浜辺で2
術式の起動はノイエが行うらしい。彼女は敷物のすぐ脇にあぐらをかくと、軽く手のひらを敷物にのせる。
彼女を補助するためか、曽我部もチェアから腰をあげ、ノイエの近くに立った。
「いくよー」
緊張感のない声で言った直後、ノイエの雰囲気が一変する。
すっと集中する眦は凜々しく、彼女の周囲の空気が澄んだように見えた。
「ムーンウォーカー」
唱えたのは、おそらくこの術式の名前だろう。誰の名付けかは気にしないことにする。
彼女の魔力を得て、術式が淡い紫色に光りを帯びた。
敷物の四辺から、薄い膜のように同色の光が立ちのぼり、周囲を薄い光の壁で囲まれる。
と同時に、すっと驚くほど体が軽くなり、内臓が浮くような感覚に見舞われた。
驚いて隣のガジャルを見上げると、同様に寸の間驚いた表情を見せ、次の瞬間にはにやりと笑う。
軽く体を動かしたガジャルは、しゃがみこむと、そのまま垂直に跳び上がる。
元々、ワイヤーで吊っているのではないかと千波が疑うほどの跳躍力をもつ彼は、軽々とビルの4~5階ほどの高さまで跳び上がり、ふわりと軽く着地する。
「すごー」
「お前も跳んでみろ」
言われて千波が遠慮がちに跳び上がると、それでも普段よりも何倍もの軽さで体が浮き上がる。
移動速度は次第にゆっくりとなり、停止したと思ったら、今度は下に落ちてゆく。その落下速度も、体で覚えているよりゆっくりだ。
敷物の上に両足を着けると、千波は思わず笑顔になる。
「……楽しい」
「でしょー」
ノイエが満足げに頷く。
自分の身長より高く跳ぶだけなら、うんと幼いころにトランポリンで経験したことがある。しかし、それ以上に、上昇も落下もゆっくりで、本当に空を飛んでいるような気分になれる。
数度ジャンプを繰り返し楽しんだらしいガジャルは、何かイメージするように体を動かしながら、空中で回転してみたり、脚ではなく、腕の力で跳んだりしている。
「近接だけだと組み立てにくいな」
「魔法組み込むか、獲物を斬撃系にするかしたほうが良いだろうね」
友也と物騒な話をしているのは、遠征で重力が少ない次元に行った場合を想定してのことだろうか。
彼らを横目に、千波はただ単純にジャンプを楽しむ。
鍛錬では体が思うように動かず、しかたがないと自分に言い聞かせながらも、思ったよりストレスがたまっていたらしい。
マンガのヒーローばりのジャンプができるのは純粋に楽しい。
海のきらめきが、遠ざかったり近づいたりするのを新鮮な気持ちで見ている。周囲の学生たちも、そんな千波の様子を楽しそうに見上げている。
上空一番高いところでふと花と目が合うと、彼女はふっと少し笑って手を振ってくれた。
調子にのって、見よう見まねでくるりと後ろに回ってみたら、勢いがつきすぎて三回転ぐらいしてしまい、見事に着地でつぶれた。
「空中での自分の姿勢を把握しろ」
ガジャルが呆れたように言うが、ガジャルでも猫でもない千波には、空中での姿勢など、意識できるはずもない。
通常の千波の滞空時間は、非常に短いのだ。
「そろそろ終わるよー」
ノイエが声をかけてくる。その声に、自分たちが楽しんでいるあいだに、複雑で魔力を多く消費しそうな術式を彼女が維持し続けてくれていたことに気がつく。
負担をかけてしまったかと千波が振り返ると、にっこりと微笑み返された。
「ありがとう。先輩。超楽しい」
言おうとしていた謝罪の言葉を感謝に変えると、正解、とばかりに頷かれた。
「おい、最後に一つ、試してみるぞ」
ガジャルが声をかけてきて、無造作に千波を担ぎ上げる。体重も軽くなっているので、本当に軽く持ち上げられた。
右の手の平に足をのせるように言われ、なんとなくガジャルが何をしようとしているか思いつく。
「……まじで?」
「できるだけ真上に飛ばす」
「えー」
千波が顔をひきつらせていると、「多少の怪我なら、俺がいるから大丈夫」と、友也も笑顔でさらに千波の顔がひきつるようなことを言ってくる。彼が研究会で重宝されているだろうことだけはわかった。
とはいえ、千波も少し心惹かれている。
「危なそうだったら、ちゃんと助けてよ」
曽我部も止めないので大丈夫だろうと頷いて、いつもは見上げているガジャルの頭に手をのせて、バランスをとる。犬耳を撫でたくなるのは我慢した。
ぐっとガジャルがしゃがみこみ、少しの溜めのあと、その強靱なバネで一気に跳び上がった。
その時点で、自分で跳んだとき以上の速度と高さに「ひゃあっ」と間抜けな声がでる。
かなり高い位置で、上昇する力と重力とが拮抗し、一瞬空中に身体がとどまる。
そのタイミングで、ガジャルの腕に力が入り、押し上げられるのにタイミングを合わせて、千波もささやかながらジャンプした。
身体はさらに上昇し、もう、海がはるか遠くまで見渡せる。
見ないほうが良いとわかっていながら、視線を少し下に向けると、見上げる学生たちがだいぶ小さい。
重力が小さいとはいえ、この高さから落ちれば、地面に着くころには結構なスピードが出るのではないだろうか。
ふわり、と再度、力の拮抗する地点に到達したあたりで思いつき、今さらながらに後悔する。
だが、束の間の空中散歩中の千波には、どうすることもできない。落下するにまかせるしかない。
と、案外のんきに腹をくくったところで、落下が始まった。
だんだん速度が増していく視界に、さすがに恐怖をおぼえるが、姿勢を崩して頭から落ちることだけは避けたい。
意味があるかどうかはわからないが、両手を広げてバランスをとる。
「千波!」
どこからか名前を呼ばれた。だが、応える余裕は当然ない。
緊張しながら本物のフリーフォールの着地の瞬間に身構えていると、急に一瞬だけふわっと身体が浮き、落下速度がゼロになる。
それまでの落下の勢いで、くるっと身体が回転し、内臓が口から出そうな気分になるが、地面に叩きつけられることはなく、ふわっと誰かの腕が身体を捕まえてくれた。
驚いて顔を上げると、なぜか、やたらと整った顔の黒髪の男がじゃっかん青い顔をしてこちらを見ていた。
なぜ、と疑問に思うが、その疑問など吹き飛ぶほどに、ジェットコースターに乗ったあとのような爽快な気分だった。
心配げにこちらを見る紫の瞳をよそに、顔がにやけるのがとめられない。
「……っ、あははははっ!」
ついこらえきれず、大声で笑う。
急に笑い出した千波に、千波を抱きかかえる玲が面食らったような顔になる。
その表情すらも面白く、さらに千波は笑いつづける。
「……怪我がないなら、降ろすぞ」
地に足がつくと、ようやく笑いがひいてくる。
息を切らしながら、目尻に浮かんだ涙をぬぐうと、呆れ顔の玲を見上げる。
「玲先輩、なんでここにいるの?」
「寮に戻る途中に、お前達が非常識なことをしているのが見えたからだ」
あれほどの高さまでジャンプしていれば、目立って当然である。
「あんな高さから落下すれば、いくら重力軽減していても、骨折するぞ」
「あ、だから俺が……」
手を挙げようとした友也に、玲が冷たい視線を向ける。
「いくら治せても、痛いものは痛い。怪我をしないことを最優先に考えるべきだ」
「すみません」
うなだれた友也に少し同情しつつ、千波もさすがに真面目な表情に戻る。
「……ごめんなさい」
「まあ、無事だったなら良い。説教は、あとで多喜がじっくりしてくれるだろう」
玲が目顔で示した先では、砂浜にあぐらをかいたガジャルに、両手を腰にあてた多喜が、なにやら言い聞かせている。
めずらしくガジャルは言い返さず、ただ仏頂面でそっぽを向いている。
狼の耳が、たまにぴるぴると動くのは、しっかり多喜の小言を聞いているのだろう。
「それに、楽しんだ分、しばらくつらいぞ」
玲の言葉に首を傾げると、ノイエが「じゃ、術式終わりー」と両手を叩く。
と、術式が帯びていた光が消え、敷物の四辺から立ちのぼっていた光の膜も消える。
同時に、重力が戻り、一気にずんと身体が重くなる。
「うえ」
普段と同じ重力のはずだが、つい先ほどまで、十分の一の重力の中にいた千波にとっては、十倍の重さである。
もはや立っていられず、べしゃりと敷物の上に横になった。
それでも、何か重たいものにのしかかられているような気分になる。
「やっぱり、反動きついですよね」
「こればっかりはねー。うーん、エリアで長時間使うより、ジャンプする時に局所的、一時的に使えるようにしたほうが実用的かな」
「それなら、近接戦闘にも組み込めますね。高く跳びすぎないよう、三分の一でも良いかもしれません」
「逆に、落下の衝撃軽減に使うのもアリかもね。さっき、玲がやってたみたいに。そうすれば、パラシュートなしでの降下ができるよ」
「それは、内臓飛び出そうだから、私は遠慮します」
つぶれている千波を横目に、花やノイエは術式の改良方針について淡々と話し合っている。
「瞬間的、局所的に使うのであれば、三分の一と無重力とを切り替えるスイッチを組み込んだうえで、デバイスに術式を刻印する方式が良いだろう。だが、現在の術式では長すぎて発動に時間がかかる。まずは術式の無駄を省くところからだ」
曽我部も、生徒を気づかうつもりはないらしい。「うー」と千波が唸っていると、ガジャルへの説教を終えたらしい多喜が声をかけてくる。
「ほら、そんなところに寝転んでいたら、頭まで砂まみれになるぞ」
「だって……身体重い……」
「十年以上慣れ親しんだ重力だろう。錯覚だ。立て」
「ひどいー。てか、ガジャ先輩は平気なの?」
「たしかに反動はあるが、立てねぇほどじゃない」
ぐるぐると肩を回しながら、ガジャルが言う。心なしか耳が垂れているように見えるのは、重力のせいか、多喜の説教のせいか。
「おい、これ、逆に重力重くはできないのか。二倍の重力とか」
「できるだろう。あの辺の式をいじればいい。重力を大きくするほうが、むしろ簡単だ」
軽く頷いたのは玲である。彼の簡単という語の解釈については、議論が必要かもしれない。
「先輩のことだから、どうせ演習室一つ、まるごと重力重くして負荷かけてトレーニングするつもりでしょう」
「いちいちウェイトかつぐより楽だろ」
「いや、絶対ウェイトかつぐほうが楽ですから」
ガジャルとの頭の悪い会話を打ち切って、多喜が千波の腕を引いて起こす。
どうにか立ち上がった千波だが、まだ身体が重い。
「さあ、帰るぞ。飯を食いはぐれる」
「歩けるかな、俺」
「つらいなら、俺が運ぼう」
真顔で言ってきたのは、玲である。
この美麗な先輩は、おそらく本当に、そうするだろう。なぜかそう確信した千波は、全力で首を振る。
「いえ! 大丈夫。歩けます。というか、歩きます」
「そうか」
軽く頷くと、玲は曽我部に声をかけてから、「帰ろう」と千波らをうながす。
術式研究会の面々は、どうやらもうしばらく、議論を交わすらしい。
「千波、協力ありがとう」
「俺も楽しかったから。また明日、花」
花に手を振ってから、千波は、どうにか遅れないよう玲たちの後を追った。
「あ、そうだ。玲先輩」
声をかけると、玲が振り向く。
「ありがとうございました」
「何が」
「さっき。助けてくれたじゃないですか」
本気で不思議そうな顔をした玲に、半ば呆れて言い返すと、彼は、ああ、とやはり意外そうな声を出す。
「通りがかっただけだ」
「じゃ、俺、ラッキーでしたね」
「そうだな」
「魔力測定のときも、先輩がたまたま助手でラッキーでした」
「そうか」
「図書館でも、先輩がエラーリムの花知ってて、ラッキーでしたし」
「……そうかもしれないな」
「玲先輩って、俺の幸運のお守り?」
「調子に乗るな」
そう言った玲は、軽く笑っていた。彼には珍しいその表情に、千波も思わず笑みがこぼれた。
このあと、夕飯のときに、多喜にみっちり叱られます。
飛行魔法は、また別の理論なので存在はしますが、
それこそ補助なしじゃ難しいので、ほうきは必須です。
ど文系が書いているので、科学的な穴ぼこだらけですが
ファンタジーなので良いのです。




