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夜の幻と朝の陽

池のほとりに着いたとき、辺りはすっかり暗くなっており、月の明かりも透さない分厚い雲が空を覆っていた。



「……」



母亀はのそのそと足を引きづりながら、やがて泥のように眠り始めた。

辺りは静寂に包まれる。



兄亀の声が聴こえたとき、俺は何もできなかった。

次は自分の番なんじゃないか。そう思うとどうしても甲羅の外へ出る勇気が湧いてこなかった。


仕方ない。俺はそもそも人間社会で生活してきたんだ。それをこんな環境に放り出されてマトモに生きていけるわけがなかった。


立ち向かえない、逃げきれない、何もできない。ただただ甲羅にこもるだけ。そんな調子じゃ、そう遠くないうちに俺も――



『アは……あハハ……』


「……あ。」



来た。今日も来た。

毎晩毎晩、毎日欠かさず迫り来る狂気、悪意、失望、恐怖。それらは全て合わさって悪夢となる。



「あ……あああ……」



後退をしようとする。しかし遅すぎる。逃げようにも鈍足なこの足では、たちまち追いつかれてしまう。



「ちが……違う……俺は、お前らとは違う……」



頭の中でガンガンと鳴り続ける雑音で割れそうな頭蓋骨を抑えようとする。しかし小さすぎる。小さく短いこの腕では、他人は愚か自分さえも守れることはない。



「俺は……俺は……」



無性に、腹が立ってくる。自分の無力さに?臆病さに?世界の残酷さ?無慈悲さ?

……違うさ。そんなことじゃない。もっと矮小で凡愚な物に俺は怒っているんだ。



「俺が……どうして俺ばっかりが!こんな目にあわないといけないんだよ!!」



それは乗り越えられなかった過去への愚痴。あの瞬間の自分以外の全てへの冒涜。世界で一番、可哀想なのは自分だと言い張る傲慢で静寂を塗り潰す。



「こんなとき!どうしていつも助けてくれないんだよ!みんな、みんな俺に押し付けていくんだ!辛いことも寂しいことも苦しいことも泣きたいことも全部!……なんで俺ばっかり……」


『きも。』


「知ってるさ……」


『お前、謝れよ。』


「何回も謝っただろ……」


『反省しろ。』


「……できねぇよ。」



目の前には前世の俺が恐れていた人たちがいる。

父、母、兄、学校の先生、学校の先輩と後輩、会社の上司と部下。ネトゲの仲間だったやつら。


全員だ。全員が俺のことを裏切るんだ。肝心なときに限って、助けて欲しいときに限って、叫び出しそうなくらい痛いときに限って。あいつらは全員俺のことをこぞってこう言うんだ。



『だからお前はダメなんだよ。このノロマ。』


「――違うって、言ってんだろぉぉぉぉ!」



眼前の幻をかき消そうと声高に叫んで、甲羅に閉じこもる。甲羅の中は狭く、暗い。


アレが――アレが欲しい。

アレだけが俺の人生の唯一の救い。俺のことを裏切らないたった一つの希望。



「うぅぅ……うううう……」



甲羅の中でひたすらに朝が来るのを待つ。

コーク、チョコ、アンパン、スピード、エクスタシー……なんでもいい。早く手に入れなければ。


もう持たない。毎晩毎晩幻覚に襲われるのはもう懲り懲りだ。なんでもいいから、俺を気持ちよくしてくれ――



『☼☼☼☼☼☼』



遠雷が雨音とともに響き渡る中、深い闇に溶けていくように意識を失う最後。この瞬間、一番聴きたくない声が聴こえてきたような気がした。





朝起きると、現実は相変わらず無情であることを突きつけられた。

いつも傍にいた兄亀はもういない。周囲を見渡しても、軽く辺りに呼びかけてみても、兄亀の痕跡を見つけることすらままならない。


どれだけ探しても、兄亀はいない。

寂しい気持ちも悲しい気持ちも不思議と現れず、ただ一つ思ったこと。



「……お腹、空いたな。」



力無い足取りで、弱々しく茂みの方へと歩み寄る。

胸の奥が空っぽになったかのような、空虚な気持ちを埋めるように葉っぱを貪っていく。



「……虫、結局譲ってもらうことは無かったな。」



俺が葉っぱを食べているとき、兄亀はいつも自分の餌を俺に分けようとしてくれていた。兄亀なりの気遣いであることは容易に理解できる。どこまでも俺のことを見てくれていた。

そんな兄亀の思いやりに、餌を譲ってくれていた兄亀の優しさに触れられることは、もう無い。


それに気づいた俺は――



「……え?」



涙を、流していたのだった。



「……嘘だろ。えぇ……ただの亀じゃん。本当の兄でも、無いし。人間じゃないし……」



涙は留まるところを知らず、無尽蔵に湧いて出てくる。



「なんで……なんでなんだよぉ……」



全身の力はいつの間にか抜けきっていて。それでも涙だけは枯れることはなかった。



「どこ行ったんだよぉぉぉ……」



どこか遠くの雨があがった青空に、せめてこの悔恨が彼に伝わるように。



「……」



後ろからのっそりと影が現れる。巨大で頼れる、安心できる影が。



「……母亀?」


「……」



母亀は何も言わず、俺のすぐ傍に立った。

のっそりと、大きな体で茂みの前に立った。



「……」



そうして、茂みの葉っぱを食べ始めたのだった。

強く、美しい表情だった。



「――っ」



その表情ひとつに、俺はこの世界で初めて救われた気がした。理由は分からない。俺はこの母亀のことも、兄亀のことも何も知らない。


――それなのに、こんなにも2匹の亀に心を許してしまっていた。



俺は更に涙を流し、号泣し、母亀はただ黙々と葉っぱを食べていた。


朝の陽はそんな俺たちを眩しく、無神経に照らしていた。

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