第十一話 本音と最後
そわそわと、部屋の中を歩く。てゐをおぶって帰ったこともあり、歩くことですら辛いのだが、じっとしておくことも出来そうにない。
どうにか落ち着こうとして座ってはみるのだが、少しすればすぐに立ち上がり、忙しなく歩き回ってしまう。
永遠亭に着いた時、いやに師匠が冷静だったことを覚えている。こうなってしまうことを予測していたのかはわからないが、てゐの容態を確認してからの師匠の行動はあまりに速く、焦っているはずの私が置いていかれる程だった。
その時、師匠が何も言わなかったことが恐ろしい。いつもなら対応策や今後の見通しを二言三言残す癖に。今日に限って、何も言ってくれない。大丈夫、とも、心配するな、という言葉すらも。
……最悪の事態を考えるならば、もしかしたらもう、てゐと話すことすら叶わないのかもしれない。あの嘘や冗談を聞けないのかもしれない。…師匠が不治と断言しているのだ。その可能性だって充分にある。
もしも、てゐが死ぬのなら。それは私の所為だ。不治の病気ということまで知りながら、てゐに無理をさせてこじらせた、私の所為だ。
思いつく限り、後悔という文字が並ぶ。私が誘ったから、遅くまで遊ばせたから、永遠亭に戻るのが遅れたから。
考えれば考える程、私という全ての存在に、てゐを死に至らしめる理由が付けられる。私がいたからこそてゐが死んでしまうのだと、思ってしまう。
そんな中で後悔と同じくらい、言い訳も浮かんでくる。私と知り合っていなくてもてゐは不治の病を患っていただろうとか、今日無理をさせなくとも、不治の病ならいつかは死ぬのだから結論は同じ、とか。
でも、その言い訳を潰すのもまた、自分。あくまでも言い訳は自分という存在を正当化するだけであり、自分の犯した罪を相殺するものではないのだと。自分がしてきたことを棚に上げ、責任を他人に押し付ける最低な行為だと。
気付かぬ内に、両頬には涙が伝っていた。その涙の指すものが悲しさなのか悔しさなのか、それは自分でも判断しがたい。だが、それの意は確実に自分に対するものであり、他人に対してではないことは言い切れる。嘆きも悲しみも、全てがこの涙には含まれているような気がしてならず、それなのに、泣くことですら私にとって重荷であるように感じてしまう。
…私は身勝手だ。
てゐと思い出を残したいからと里に連れだしてみたり、病気が重くなったのは自分の所為だと悔いてみたり。この二つは対になるものであり相容れることはないだろうに、それを考えるが為に葛藤が起こる。自分の行ったことが本当に正しかったのか、疑いたくなってくる。
“てゐが元気で、私が不治の病だったらいいのに”
てゐが病気と知ってから、いつもこの言葉が頭に響いていた。
病気が辛そうだから代わってあげたいということが偽善だということはわかっている。如何に私がそれを思ったところで病気は代わることは出来ないし、治すことも出来ない。それならば、治す方法や対策などを講ずる方がよっぽど効率的で、何よりも潔い。生きたい、生かしたいという思いが、その方が真っ直ぐに伝えられるだろう。
その想いがある中での今の私は、とてもではないが見れたものではない。偽善を願い、己の行動にも悔いてばかりで。こんなことなら、私はいなかった方が良かったのではないかとすら感じてしまう。
……そういえば、前にも一度今と同じような気分になったことがあった。どれくらい前のことなのかは最早定かではないが、あれは、地球人が地球を侵略してきたときだった。それに恐れて逃げ出した時にも、同じような心持ちだった気がする。
確かあの時はてゐともあまり馴染めず、師匠や姫様ともほとんど会話もせず、永遠亭に引きこもっていた。あの時は矛盾した思いに挟まれる今とは違い、逃げたことに対する背徳感と、残してきた仲間や主への罪悪感が入り交じり、私の心を支配していた。
あの時も、てゐが色んなことをしてくれたものだ。とはいっても大半が悪戯だったが、その悪戯の後に彼女が浮かべる笑顔があまりに眩しくて。その光のおかげで今の私があると言っても、過言ではない。
…駄目だ。昔のことを思い出すと、落ち着きかけていた涙が再びこみ上げてくる。
…冷静に…ならなければ。
「鈴仙、元気にしてるかい!?」
そんな言葉が部屋中に響き渡り、無理矢理に開けられた襖が悲鳴を上げながら柱へとぶつかった。
襖を開いた本人であるてゐはどこか満足げな表情を浮かべているが、いきなりの出来事に私は彼女を見入ることしか出来ない。
「……お取り込み中だったみたいね」
そう言われ、瞬時に自分が泣いていたことを思い出す。すると反射なのか、てゐに背を向けて涙を拭う自分がいた。
「ごめんね…。
でも、鈴仙に伝えなきゃいけないことがあってさ」
「…私に?」
一通り顔を拭き、私はてゐの方に向き直る。てゐはこの部屋の雰囲気からか少しばかり真面目な表情になって、私の前に座った。
「そ。少し前から言おう言おうと思ってたんだけど、ずるずる引き延ばす内に遅くなっちゃった。
…でも、その前にさ、一つだけお願いがあるんだけど、いいかな」
「どうしたの?」
「ちょっと今日はしんどいから、横になりたいんだよね」
「体調が悪いんだったら、明日話したんでも」
「今日話さないと、もう時間がないんだよ」
てゐのあまりに真剣な表情に押され、思わず怯んでしまう。それに追撃をかけるかのように、“お願い”と、頭を下げられた。流石に、そこまで言われれば断る理由も思いつかず、私は布団を敷く為に立ち上がる。そして押入から布団一式を取り出すと、いつもの場所に置き、いつものように広げる。そして、掛け布団を広げる最中に、てゐは布団へと滑り込んだ。
「…やっぱり、布団は人肌に温まったのが一番心地良いよね」
「冷たいのは仕方ないでしょ。今敷いたばっかりなんだから」
「ゆたんぽは〜?」
「そんな物は永遠亭にないことくらい、てゐも知ってるでしょ?」
「ん〜…
なら、鈴仙でいいや」
てゐの言葉に思わず吹き出してしまった。おまけにてゐは掛け布団を半分ほど折ると、腕だけを布団から出しておもむろに手招きをしている。
つまりは添い寝しろ、ということだろうか。…ゆたんぽ代わりとして。確かに人肌は暖かいものだが、鈴仙“で”という言葉がどうにも引っかかる。
「…私はゆたんぽと同じ扱いなの?
そうよね。寒いんだから、ゆたんぽくらいないとね」
「…そんなこと一言も言ってないのに。……鈴仙の、いじわる」
「いえいえ、私はゆたんぽですから」
「……。ゆたんぽじゃなくて、鈴仙が、良いです」
恥ずかしげにもじもじとしながら、布団の端から少しだけ顔を出すてゐ。ただ、その姿があまりにも可愛らしく、はにかんだ笑みがまた印象的だ。
それに幾許か紅潮したように見える頬は、さっきの台詞が余程恥ずかしかったことの裏付けだろうか。
「…灯りはどうする?
今日はここに寝るの?」
その問いにてゐは僅かに首を縦に振る。それを確認し、私は行灯の火を消して布団へと潜り込んだ。
光を失い、真っ暗になった部屋の中。まだ月は出ていないのだろうか。窓からは月明かりすら入らず、星たちもおぼろげな光を落とすだけだ。
真横には、てゐがいる。温もりや呼吸から、存在は感じることが出来る。しかし、暗さ故に表情まではわからない。
「いや、さっきの台詞は我ながら恥ずかしかったね」
くすくすと笑いながら、てゐはそう呟いた。
「そりゃ、聞いてる私が恥ずかしくなるんだから、当たり前でしょ」
「でもさ、盛り上げないと駄目かな、なんて思ってさ。
じゃないと、鈴仙は笑ってくれなかったでしょ?」
「…てゐの言う“冗談”ってやつ?」
「まぁ、そんな感じ。
寂しそうにされてると話もし辛いからね」
…面と向かったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、やっぱり、泣いている所を見られていた。そして、それを案じられていた。
何らかの話があるということは、てゐもそれなりの覚悟をして私の部屋に来たに違いない。…もっとも、登場の仕方だけは奇抜だったが。
その覚悟を前に、私が話を聞く状態にないとなると、出来るとすれば諦めるか強制的に話すかしかないだろう。もしくは、出来るのならば、場を和ませて話す空気を作るかの、どれかだ。
今はほのぼのとした、軽い空気が流れている。どうやら先程の会話で、雰囲気はがらりと変わった…と言うよりも、てゐによって変えられた。それもあってか、今の主導権は彼女が握っていることに間違いはない。
「…それで、話っていうのは?」
私の問いに、てゐは少しばかりの間押し黙ってしまう。ただ、時折聞こえてくる呻り声が、言うか言わまいかを悩んでいるのだということを教えてくれた。
暫くすると、てゐは決心をしたのか大きく息を吸い込んで話し始めた。
「ねぇ、鈴仙?
私はもう、死ぬんだよね?」
「……!」
自分が不治の病だということを、てゐは知らないはずだ。私たちはてゐに教えないようにしていたはずだし、てゐも医学には詳しくないのだから、わかるはずもない。
…確かに、普通では考えられない程酷い体調不良に襲われているのだから、感づくこともあるだろう。だが、それにしてもこの言葉は私にとって唐突過ぎて、数瞬、言葉を失ってしまう。
「…いつから気付いてたの?」
「ずっと前から。私が鈴仙のへそくりをくすねた時よりもちょっと前かな。
あの時は病気なんだろうな、くらいにしか思ってなかったけどね。今となってみては、あれより前にはもう、病気の兆候が出ていた気もするよ」
「……」
「さっきお師匠様に聞いたんだ。私はもう死ぬんだろうって。さっき鈴仙に聞いたのと同じように。
だったら、お師匠様は全部のことを教えてくれたよ。私は前々から自覚してたから驚きもしなかったけどね。
…師匠が言うにはね、どうやら、私は今夜を過ごすくらいが精一杯みたい」
精一杯…。つまり、それ以上はないということ。てゐが如何に頑張ろうとも、明日は来ないということ。師匠は本当に、そんなことをてゐに伝えたのだろうか。
「……それって、てゐがもう死んじゃうってこと?」
「そういうことになるね」
「でも、まだてゐは生きてる」
「いや、もう私は死んでるらしいよ」
私の言葉を遮り、てゐはそう言い切った。その言葉はあまりに非現実で、言われてすぐには理解することすら出来なかった。
少しばかりして、意味こそは掴めたもののそれをてゐに当てはめることが出来ない。明らかに目の前で会話をしているてゐがもう死んでいるとは、いささか信じがたい話だ。それがまた本人の口から聞いたのだから、どこかおかしい。
「あくまでもお師匠様から聞いた話だけどね。
私が今飲んでる薬は猛毒に近いんだって。確かに薬効はあるんだけど、それが強すぎて逆に死んでしまうんだってさ。
でも、私はもう体がぼろぼろだから、それくらい強いお薬を飲まないと症状が抑えられないらしくて。だから、私は生きているけど死んでいる状態なんだってさ」
「……」
「でも、もう薬でも限界なんだって。これ以上薬があっても私の体が持たないんだってさ。
…だからね、鈴仙にはお礼を言っとかなきゃなぁ、って思って。
姫様とお師匠様が地上に降りてきて、鈴仙がそれに加わって、それから今までずっと一緒に暮らしてきたけど。今までも一杯いっぱいお世話になって、迷惑も一杯かけて。私はずっと、お世話になりっぱなしだった」
勝手に、てゐが死ぬことで話が進んでいる。確かに会話の主導権を握っているのは彼女。でも、私にとってそんなものはさして大きな問題じゃない。
目の前で話しているのに。息遣いも、体勢を戻す時の衣擦れの音だって聞こえるのに。それの主原であるてゐが、もう死んでいるなんて。…嫌だよ。私はそんなこと信じたくない。
今、てゐが見えないのは、部屋が暗いから。姿が見えないだけで、存在ははっきりと感じ取ることが出来る。絶対に死んではいない。いつかは消えゆく命だとしても。…今はすぐ傍で、輝いているのだから。
「だからね、最後ということもあって、私は鈴仙に聞いておきたいことがあるんだ」
問われても、答えることは出来なかった。私はもう下唇を噛みしめて嗚咽をこらえることに必死だった。もしも口を開いてしまったら、絶対に我慢が出来ない。
「何で、鈴仙は泣くの?
…私が、死ぬから?」
「目の前にいる人が死ぬって聞いて、かなしくならないことなんて、ないでしょう…。
それが、親しければ親しい程、尚更…」
「…私は、嬉しいよ。私がいなくなることで、泣いてくれる人がいるなんて。今までろくなことをしてきた覚えがないしね。
それに、鈴仙が頑張ってくれてたこと、私知ってるから」
「頑張ってた…こと…?」
「昨日とか今日とか。それより前もそうなんだけど、何だかんだで理由をつけて私と一緒にいてくれるし、話し相手になってくれる。
今日なんて、里に一緒に誘ってくれて、とても嬉しかった。…例えそれが、私の命を削っていたとしても」
“命”という言葉が聞こえた時に、一瞬心臓が止まったかのように感じてしまう。
…そうだ。てゐは自分が死ぬことを前から知っていたんだ。それでも、私と共に話し、遊び、そして笑った。それら全ては、倒れること覚悟の上での行動だったのだろうか。自分には余力がないことを悟って、てゐ自身も思い出を作ろうとしたのだろうか。
「私が言っても信じてもらえないのかもしれないけどさ。鈴仙たちが来るまでは、私あんまり話す人がいなかったんだよ。だから、鈴仙が来た時は本当に嬉しかった。
うぅん、今だって、嬉しいよ。鈴仙がいてくれて。こうやって、一緒に寝たいなんていう私の我が儘を聞いてくれて。
だからね、泣かないで。私は鈴仙が生きていてくれるだけで嬉しいの。私はもうすぐ死んでしまうけれど……幸せだよ」
「……嘘吐き」
何故か口を突いて出た言葉がそれだった。その言葉はあまりに唐突で、自分ですらそれをいう意味が理解出来なかった。
だが、理由を考える内に、頭の中で回路が繋がる。それと同時に、今から私が言わねばならない言葉も思いつく。
…てゐの嘘には理由がある。それは他の人のことを思えばこそであり、それら一つ一つは、あまりにも小さくて、儚い。
だからこそ、気付いてあげられないのだけれど。今までも、ずっと傍にいながら力になってあげられなかったのだけど。今回だけは、言わないと絶対に後悔する。どうしようもない出来事に挟まれて葛藤することが目に見えている。
だから、いつもなら言わないけれど、今日は躊躇わない。真正面から、てゐと同じ地面に立って。
「……てゐは、私に嘘をつかないって言ったよね?」
てゐは僅かに、返事を返してくる。先程までの明るさとは違い、どこか暗さを感じてしまう声だ。
「てゐは、死ぬことは怖くないの?」
「……」
「いつも笑っているけど、てゐは自分の病気が治らないことは知っているんでしょ? 今日だって、里であれだけ笑って。さっきだって、あれだけ楽しそうに話してて。
師匠に聞いたよ。てゐのかかっている病気は、症状が死ぬよりも辛いんだって。それを無理矢理薬で抑えてて、相当辛いはずだって。……てゐは、辛くないの? その笑顔は本当の笑顔なの?」
返事は無かった。無言のまま、空白の時間は続く。
そんな中で、てゐはおもむろに私の胸元を優しくつかんだ。そして、柔らかな衣擦れの音を立てながら、てゐは私へと近付いてくる。
「……本当のこと言ったら、鈴仙に迷惑かけちゃうから」
「そんなこと、考えなくてもいいよ。私は迷惑をかけられるよりも、てゐが我慢する方がよっぽど嫌よ」
「でも…でも……」
ぐずるてゐの背中に手を回し、抱き寄せるようにして撫でてやる。彼女はぴくりとだけ反応したが、撫で続けてもされるがままだ。私自身も暖かな背中を撫でることはとても心地が良く、意識せぬままに何度も繰り返していた。
その内に、私の腕の中からは僅かだが嗚咽が漏れ始める。それは明らかにかみ殺したようなものであり、その所為かてゐの体は小さく震えている。
私は撫でる手を止めてそっと、彼女を抱きしめた。
「……怖いよ。ずっと、ずっと、怖かった。体全部が痛くて、今にも死ぬんじゃないかって、不安で。死んだら楽になるんじゃないかって、ずっと思ってた。死んでやろうかと思ったことだって、たくさんある。
でも、…それでも生きようって、薬を飲もうって思ったのは、……鈴仙がいたからだよ」
「てゐ…」
「…今日は楽しかったけど!
私はもっと鈴仙と話したかった! 遊びたかった! もっともっと、一緒に…」
私の胸元をつかむてゐの手が、次第に弱くなっていく。段々と手が離れ、続いていた嗚咽も途切れ途切れになる。
「……もっと一緒に…生きたかった」
その一言が、てゐの残した最後の言葉だった。