第五話 普遍と可変
あれだけの吹雪だったにも関わらず、今日は透き通るまでの青空が竹林の隙間から見える。冬独特の寒空だが、降雪の後は空気が澄んでいるのか、色が一段と深いように思う。
それでも日向は暖かいものだが、相変わらず風は冷たく、屋根から垂れる氷柱は溶ける様子もない。水も冷たく、かじかんだ手指で朝食を作るのはとても大変だった。
そんな正午には至らない、何とも言えない時間を、私は持て余している。
することも見当たらず、師匠も今日は研究に没頭するとのこと。こんな時に師匠の邪魔をしようものなら、実験台にされることは間違いがないだろう。それも、かなり危ない薬を…。
私も師匠の邪魔をしたい訳ではない。薬学は今日学ばなくたって死ぬ訳じゃないし、たまにはこんな、のんびりする日があっても良い。
そんなことを考えながら自分の部屋に寝っ転がり、天井を見上げる。夜寝るときには毎日見ているはずの天井なのに、昼日中に見るとまた、違う印象を持つ。
こんな時に木材の一枚一枚の木目を目で追ってしまうのは私の癖だ。そして最後には決まって同じ板にたどり着き、そこまでくると私は目を閉じる。
…久しぶりに、こんなにゆっくりした時間を過ごす。午前中から寝転がるなんて、考えてみればそれは少し怠惰なことで、それでいて贅沢にも感じてしまう。
何だか、眠たくなってきた。このまま二度寝を決め込むのもまた、悪くないかもしれない。用事はないんだし、騒いでも怒られるだけだし。むしろ、昨日あれだけのことをしでかして、師匠にこっぴどく怒られたばかりなのだ。大人しく部屋で寝ている方が賢明だろう。
暫くじっとしていたが、自分ですら微睡み始めているのが手に取るようにわかる。考えていることが同じことの繰り返しになり、それですら、きちんと把握出来ていない。そもそも、考えているのか夢を見ているのか、それすらもわからない。
「鈴仙!!」
けたたましく襖を叩く音がしたかと思えば、私の返事を待つ訳でもなく襖が思い切り開かれた。まどろみ、はっきりとしない意識と視界の中で、何とか部屋の襖を開けたのがてゐであることを認識する。
てゐは襖を開けたままの姿勢で仁王立ちという格好で固まっている。その中で目を引くのは、口元に不敵に浮かんだ笑みだろうか。あの笑みを見て、良いことがあったことはない。断じてない。
てゐの冗談を容認することを、昨日決めた。だが、冗談にも種類はある。今までの経験上、おおよそこれから来るのはあまり質の宜しくない冗談だろう。笑い話にはなるが、それ以上にもそれ以下にもならないような、そんな冗談。見ているだけならまだ良いが、被害者だけにはなりたくはない。
てゐはつかつかと遠慮もなく私の部屋へ入ってきたかと思えば、私に見向きすらせずに部屋の隅に置いてある箪笥へと歩いて行く。私はそれを身を起こしながら見ていたが、一体今日は何をやらかすつもりだろうか。
私が訝しげに見やる中、てゐはおもむろにしゃがみ込んだかと思えば箪笥の一番下の段に手をかけ、躊躇うこともなく一気に開ける。
床面に一番近いあの段は開け閉めがしにくいこともあり、普段は着ない余所行きの服や、季節外れの夏物などが入れてある。てゐの横から僅かに箪笥の中が見えるが、それは私の記憶と寸分違わず、服が整然と並んでいるだけだ。
その服の中に、てゐは何を思ったのか手を突っ込む。そして、何かをまさぐるかのように、手を動かしていた。
……いや、まさかとは思うが、“あれ”の場所がばれている…? …そんなはずはない。あれを知るのは私だけのはず…。
「見つかりました!!
鈴仙のへそくりです!!」
てゐが高々と掲げる黄色の巾着袋。あれは間違いなく、私のへそくり。一番下の服の隙間に入れて、大事に大事に仕舞っておいた、私のへそくり。
「いや〜、前に見た時よりも成長してて、まさに収穫時だうさ〜」
巾着袋を上下に揺らしながら、中身の重さでも確認しているのだろうか。辺りには金属同士のぶつかる軽い音が響きわたる。
「…それ、私のなんだけど……」
「何の事やら。私はここで拾っただけだぴょん!」
言い終わるか終わらないかの内に、てゐは走り始めていた。てゐが私の目の前を通り抜ける時に一か八かで手を伸ばしてみたものの、やはり躱されてしまった。私が空を掴んだ拳を解く頃には、てゐの後ろ姿すら確認は出来ず、開け放たれたままの襖が、逃げられたことをまざまざと物語っている。
…昨日、雪の中に埋もれて凍傷になりかけていたくせに、今日のてゐは嫌に元気である。いや、悪戯をするときなんて大体あんな感じだが、それにしても、昨日とはあからさまに明るさが違う。
昨晩は大変だった。妹紅と永遠亭まで帰ったまでは良かったのだが、玄関の戸を開けて出迎えてくれたのは、正座でこちらを睨みつけている師匠だった。
何の言葉を交わすこともなく師匠の部屋へ通され、分厚い毛布を投げられた。どうやらこれを体に巻け、ということらしい。
師匠の部屋は火鉢が数個置かれており、少しばかり暑くも感じる。日頃はこんなことにはなっていないのだが、どうやら、永遠亭にある火鉢を全てこの部屋に集めたようだ。
相変わらず眠っているてゐを布団に寝かせ、渡された毛布をかける。そして私はその横に座り、自身も毛布を被る。
「なんで外にいたのか、理由までは聞かないけど…」
師匠はそう言いながら、火鉢にかけられた鍋から何かをすくい取り、椀に注いだ。そしてそれを私に押しやると、いつも座っている場所へと戻る。
「…心配したのよ? 家中探しても二人ともいないし、玄関は開いてるし」
師匠が渡してくれた椀からは、生姜の香りが立ち上ってくる。どうやら、生姜湯らしい。
「まぁこんな日に外に出るくらいだからよっぽどの理由があったんでしょうけど…。
それを飲んで、今日はゆっくりとお眠りなさいな」
促されるまま私は生姜湯に口をつけ、一口、二口と啜る。暖かくて甘く、少しだけ辛い生姜湯は、冷えた体に本当に沁み込んでいくようだった。
そこで私は安心したのか、睡魔に襲われて記憶を手放した。正直、生姜湯を飲み干して椀を置いてから、部屋に戻ったのかその場で横になったのかもわからない。次に起きた時にはもう朝であり、私は自分の部屋の布団で眠っていた。
「鈴仙?」
開け放たれた襖の縁からひょっこりと、てゐが頭だけを覗かせている。おおよそ、私が追わないことに疑問を持って、様子を見に戻ってきたに違いない。
私は手に力を込め、立ち上がる。それでもてゐはじっとこちらを見つめるだけで、逃げようとはしない。
静かに、肺に空気を送る。一杯まで吸い込んで、静かに吐ききる。そして再び、今度は勢い良く息を吸うと、てゐに向かって、駆けた。
てゐもてゐで、私が走り出したのを見るや否や凄まじい速度で頭を引っ込める。たぶん、私が廊下に出る時には既に、てゐの姿はないだろう。もとい、追いかけっこで勝てるとは微塵にも思ってはいないが。
これは、かくれんぼだ。彼女がよくやる、悪戯の内の一つ。
別にこれは、物を盗むことが目的ではないと思う。ただの暇潰し、いや、暇潰しへの強制参加とでもいうべきか。つまりは相手の大事な物を盗むことで、無理矢理にでも探させるという手段である。ただし、盗られた物が帰ってくるかはまた別の問題であり、そしてへそくりだけは絶対に取り返したい。
慎重に歩きながら、てゐの隠れそうな場所を探す。さながら昨晩の繰り返しのような気もしたが、今日は昨日とは心持ちが違う。こうやってへそくりを取り返そうと探してはいるが、今日はどこか、楽しい。
しかし、彼女を見つけるのは至難の業だ。毎回思うが、よくもまぁこれだけの隠れる場所を見つけるものである。それに、てゐは以前隠れた場所に隠れることは滅多にない。だからこそ、彼女を見つけることは難しい。まぁ、予測もつかないのだから当たり前の話ではあるのだが。
「優曇華、一体何を探しているの?」
廊下の角で鉢合わせになった師匠にそう問われる。確かに辺りを忙しなく見渡す私を見れば、誰であろうと探し物をしていると思うに違いない。最も、物ではないが、余りに見つからないてゐを探していることに違いはないのだが。
「いや、ちょっとてゐとはぐれちゃって…」
「…そう。私も少してゐに用があったんだけど…」
「てゐにですか?
ん〜、たぶんこの家の中にはいると思うんですが…」
「なら優曇華、悪いんだけど、てゐに会ったら私の所に来るように伝えてもらえないかしら」
「わかりました。伝えておきます」
「頼んだわ。私は部屋にいるから」
そう言うと、師匠はまた歩き出して、この廊下のすぐ傍にある自分の部屋へと入っていった。
…何故だろう。心なしか師匠の顔色が悪い気がする。悪いと言うよりも、何か思い詰めているような…。
師匠はあまり心境を顔に出す人ではない。むしろ、自らの意思で表情を変えることも出来るだろう。それなのに、あんな表情を私は今までに見たことがない。本当に思い詰めたような、そんな表情だった。
てゐを、探さないと。そんな気持ちがこみ上げてくる。今までは私のへそくりを取り返す為に探していたけれど、何故かてゐの身に何かが迫っている気がして、ならない。
廊下を歩き、曲がり、襖を開け、覗き。その動作をひたすらに繰り返す。そして見つからない度に不安感が増し、焦りだけが募ってくる。
長らく探したが、ついにこの部屋が、最後。もしもこの部屋にいなかったら、また初めから探すしかない。居て欲しいという願いを込めて、襖の取っ手に手をかけて、一気に開いた。
…しかしその期待も無情に裏切られ、部屋の中はがらんどうとしていた。日頃使わない部屋なのだ。掃除こそしてあるが、家具などは一切無い。押入なども無い為に、どこへも隠れることは不可能だ。
溜息をつきながら、襖を閉める。これから、どこを探せば良いのだろうか。…もしかしたら、また外に出ているのかもしれない。そうなると、本当に探しようがない。
…そもそも、何故私はここまで動揺しているのだろう。てゐの身を案ずる理由も、師匠の表情が優れなかっただけだからではないか。何も、そこまで心配する必要はないのでは…。
そう考えると、幾許か気持ちは楽になった。そして“もう一度探そう”と気持ちを入れ直し、深呼吸をする。だが、日頃はこの辺りを行き来しないせいかどこか空気が埃っぽく、却ってもやもやとした気分になってしまった。
そんな中、何の前触れもなく何かを叩くような音が廊下に響き渡る。
その音は規則性がある訳でもなく、そこまで大きい音でもない。ゆっくりと、それでいて途切れることもなく、響き続けている。音の感じからして、そこまで遠い場所ではないようだ。私はその音の根元を求めて、廊下を歩く。
少し進んだ所に廊下の曲がり角があるが、どうやらその付近から音はでているらしい。私は訝しみながらも、その角へと近づく。
その曲がり角を曲がった瞬間に、音の根元は明らかになった。
てゐが、廊下に倒れていたのだ。それも、うつ伏せになって、胸を掴むような格好で。表情は苦痛に歪んでいて、明らかに息が上がっている。一目見ただけで、かなり危ない状態であることに間違いはない。
そんな中、私が来たことにすらてゐは気付いていないらしい。力なく床板を叩くてゐの手は、恐らく自分の存在を報せる為なのだろう。
「てゐ!!」
“何よりもまず、師匠の所へ”
彼女の名を叫びながら駆け寄りつつも、頭のどこかでそんなことを冷静に考えている自分がいるのだった。