プロローグ(後)
「……ぶはッ!!」
暗転していた視界が元に戻る。
身体が何かに拘束されているように思えて、必死になってそれを外そうとしたが、自分の現状を思い出して慌てて止めた。
そうだ、俺は海に落ちたんだった。つまり、この邪魔な何かはライフジャケットであり、まさしく俺の命綱なのだ。
しっかり着用できている筈だが、無意識にベルトを掴んでしまう。
(しかし、あんなに凪いだ海だったのにどうしてあんな高波が……?)
一瞬頭に疑問がよぎったが、そんな事はすぐにどうでもよくなった。
何故か。俺が、嵐の海の中に浮かんでいたからだ。
「はぁぁあああああああ!?」
全く訳がわからない! 何だこりゃ!?
事前に天気予報は何度も見た。なんたってバイクは雨に弱い。それを思い返しても台風なんて来ていなかったし、ゲリラ豪雨にしたって強烈すぎる。
だいたい、陸地の灯りすら見えないレベルの嵐って……あの晴天からどうやったらこの天気になるんだ!?
もしかして、海に突っ込んで一瞬前後不覚に陥っただけかと思っていたが、実は気を失って結構な外洋まで流されていたのだろうか。
だとしたらヤバい。一応マナーとしてライフジャケットは着けていたが、それだけだ。本気で遭難した時の対策なんてしている筈がない。
だって、ただの堤防釣りだぞ。専用のGPSビーコンみたいな物は当然持っていないし、GPSが搭載されているはずのスマホはズボンのポケットだ。
防水加工も何もしていないから、今頃は三途の川を渡っているだろう。最近機種変したばかりなのに。クソッ。軽くポケットをまさぐってみたが、そもそも波に揉まれているうちに失くしてしまったようだった。
壊れたスマホなんてどうでもいい。今は命の危機だ。幸い、意識はまだはっきりしている。海水もただちに凍えるほど冷たいわけではない。
しかし、広い海に浮かぶ一人の人間を見つけるのは至難の業だ。それこそ砂漠で砂粒を探すようなもの。その上にこの嵐だ。
俺が生きている間に救助される確率はお世辞にも高くはなく、それどころか遺体を発見してもらえるかどうかさえ微妙だ。
……だからって、諦めるつもりはない!
とにかく、今の俺にできるのは体力の温存だ。力をなるべく抜いて、海に浮かぶ。
ライフジャケットのおかげで、海面に顔を出しているだけであれば、今の大荒れの海でも何とかなる。
……滅茶苦茶波をかぶるが、暴れたってそれは変わらない。
"全力でできる事"が"全力で力を抜く"っていうのがなんだかちぐはぐでおかしいが、今は緊急事態だ。ふざけてはいられない。
目を瞑り、雨と上下左右に揺さぶってくる波に耐えながらこれまでの事を思い返す。
(ああ、畜生。こんな事になるくらいだったらもっと遊べば良かった。貯金だって意味が無くなったし……憧れだったあのリッターバイク、思い切って買ってしまえば良かったんだ。ゲームの宇宙船だって、パーツだけ集めてまだ作ってない。……って、この期に及んで悔やむことがバイクとゲームだけか。小さいな俺……なんか笑えてきたわ……)
なお、ハードディスクには常日頃からプロテクトをかけているので爆破処理の必要はない。
(俺が死んだら葬式上げてもらえるんだろうか……親とは疎遠だし、だいたいこの場合は行方不明扱いなのか? 何年か経って死亡判定っていう……墓に名前を刻まれて終わりなのかな? そんなに経って改めてちゃんと弔いを……って事にはならないだろうな)
軽口を叩くような感覚で、自分の死んだ後の事を考える。
それは決して俺の心が強いからではなく……冗談めかさないと向き合えないからだ。目の前に迫る、死の恐怖に。
(あいつは悲しんでくれるだろうか。そういえば俺の仕事、ちゃんと引き継ぎをしないで投げることになる。あいつ別の意味で泣くだろうな……。
友人は俺の死を知ってどう思うだろうか。短い人生だったが、それなりに充実していたと伝えてやりたい……)
そんな取り留めもないことを考えていた時。
稲光に照らされて、至近距離にそれは現れた。
帆船である。
「……は?」
現状を一瞬忘れて、呆けてしまった。
もう一度言おう。俺の目の前に現れたのは、帆船 である。
遊園地のオブジェか? こんな船が現役で、それもこんな嵐の中を航行している筈がない。 これは一体どういう事だ?
……いや、そんな事はどうでもいい!
目の前に船がある、それが重要だ!
「お―――いッ!! おぉ―――いッ!! 助けてくれェ――――ッ!!」
こんな嵐の中、甲板に人が居るとも思えない。それに、声なんて聞こえるはずがない。
それでも、万が一そこに人が居て、万が一俺の声が届く、そんな可能性。
それに賭けずにはいられなかった。このままでは、どうせ死ぬのだ。
「おぉぉ―――――いッ!!! ここだァ―――――ッ!! 誰でもいい――ッ!! 気付いてくれ―――ッ!!!」
必死に声を上げる。甲板の縁に人は見えない。それでも声を上げる。
頼む……っ! 誰か気付いてくれ!!
そんな俺の祈りが通じたのか、甲板の縁に人影が見えたような気がした。
いや、間違いない、あれは人だ!!
暗い色で塗りつぶされかけていた心に明かりが灯る。もしかしたら助かるかもしれない。
「おぉぉぉぉ――――いッ!!! おぉ――――いッ!!」
叫ぶ。叫ぶ。
甲板の上の人影は、嵐に翻弄されながらも手すりにつかまり、そして……
ミシミシミシッ……バキンッ……ベキベキッ……
目の前で、船が2つに割れた。
「……あ?」
あまりの事に、マヌケな声しか出ない。
んん? どういう事?
ああ……なるほど……船が嵐に耐えられなくなって……沈没?
船乗りは俺を見つけたわけじゃなくて……なんかこう……船がヤバかったから外で作業をしていた……とか?
「な……なるほどな! AHAHAHAHAHA!!」
ついアメリカ人っぽく笑ってしまった。いかんいかん。
「じゃなくて……ふっざけんなよォォ――!?」
なんだこれ。踏んだり蹴ったりどころではない。踏んだり蹴ったり蜂に刺されたり七転八倒って感じだ。
希望が手のひらから溢れていくのを感じる。期待させておいてこの仕打ち。俺は神を呪った。
しかし、自分の事で手一杯だった俺は、この後に起こることを予想できていなかった。
人が、船から飛び降りてきたのである。
最初に見える範囲に落ちてきたのは、中世の船乗りのような格好をした男だった。
その姿が気にならなかったと言えば嘘になる。しかし、そんな事を考えていられたのは一瞬だった。
男は、一度海面に顔を出したきり、浮かんでこなかった。
次に落ちてきたのは、綺麗なドレスを来た婦人と、その伴侶なのであろう壮年の男性。
男性は怪我を追って血にまみれていた。沈みかけている船の中で、積荷、人、物……暴れる何かが原因で怪我をしたのだろう。
皆が慌てて飛び降りてきたのもそのせいなのだろうか。
二人は水に濡れたドレスに絡まって溺れてしまっていた。
「大丈夫ですか!」
俺は必死になって手を伸ばし、二人に近づこうとした。しかし、波に揉まれているうちに二人の姿は見えなくなってしまった。
後を追うように海に飛び込んだのは……猫耳の、メイド服を来た女性だった。
……なんでコスプレ……?
こんな状況にも関わらずツッコミを入れそうになったが、尻尾がブンブン動いているのを見てしまい、言葉を失った。
……いやいや、この嵐だ。風のせいだろう、風の。
俺が一人で納得している間に、彼女は運良く落ちてきた木の樽に捕まることが出来たようだ。
だが、遠くの方に流されていってしまった。
その後も皮膚が鱗で覆われた男(?)、背中の翼をバタつかせながらフラフラと落ちてきた有翼人、殆ど犬と変わらない見た目の獣人(なのか? 服を着ていたし手で木片を掴んでいた)といった個性あふれる人々が、溺れたり流されたりしていった。
「……なにこれ?」
何なんだろう。コスプレイベントでも開催していたのだろうか。
なかなか凄惨な状況にも関わらず、あまりの訳の分からなさにうまく頭が回らず、唖然としてしまう。
目の前の出来事が現実のものではないように感じてしまい、ふわふわした感覚に包まれ……俺は麻痺した頭で、その光景をただただ眺めていた。
それが落ちてきたのは、まさに目と鼻の先だった。
「子供!?」
そう、子供。小さな体躯のその子が落ちてきたのは、下手をしたら俺に激突していたのではないかと思えるほどの至近距離で、手を伸ばせば届く距離だった。
「ぐっ!!」
反射的に手を伸ばして襟首を掴む。沈みかけていた子供の顔を無理やり水面に引っ張り出し、息を吸わせる。幸い、水を飲んだりはしていないようだった。
「しがみつけ! 絶対離すなよ!」
ライフジャケットのベルトの部分を握らせて、同時に自分の腕で腰のあたりをしっかりと抱え込む。体力の温存? 知った事か!
「お……とーさん……?」
ぼんやりとした声で子供が呟く。意識がはっきりとしておらず、何かと勘違いしているのだろう。
だが、今の状況ではあえて誤解を解く必要もない。今を乗り切るため、俺はあえて勘違いを訂正せずに力強く頷いた。
「ああ、お父さんだぞ。ちゃんと守ってやるからな、しっかり捕まってろ!」
俺がそう言うと、子供がベルトを掴む手にキュッ……と力が入った気がした。
それからどれだけの時間が過ぎただろうか。
嵐は一過性の物だったようで、海は嘘のように凪ぎ、空は嵐がまるで夢だったかのような晴天になっていた。嵐が過ぎ去った直後は、星の瞬きや月明かりが眩しかったほどだ。
俺達の周囲には誰もいない。船から海に飛び込んだ連中とは完全にはぐれてしまったようだ。
俺のライフジャケットを掴んだ子供が浅い息を吐いている以外には、波の音しか聞こえない。
「大丈夫か?」
「…………」
先程から何度か問いかけているが、子供は一度も答えない。
船から落ち、嵐に打たれ、波に揉まれたのだ。体温もかなり低下しているだろうし、正直……よくない状況だ。
かくいう俺も全身に酷いだるさを感じている。それでも、この子を抱きしめて、背中を擦り続けた。
ようやくたどり着いた、朝焼けに染まった……砂浜で。
嵐が過ぎ、月明かりがあたりを明るく照らし始めた頃、俺は幸運にも近くに島を見つけた。
そう遠くには見えないが、またどんな事が起きるか分からない。
俺は最後に残った体力を絞り出し、必死になって泳ぎ……その島に何とか辿り着いたのだ。
そうして子供の背中を擦り続けているうちに……俺は気絶するようにして意識を失い、再び意識を取り戻した頃には太陽もかなり高い位置にまで昇っていた。
傍らに眠るのは美しい少女。長い耳の、所謂……エルフ。
俺は頭を掻きながら呟いた。
「これは、大変なことになったな…… 」
(17/08/10):この辺り、推敲が荒いので後々手を入れると思います。当面は時間を優先してある程度形になっている部分をできるだけ早く投入していければ、と。