あおり運転 ~ある男の失敗~
「ったく、ちんたら走りやがって」
彼──焼津充──は苛立っていた。
昨日は納期の遅れから休日出勤する羽目になり、貴重な土曜日を潰してしまったからだ。
それもこれも、あのグズのせいだ。
この春、彼の下に配属になった臼野が部品の発注を間違えたせいでスケジュールが狂ったのだ。
まったく、ド新人ならともかく、もう4年目だろうが。今までいったい何してやがったんだ。
スケジュールの遅れを取り戻すため、彼は方々に頭を下げまくり、昨日も作業に出てもらった。頼んだ側が休めるわけもなく、彼自身も出勤する羽目になったというわけだ。
でも、臼野の野郎は、キッチリ休んでやがったけどな。
正直、臼野がいたところで何の役にも立たないのだが、自分たちの休日出勤の原因を作った臼野が休んでいるというのは業腹だった。いればいたで、やはり腹を立てたに決まっているのだが。
今、彼は、本当なら昨日出掛けていたはずのドライブをしていた。
バイパスの右車線を70キロそこそこで走っている目の前の車に、彼は苛立っていた。
いかにも大事にしてますという感じの真っ赤なスポーツカー。たしか300万以上するはずだ。
「スポーツカーのくせに、70キロで走ってんじゃねえよ」
結局のところ、彼は八つ当たりの対象を求めていたのだ。
左車線は、重機を積んだトレーラーが走っているため後続車が連なり、時速50キロほどで流れていた。そのため、普段なら左車線を走るような速度の車が右車線を走っている。
「50キロで走るくらいなら、バイパスになんか来んなよな」抜くに抜けず、彼のイライラは溜まる一方だ。
そして、ようやくトレーラーを追い越したCH-Rは、左車線に移った。
追い抜きざまにCH-Rの運転席を見ると、眼鏡をかけた細面の男で、走り屋という雰囲気でもなかった。なんとなく雰囲気が臼野に似ている気がする。
こんなのが高いスポーツカーに乗ってノロノロ走っているのかと思うとイラッとする。もちろん、こいつが臼野じゃないことはわかっている。
だが、貴重な土曜日を潰してくれた男とよく似た男が自分の前を塞いでいた、そのことに、焼津のイライラは遂に爆発した。
時速60キロを少し超えるかという程度のノロマなCH-Rの前に自分の車を滑り込ませてブレーキを掛け、そのまま40キロ近くまで落とす。
当然、CH-Rは追突しないよう速度を落とさざるを得ない。
じきにトレーラーが追いついてきて、挟まれるだろう。そう思うと、少し溜飲が下がった。
CH-Rは、焼津の嫌がらせに気付いたようで、脱出しようと右車線に入った。
なんだ野郎、逃げようってのか。
再びイライラした焼津は、CH-Rの後ろについて、車間を詰める。
追い立てて、追い立てて、車線変更されても追いかけて。
チョロチョロしやがって、鬱陶しい。
何度目かの車線変更で左に入ったCH-Rを追い越し、目の前で急ブレーキを掛けて止まる。
CH-Rは、右に入ることもできず、止まった。
焼津は車を降り、CH-Rの方に向かう。
ドアを開けようとしたが、ロックされていた。
「てめえ、出てこい!」
ドアを蹴ると、窓が開いてCH-Rを運転していた優男が答えた。
「あなたのあれは、あおり運転ですよ? 警察呼びましたからね」
「警察」という言葉に、またイラッとした。
「ざけんな! チンタラ走りやがって! さっさとトレーラー追い抜きゃよかっただろうが!」
窓から手を突っ込んで男の胸ぐらを掴んだら、男は黙ってウインドウを上げ始め、このままでは腕が挟まれてしまうと思った焼津は手を引っ込めた。
ふと気が付くと、助手席にいた女がスマホを操作している。
警察を呼ばれたのはまずい、と思った焼津は車に戻ろうとしたが、後ろから襟首を引っ張られて尻餅をついた。腰を付いたまま仰ぎ見ると、車を降りてきたらしい男が襟を掴んでいる。
「てめえ! 何しやがる!」
見上げたまま怒鳴ると、男は襟首を掴んだまま
「警察が来るまで、ここにいていただかないとね」
と薄く笑った。
襟を掴んだ手を引き剥がそうとした焼津だが、逆に首を押されて体育座りのように押し固められて身動きできなくなった。
「お、おい! 放せ!」
「放したら逃げるでしょう?
警察が来るまで、このままでいてもらいますよ」
「苦しい! 放せ!」
「あなただって、私の胸ぐらを掴みあげたでしょう。
私が苦しくないとでも思ってたんですか?」
結局、20分ほどしてパトカーが到着するまで焼津はそのままの体勢だった。
「進路妨害に、器物損壊、暴行だね。
署で話を聞かせてもらいましょうか。
できれば、あなたにもお話を伺いたいんですが」
警官は、焼津の免許証を確認した後、CH-Rの男にも声を掛けた。
「ええ。あ、これ、ドライブレコーダーのカードです。
状況が映ってますし、こちらのスマホでも動画を撮ってますので」
男は、そう言ってマイクロSDカードを警官に見せた。
そうこうしている間にやってきた車がパトカーの後ろに止まり、そこから男が降りてきた。
男は保険屋を名乗り、焼津が蹴ったドアの写真を撮って、焼津に名を尋ねた。
「あ? 個人情報だろうが!」
保険屋は、吠える焼津を気にする素振りもなく、ならばと警官に話をする。
「損害賠償の関係で連絡しなければなりませんので、後日こちらの方のご連絡先を照会させていただきます」
結局、焼津は、警官に促されるかたちで、名前と住所、ケータイの番号を教えることになった。
その後、焼津は、身元がしっかりしていたことから、呼び出しに確実に応じることを条件に、逮捕されることなく帰宅することができた。
罪状は、進路妨害(道交法違反)、胸ぐらを掴み上げた暴行、ドアを凹ませた器物損壊と言われた。
ドアに付いた足型と焼津の靴が一致することも確認され、写真が撮られた。
言い逃れは不可能と観念した焼津だったが、ニュースになったり会社にバレたりだけはしないようにしなければ、と思った。
散々だった週末明けの1週間を、気が重いまま焼津は過ごした。
仕事で特にミスすることなく過ごせたのは、僥倖と言えただろう。
そして、更に翌週の火曜日。焼津は昼休みに、受付から来客を告げられた。
予定はないはずだがなと思いつつ受付に行くと、見知らぬ男が待っていた。
「弁護士?」
渡された名刺を見て、焼津は目を疑った。
「これは一体…」
「先日のあおり運転の損害賠償、わかりやすく言いますと弁償のお話をさせていただきに参りました」
「しかし、あれはもう警察で…」
周囲の目を気にした焼津の声は、自然、小さくなる。
「警察でやっていますのは、刑罰のお話でして、車の弁償その他の民事関係は、別のお話になるんですよ。
とりあえず、資料をまとめてきましたので、こちらをお読みください。
示談書の案を入れてあります。
示談できた場合、こちらとしては被害届と告訴を取り下げる用意があります。
そうすれば、少なくとも器物損壊は不起訴になりますし、暴行もそうなる可能性が高いですよ。
では、2~3日中にこちらにお電話ください。
色よいお返事をお待ちしています」
夜、帰宅した焼津は、示談書とやらを読んで絶句した。
492万8千円。それが弁護士が提示してきた示談金額だった。
内訳は、新車の購入費用と事情聴取のせいで1日潰れたことに対する慰謝料、弁護士費用だった。
翌日の夜、焼津は、警察で担当者に示談書を見せて相談した。
そして、担当者から言われたのは、弁護士が言ったことに嘘はない、ということだった。
「車を傷付けて胸倉掴んだんだから、賠償金を求められるのは当然ですよ。
金額については、当事者同士の話し合いだし、なんとも言えないですが。
警察には、民事不介入って原則があるから、示談しろともするなとも言えないんですよ。
ただ、被害届と告訴が取り下げられたら、暴行と器物損壊が不起訴になるだろうってのは本当です。器物損壊は告訴がないと起訴できないし、暴行も、胸倉掴んだ程度なら、被害者が許してやってくれって言ってきたら起訴されない可能性が高いです。決めるのは警察じゃなくて検察官だから、絶対ではないですがね。可能性は相当高いです」
「俺だって、襟首捕まれて押さえつけられてたんですよ」
「あれは、逃げようとしたあなたを捕まえただけでしょ。
現行犯の場合、警察官でなくても、逮捕していいんです。あなたは暴行と器物損壊の現行犯だから、被害者が逮捕したって何も問題ない。
そりゃ苦しかったかもしれないけど怪我したわけじゃないし、実際、あれは逃げられないよう押さえつけてただけだからね」
「この弁護士費用ってのは?」
「この手の損害賠償では、裁判になった場合、弁護士費用も請求していいことになってんですよ」
「だからって、あの程度の凹みで新車買換って…」
「その辺は、だから、当事者同士の話し合いですよ。民事不介入で、警察ではなんとも言えません。
交渉して安くしてもらうってのも、もちろんできます。向こうが応じるかどうかはわかりませんが」
更に翌日、焼津は弁護士と会って話した。
「当方は、値下げ交渉に応じる気はありません。
払いたいがすぐに払えないということなら、会社に前借りするなり、ご両親にお願いするなりなさってください。
なんでしたら、こちらから上司の方にご相談差し上げますが?」
「…脅すのか?」
上司に話などされたら、自分があおり運転の挙げ句暴力沙汰を起こしたことが会社にバレてしまう。そんなことになったら、その後会社にいられるかどうか…。
焼津が睨むと、弁護士は笑って言った。
「まさか。
暴力沙汰を起こして賠償の金がいる、などと相談しづらいようでしたら、お口添えしますよと申し上げています。
払いたくないと仰るのでしたら、民事裁判を起こして請求するだけのことですから、こちらとしては示談に応じていただけなくても困りませんし、脅す必要などありません。
当方に落ち度はありませんから。
ああ、もちろん、裁判になった場合、告訴の取下はしませんが」
結局、焼津は、貯金で足りないところを親に泣きついて示談金を払った。
その結果、弁護士の言ったとおり、交通違反の罰金数万円だけですんだが、約500万という大金を失い、親からの信用も失い、焼津はしばらく家と会社の往復しかしない生活を送ることになったのだった。