第八話 勧誘と買出
目当ての部屋の前にたどり着き、多少なりたじろぎながらも二度ほど、襖を叩く。もしかしたら返事はないか、とも考えていたのだが、思いの外早くに、中からは少しばかりくぐもった声が響いてきた。
私が襖を開くと、そこには部屋の主でもあるてゐが、布団に寝転がっていた。私が布団の脇に座ると、てゐは緩慢とした動きで身を起こす。
てゐの様子はざっと見回したところ、これといって体調が悪そうにも見えないし、何より顔色も良好である。私はひとまず、そのことに胸をなで下ろした。
「……にしても、朝食後の気怠い時間の真っ最中に一体、何の用なのさ」
「いや、昨日はあんな状態で寝ちゃって、申し訳なかったなぁ、って」
てゐの発する言葉には節々に棘があるものの、表情はとても柔らかく、笑顔も見える。どうやら、取り合うことすらも面倒、という訳でもなさそうだ。ただ、声色などから、気怠いことは事実であろう。
結局、てゐを横に先に寝てしまった私には、多少なり罪悪感が残っていた。おまけに私が起きたのは、日もすっかり沈みきった夜のことである。夜も更けようとする最中てゐの部屋に行って、眠りを妨げることだけはしたくなかったからこそ、翌日である今日に、私はてゐの部屋を訪れた。
「まぁ、私も眠たかったしね。
鈴仙も無理してたんだから、仕方がないさ」
「それで……あのさ」
「どうしたの?」
「…ちょっと、人間の里に行かない?
あ〜っと、病気だから無理はしなくて良いんだけど、もし良かったらどうかな…なんて」
とうとう、言ってしまった。これは昨日から曖昧に考えていたことなのだが、てゐが喜びそうなことを頭に巡らせたところ、こんな結論となった。
そもそも、病気であるてゐを永遠亭から連れ出すこと、それも、ここから遠く離れた人間の里までつれて行くのは、かなり酷な話であろう。てゐの病状からしてみても、ゆっくりと、安静にさせるのが一番だと思う。
それでも、誘える時は今しかないのだと、自分に言い聞かせた。このままてゐが衰弱し、床に臥せるならば、出歩けるのは今しかない、と。てゐを喜ばせるには、時間は限られている、と。
「…それが、病人にかける言葉かね。病気の時に遊びに誘われるなんて、生まれてこの方初めてだよ」
そう言いながらも、てゐは掛け布団を放り、立ち上がる。そして箪笥の方へ向かったかと思えば、服を二、三着ほど取り出しているようだった。
「病人は着替えするときまで、看取られないといけないのかしら」
「…それって」
「里まで行くんでしょ?
病人が薄着で出歩くのもおかしな話だし、寝間着で行くのは流石の私でもはばかられるよ」
言い終わるまでもなく、てゐは服を脱ぎ始める。だが、別にそれを見たからといってどうなる訳でも、はたまた病人だから見守らないといけない訳でもない。だが、あんな皮肉に言われたら、この場にいることも好ましくないだろう。
私はそそくさとてゐの部屋から退散し、一旦自分の部屋へと戻った。今の今まで、てゐが里に行ってくれるのかわからなかった為に、最小限の準備しかしていないのだ。出かけるならば出かけるなりに、服や持ち物なども選びたいし、少なからずの手間は必要になる。
……今考えてみても、病人を外に連れ出すなんて、以ての外だと思う。てゐもそれについて触れてはいたが、よくも承諾してくれたものだと、改めて考えてしまう程だ。
だが、いつまでもこんな驚きに暮れている場合ではない。成り行きがどうであれ、里に行くことはもう決まったのだ。それであれば、物だけではなく、色々と備えた方が良い。
やはり、里に着いてからのことも決めておくべきだろうか。今のところ、てゐが来てくれるかすらわからなかったこともあり、計画は皆無である。いうなれば行き当たりばったりであり、てゐに喜んでもらえるかどうかも予測出来ない。
しかし、私にも里に何があるのか細部までは知らない。それに、てゐが何に興味があるのかも、ある程度予想は出来そうなものの確証は持てない。それだったら、予定なんて決めていない方が、喜んでもらえる気もする。
…うん。やっぱり、予定は決めないでおこう。私なんかが決めつけるより、てゐが決めた方が良いに決まってる。それに、決まらなかったとしても二人で決めれば良いし、何よりも、楽しむこと、そして思い出を残すことの方が大切だ。今日を、機械的に決められたような日にだけは、したくない。
着替えも終わり、私は自分の部屋を後にする。玄関でてゐを待つことも考えたが、思い起こせば待ち合わせの時間や場所を決めていない。玄関では、すれ違いになる可能性もある。お互いに探し合ってお互いに見つからないのも馬鹿らしい。誘ったのが私なのだから、てゐの部屋まで迎えに行くことにした。
そんなことをすればまた“病人扱いをする”と、悪戯な視線や口調で言われるのだろうが、今度は“実際に病人でしょ”と切り返しても面白いかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、向こうからてゐが歩いてくるのが見えた。前回、一緒に里まで薬を買いに降りた時とは違い、長袖等々、季節に合った服装である。
「今日は暖かそうね」
「…何なら半袖で行ってやろうか」
「いえ、今のままでお願いします」
お互いに笑いながら、玄関へと歩く。ここ数日は誰かとこれだけ話すと言うこともなく、他愛もない話題に、ある種の懐かしさまで感じてしまう自分がいた。
「…そういえば、お師匠様に里に行くことを伝えないでいいの?」
「いや、実は師匠に少しばかり買い物を頼まれてね。そんなに急ぐものじゃないから今日中に買ってくれば良いんだけど。
だから、もう師匠には出ることを言ってあるんだ」
…これも師匠の企みなのかな、とも思う。
朝に師匠に頼まれごとをされ、人間の里に行かなければならないことは紛れない事実。だが、買ってくる物は味噌だけであり、それに“夕方までには帰ってくること”と少しばかり強調されたことも、企みと思わせられる一端であるのだが。
靴を履き玄関の戸を開けると、相も変わらず冷たい風が私たちの足元をすり抜けて、永遠亭に吹き込まんとする。それに後込みすることもなく、てゐは揚々と吹き荒れる風に体を預け、“早く行こう”と言わんばかりに、こちらを振り返る。そんなてゐに誘われるがままに、私も外へと飛び出した。
あれだけ積もっていた雪も、数日経った今ではあまり見かけることも出来ず、地面の落ち窪んでいる場所にしか見当たらない。それでも落ち葉は雪解け水を受けてか湿り気を帯びており、踏み込める分幾許か歩きやすい気もする。
里への道中、てゐは時々咳込むものの、それ以外には特に変わったところは見られない。本当に、ふとした瞬間にはてゐが不治の病であることを忘れてしまう程に。
…それも、仕方のないことなのだろうか。てゐが病気と知ったのはほんの数日前。そして、その日は私が引きこもっていたこともあり、現実を受け止められたのは、昨日のことである。
だからだろうか。今は何をするにしても結果から考えてしまう。そのことは本当に今やらなければならないのか、このこと以外に、やらなければならないことはないだろうか、と言った具合に。
今までもそんな考えがなかった訳ではない。だが、時間が限られるとわかった時から、それらを特に意識するようになった。
てゐと話すことは楽しい。もとい、永遠亭の生活は、楽しい。辛いこともあるが、それも微々たることに感じるほどに。
それが欠けようとしている今、残り少ないそれを精一杯に感じようとするのは、さして特殊なことではないのかもしれない。
……もしかしたらその気持ちはてゐも同じで、だからこそ彼女は、この誘いを受けてくれたのだろうか。
…その答えは、目の前で無邪気に笑うてゐのみぞ知っている。
「そういえばさ、今日は里に何を買いに行くわけ?
また薬の材料?」
本当にふとした疑問だったのだろう。てゐのその質問にはあまりにも脈絡がなく、そして唐突だった。
「今日買うのは薬の材料じゃなくて、味噌だけど」
「それだけ?」
「うん」
「あんたも大変ねぇ…
味噌ぐらいで買い出しに行かされるなんて」
「仕方ないじゃない。朝ご飯にお味噌汁は欠かせないでしょ」
「味噌汁が出来なければ、澄まし汁を作ればいい」
「…なら、お醤油もなかったら?」
「澄まし汁が出来なければ、潮汁を作ればいい」
「……なら、調味料が全部なかったらどうするのよ」
「鈴仙がいる限り、永遠亭の調味料がなくなることはないよ。だって、いつもお使いに行くのは鈴仙だし。
…あ、でも、お師匠様がいないと鈴仙を使う人がいないから、必要なのはお師匠様だね」
「……」
地味に言い当てられているのが悔しいが…。当たっているからこそ反論もままならない。
ただ……
からからと笑うてゐが、やけに悲しく見えたのは、私だけなのだろうか。