シキミにまだ自分を客観視する理性が残っていれば、自分が人間の言語を未だに操れたことを大変な驚きを持って振り返っただろう。今までは冷たい絶望を隠すための、安いライターの火打石じみた火傷もしない小さな火花の威嚇の言葉。今はそんなものではない。
一瞬にして世界のすべてが変わってしまうような激高がシキミを焼き尽くし、シキミの方こそ直視に耐えない悍ましい怒りの権化へと変貌した。もはや女性でも人間でもなく、怒り以外のすべてを忘れた怒りという概念が夏目樒と同じ質量を持った物質となっていた。言葉は激怒の火薬で弾ける粗悪品の弾丸となり、唾のマズルフラッシュで絶え間なく殺意を放ち続けた。
「殺す! 殺す殺す殺す! 死ね!」
シキミは……確かにコロンビア大学に進学した。何よりの誇りだった。だが志半ばでアメリカから帰ってきた時、家族は何も言わなかったし、シキミも語ろうとはしなかった。
実際に挫折の原因は除籍である。だが除籍であるということは、親はもちろんキクコにも話していない。話せるはずがない! ましてやその理由など!!
人間ソファは知っていい範囲を完全に超えてしまったのだ!!
「辛い……。お辛いですね。それもすべて忘れられます。貴女は一度私と一つになれば。完全なる幸福となって出て来られるのです。忘れたいですね、本当に可哀そうに……。私の劣情ではありません。本心より貴女を救ってあげたいと思っています」
「畜生……。畜生! テメェに何がわかる……」
だが、もうシキミは自らの怒りの出力にすら耐えられなかった。心身ともに困憊し、顔を覆って蹲るのみだった。その時だった。不意に扉が開き、先程の貴婦人が覗き込んだのである。高貴な空気は全く消え失せ、夜這いを覗く出歯亀野郎じみた罪悪感と興奮の入り混じった狂気の表情だった。
「クソババア……。テメェも共犯者か……」
「お連れのお嬢様は、助けには来ないわよ。今はコーヒーに紅茶に、お飲み物に夢中なの」
「なんだと?」
「……」
「なんなんだよ」
「ただ、あのお嬢様……。キクコちゃま。彼女を呼んであげないでもないわ」
「ああ?」
「残念だけど、貴女よりもキクコちゃまの方が、うちのお抱えの家具職人の好みなの。あの子の方が可愛いもの。だからあの子をここに呼び、そのソファに座らせるというのならば、今すぐに呼んであげる」
「……」
「その際に、ソファに記憶を消してもらうといいわ。ソファの記憶と、サービスで辛い記憶も。誰もが辛い記憶を抱えているでしょう? さっきわたしをババアと言ったわね。年の功で教えてあげる。何よりも……。いいこと? 何よりも辛いことというものは、常に過去にあるの。それを消してあげるわ。簡単じゃない。キクコちゃまという女性がいた記憶も消してあげる。どうせ、あの子は……ずっと消えていた女なんでしょう?」
「……本当にキクコさんを呼べば……。この変態の記憶も、わたしの一番辛い記憶も消してくれるのか?」
「ええ。何よりも安らかな精神で貴女は生き続ける。忘れることこそ一番の幸福。受験だってそうよね? 一番の正解を選び続けるものだものね。簡単よね。だって貴女は賢いもの。さぁ、過去に由来する辛苦に苛まれることのない幸せな人生を謳歌しましょう。知らぬが仏というじゃない」
「だが断る」




