反転
夢を見ているんだと思った。今の現実は悪い夢で、明日起きたら私は社会的な人間として外へ歩き出すんだと。時々私の頭に現れるこの思考は文字通りの現実逃避で、しかし、私にとっての唯一の救いでもあった。
過去を思い返すと、私が今まで歩んできた人生の分岐点が思い浮かぶ。そうして、選択をしないという絶対的に間違った選択をした過去の自分の行いと、その内何か一つでも勇気を持って選択していた場合の輝かしい自分、実際にそうはしなかった、失敗の連続の先にいる現在の自分とのハイライトを、嫌でも認識させられた。
現実を変えることの難しさというものを、私は認識している。『たられば』を語る人間は須く、実際に行動する過程というものを軽視している。生まれ持った私のポテンシャルが、いくら輝かしいものであろうとも、実際に花咲くまではただの種子でしかない。客観視したとき、『やればできる』ことに価値などなく、『やってできた』ことが、自分の能力を証明するただ唯一の絶対的な方法だ。そもそも、実際その時点での能力だけでなく、そこに至るまでの努力までもを評価の対象とし得る現代の価値観において、努力をしていないと自ら言いふらして回る行為の浅はかさは、恐らく当人が認識している以上のものだろう。
それを理解した上で、私の常識は、未だ輝かしい頃に取り残されている。まだ可能性に満ち溢れ、なんだって目指せた。そうするだけの才能と環境が、私にはあったと、当時も自覚していた筈だけど、今はそれ以上に強く、何度も傷跡を抉ったように私の思考回路に刻まれている。
私の人生に於いて、私が自ら獲得したと胸を張って言える能力は、精神性だと思う。それ以外は、他者よりも楽な環境で、他者よりもより短い時間で、生まれ持ったものだけで解決してきた中途半端な成功体験ばかりだ。こと精神性という面に於いて、同世代で私ほど造形の深い人はそうそういないだろうと自負している。思考とは、現実に追われていない者の特権であると私は思う。同世代のまともな人達がより現実的な問題と向き合っている間、私は一人、自責の念から逃れようと思考を回していた。当時の私は、現実と相対する程の勇気など持ち合わせておらず、とはいえ客観的に見た時の自分の凄惨さから目を背けることもできず、そうして導き出した防衛術は、思考による正当化だった。或いは、自分に対する客観視が苦手な人間ならばもう少し楽だったのかもしれないけれど、私は自己肯定の為に作り上げたハリボテの価値観を入念によく観察し、見つかった欠点からまた自責をし始め、また新たな価値観を作り上げて、そんな工程を繰り返し、いつの間にか自己矛盾の少ない価値観が出来上がっていた。
しかしその精神性すらも、全く同じものでなくとも同じような深度にたどり着くことを、現実と戦っている片手間にできないとは言い切れない。そしてなにより、精神性が現実の進捗よりも勝るものだと、私は到底思えないのだ。いくら思考を回したところで、実績で見たときの自分は何も進歩していないのだから。対して、現実の問題に対処する過程で手に入れる精神性は確かに存在する。結局は内面的な成長は、対外的な出来事に内包されている。他者の価値観として。
これら私の中での精神と現実に対する考えは、勿論のことながら、現実に立ち向かう人々、世間で言う『普通の人々』に対するリスペクトを産んだ。それは社会的に生きれない、もしくは生きたくない自分との差別化を図るようでもあった。彼らは実際に現実の諸問題に自らの進退を掛けて立ち向かい、それを生活の主としているのだ。それがたとえ、幼少期からの習慣と社会的常識によって為されるものだと理解していても尚、努力という過程を軽んじれない私は、尊敬の念を示す他ない。自分ができないことを軽んじることを、私の積み上げてきた思考が許さない。
生きることとは、ある程度諦めることだと思う。現実に生きる誰もが、思考の世界に生きる私も例外なく、何も現実に干渉せずに生きることはできない。全ての行動に、事細かな理屈を提示することなど不可能だ。故に、人間は全ての行動にある程度の自己矛盾を抱えて生きている。ある程度の鈍さとは、これらの矛盾を感じずに自己を疑わないままに生きてゆける、ある意味での気楽さでもあると思う。私の場合、元よりその鋭さを持っている上、積み重ねてきた思考がある意味での杞憂をより深くしていく。
私にとって、行動することを伴った現実など苦痛でしかなく、しかしそれでいて逃げることのできるものだった。行動を避けることができるのは、現実から逃げることができるのは、現実と戦わなくとも実際身体は現実に存在している人のみだと思う。働かなければ明日の食料さえもままならない人々にとっての思考は、なんの逃げにもならない。けれど、そういう人々が思考に殺されないとも言えない。彼らにとって、絶え間なく回り続けるネガティブ思考はある意味での死刑宣告であり、それは自らが望んでいなくとも急に訪れ、そうして行動することを奪われた彼らは遂に現実からも姿を消す。私がこうして、深い思考の世界を拠り所としているのは、私がまだ庇護対象だったからに他ならないと思う。
何が私を変えたのかは分からない。私もいずれ彼らと同じように行動しないと死んでしまう現実に辿り着くからか、もしくは少しずつ戦ってきた現実が、その実績に対する責任が私の逃げ場をなくしたのか。いつの間にか、それでも世間一般の人間には遠く及ばないけれど、私は私が守るべき小さな現実を作り出していた。或いは、私が今まで相対してきた現実は、私の人生にとっては些細なことでしかないと、そう思っていたのかもしれない。ようやく大きな現実が、これ以上行動を放棄したら何かが決定的に変わってしまう現実が、訪れたのかもしれない。いずれにせよ、私はようやく思考の世界から抜け出した。幾らかの寂しさを抱えて。
ときに、客観的理解には補いきれない理解があると思う。それは感覚だ。私は理解しているとばかり思っていた。現実世界というものを。思考することで逃げているんだと自覚していた。その上で、まだ自分という存在と今まで培っていた精神性を過大評価していた。そして、誰もが立ち向かうべき社会的義務を過小評価していた。十分に客観していたつもりが、結局は価値観に引っ張られた現実を見ていた。塗り替えられた常識は、今まで行ってきた習慣は、私の思考をより鋭利に、深くしていた。私はこの価値観を、ある程度鈍く生きることが当たり前の社会に持ち込んできてしまった。私がしていたのは、そう。10秒考えれば済む話を10日かけて考えるようなことだった。
初めて大学の時間割を見た時。それを自分が立ち向かう等身大の現実として捉えた時。そのスケジュールに人間的な余裕を見出だせるとどうしても思えなかった時。
夢を見ているんだと思った。今の現実は悪い夢で、明日起きたら私はまた自由な思考の世界でネガティブな気分を味わうんだと。その時私の頭に現れたこの思考は、間違いなく現実逃避で、私はすぐさま逃げ帰ろうとした。しかし、私が積み上げてきた現実が、等身大に感じた社会的な価値観が、私に目を背けることを許さなかった。
ご完読頂きありがとうございました。
小説を書く上では、あまり戦う現実が多すぎると思考する余裕がなくて困っちゃいますね。
実を伴った経験がないのも問題ですが。
また次回作もご一読頂けると嬉しいです。
ではまた。