第十一話「嘘は良くないな」
【さくら視点]
昨日は食後にお風呂に入ってから、八時前には寝てしまった。
一日で色々ありすぎたせいか、なんだかんだ疲れていたみたい。
それに、春臣さんがゲイだとわかってはいても、やっぱり男の人と一つ屋根に下で暮らすのは緊張するしどうしてもドキドキしてしまった。
お風呂だって普段春臣さんがつかってるんだと思うと、妙にドキドキして落ち着かなかった。
あと、自分の歯ブラシを洗面所に置かせてもらった時なんか、春臣さんのと並ぶ自分の歯ブラシを見て思わず興奮してしまった。
私にもこんな日が来たのか、と。
まあ、そんな風に思ってしまった自分が妙に恥ずかしくて、まともに春臣さんの顔を直視出来なくなっちゃって、部屋で布団を被ってたらいつの間にか寝ちゃってたんだけどね……。
お陰で超早起き出来たけど。
まあまあまあ。それはそうと問題は今よ。
雑なのよ、このハウスキーパーのおばさん。
しかし、こんなんでも採用されたんだよな。
あ、でもきっと正社員じゃないよね?
でも最初に顔写真付きの身分証を見せて来たよな。
やっぱり社員……?
いや、こんな仕事する人が面接通るはずがない。
だってあの面接の緊張感と言ったら生半可なものじゃない。
あのチクチク針で刺されているような瘴気で覆われている脅威の空間は、その人の為人全てを露見させてしまう魔空間だ。
歴戦の面接官が否応なしにその毒牙を剥き出しにして襲いかかって来る。
紅生姜の漬け汁がチェイサーのような時間を乗り切らなければならない。
決してこんな仕事をする人が乗り切れるはずがない。
もし乗り切れたのであればその面接は紛い物。そう、バイトの面接だ。
今は人が足りないから雇ってみてからジャッジすればいいや。的なそれだ。
だって、そうじゃなかったら無残にも不採用となった人が浮かばれない。いや、主に私が!
そのくらいこのおばさんは雑だ。
ほら、シンクにしずくが残ってるし。全くもう……。
「あのう。そうやってすぐ後ろをついて来られると、どうにも仕事がやり辛いんですよね?」
「あ、すみま……いや、でもそれを言う前にここにしずくがいっぱい残ってるじゃないですか。水垢の元になりますよ。私、お仕事はちゃんとした方がいいと思うんですよね?」
ちょっと怯んだけど言ってやった。
やっぱり仕事はその仕事に対して誇りを持ってきっちりやるべきだと思うの。
「あら、これでも私はプロなんですよね。
このくらいなら放っておいてもそのうち蒸発します。水垢だって既にありますし。私も考えてやってますので、素人が余計な口出しをしないでもらえます?」
「…………」
人をおちょくるような傲慢なおばさんの言い方に、怒りによる過呼吸で声が出ない。
何だこのおばさん。
水垢はあんたの今までの雑さが原因でしょうに。
それにシンクのしずくだけじゃないし。
そもそもその雑巾だって何日も洗ってないでしょ?
毎日ちゃんと洗ってたらそんな酸っぱい臭いしないし。汚れだって広がらないし。
あれこれ言う前に雑巾を洗えって言うのよ!
って言うか、そもそもそんな雑巾持って来ないでよ!
「確かにその汚くて臭い雑巾で拭くよりは自然乾燥の方がいいですよね? 私はあなたが目も鼻も効かないのかと思って、代わりに見てあげていただけですよーだ!」
言ってしまってから、私はこのおばさんの雇い主でもなんでもない事に気づいた。
きっとこのおばさんにとっては私なんてただの小娘でしかない。
しかも就職すら出来なかった負け組なんだよね、私。
これ、負け犬の遠吠えってヤツ?
でも後悔先に立たずとはこれね。
言ってしまった事は取り消せない。
しかも怒りにまかせてつい意地悪気味に言ってしまったよ……。
「ふん」
沈黙のまま私を見ていたおばさんが鼻で笑った。
そして首をふりながら私に背を向けると、ゴミ箱の袋の取り替えにかかった。
何このおばさん。
思ってた以上の強敵だ。
後悔して損したかも……。
「あなたもあれよ? そうやって親どころかお兄さんの脛をかじってるくせに、そんな風に人の粗探しして喜んでるようじゃ、将来碌な大人にはなれないわよ? 私は遊んでる訳じゃなくて仕事してるのよ。あなた学生さんなんでしょ? 他人にああだこうだ言う前に、学生の本分である勉強をしなさい?」
「………………」
おばさんは私に目もくれず、ゴミ箱を漁りながら見下すように言い放った。
所々言い返したい事はあるにせよ、大筋ではおばさんに正論を言われているようで悔しい。
でも、私はお母さんは勿論、お兄ちゃんの脛なんて断じてかじっていない。
それに春臣さんにお世話になるのだって、晴れて雇用されての事だ。
確かに春臣さんには甘えている形だとは思う。
そうは思うけど、こんな雑な仕事をしている人には言われたくはない。
私の事なんか何にもわかってないくせに……。
「あの、何か話が行き違いになってるみたいですが、私、確かに今は学生ですけど、春臣さんの妹なんかじゃなく、春臣さんの“許婚”ですから。そんな風に雑な家事をされてたら、許婚としては文句も言いたくなりますよね? ましてやあなたは私の大切な人の食事の用意までするんですよ? 心配になって仕事を見るのは当然だと思いませんか?!」
「…………」
グシャっとゴミ袋を握りしめたおばさんは、何も言わずにゆっくりと振り返る。
まん丸の目ですんごく睨んでくる。凄い目力だ……。
バ、バレたか…………?
「も、申し訳ありませんでした!
野咲さんからは学生の女の子がいるけど通常通りよろしくとだけお聞きしてましたので、てっきり妹さんだと勘違いしていました。どうかこの事はご亭主には内密でお願いしたいのですが、いや、せめて会社の方に苦情を入れるのだけは……あぁぁあああ、どうか許してください!」
くの字どころじゃなく頭を下げたおばさんは、さっきの傲慢な言い方から一転、引くくらいに震えた声で最後は発狂気味に声をあげた。
悔しくて嘘ついちゃったけど、こんなリアクションされると罪悪感が半端じゃないな……。
だけど、ご亭主とか……言われると……。
新鮮でなんか上がる。
ま、それと同時に痛々しい嘘をついたもんだと、入れるもんならあの排水口にでも速攻で入りたいんだけどね……。
「い、いや……な、何もそこまでしようとか思っていませんので…………。ちゃ、ちゃんとお仕事をしていただければ、私はそれでいいんです……」
「ほ、本当ですか?」
「本当です。お仕事さえちゃんとしてくれればいいんです。何も会社に苦情を入れようなんて思っていません」
「ではご指示通り仕事しますので、苦情は入れないと約束していただけますね?」
「え?」
ブワンと凄い勢いで頭を上げたおばさんは、いつの間にか私の手を握っていた。
相変わらず目力が凄くて思わず頷いてしまった。
やっぱり思ってた以上の強敵だ。
社会人はこのくらいの鋼のメンタルが必要なのかも知れない。
私、社会人になれるのだろうか……。




