プロローグ(前)
読み専でしたが気まぐれに投稿してみます。宜しければお付き合いください。
目が覚めると、そこは砂浜だった。
もぞもぞと手足を動かし、起き上がる。どうやら俺は生きているらしい。
嵐が過ぎ去った後、月明かりにうっすら浮かび上がった島のシルエットに向かって必死に泳いだ昨晩の事は、夢ではないようだ。
目をつむると、昨日の光景が脳裏に蘇ってくる。
沈みゆく船。漆黒の海に投げ出される人々。船乗り、客らしき者、獣耳を生やした首輪付き、殆どの皮膚が鱗で覆われた者……
皆あっという間に海に呑まれていった。あの嵐の海で俺が生き延びることが出来たのは、きっと俺が念のため着けていたライフジャケットのおかげだった。
過ぎてしまったことを考えていても仕方がない。軽く頭を振り、自分の傍らに倒れている少女に目をやった。
ある程度乾いてはいるものの、俺と同じく海水に濡れた少女はぐったりとしていて動かない。
唯一助けることの出来た少女だったが、生きているだろうか。よくよく観察すると、その胸はかすかに上下している。
良かった、生きている。ほっとした。
改めて少女を観察してみる。
少女は美しかった。年の頃は5,6歳くらいだろうか。
白銀の長髪は海水に濡れ、砂をまとって肌に張り付いていたが、それでもなお太陽の光を反射して美しく輝いている。
整った目鼻に染みひとつ無い肌。将来はさぞかし美人に育つだろう。
未だ立ち上がる気にもなれずに、ぼんやりと少女を眺めていたが……さすがに、そろそろ行動を起こす必要があるな。
起きる気配のない長い耳の少女を見ながら、俺 ― 佐伯拓人 ― は思っていた。
「これは、大変なことになったな……」と。
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「全ッ然釣れないですね……」
後輩がげんなりした声を上げる。夜釣りを始めてからまだ一時間も経っていないというのに、ピクリともしない竿に早くも嫌気が差し始めたようだ。軟弱者め。
「別にいいじゃないか。別にガチで魚獲りに来ている訳でもないし。本気で魚釣りたかったらお前もガチ勢の方に行けば良かったんじゃないか?」
とは言え、俺も別にやる気があるわけではない。俺は既に寝釣り態勢へと移行している。
わざわざ銀マットも敷いてあり、万全の態勢である。
一応マナーとして着用しているライフジャケットがいい感じのクッションになり、固いコンクリートの上でも快適だ。
「いや、あっちはなんか雰囲気が違うんで……竿とかもすごく高そうですし」
「じゃあ魚は諦めろ。シチュエーションを楽しめ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだ」
「なるほどなぁ」と呟くと、後輩も俺に倣ってコンクリートに横になった。
それからは一言も言葉を交わすこと無く、ただただ静かな時間が流れていく。
風もなく、雲一つない穏やかな夜。
俺達は久々の休暇を満喫していた。
佐伯拓人、25歳。会社員。
趣味はゲームとアウトドア。
今日は、バイク仲間達と共に海釣りに来ていた。
日中はツーリング、夕方はバーベキューと好き放題遊び散らかした俺たちだったが、一応のメインイベントは今やっている夜釣り。
本気を出した連中は事前にポイントを調査したり、ここ数日の釣果の傾向をネットで調べたりと熱心だったが、俺はそういう事をしていない。
海に向かって竿を投げ出して、波と風の音を聞きながら、星空を眺めてぼんやりとしていたかったのだ。
だから、俺達が今いるのは、港から生えている一番長くて細い堤防の先端……陸地の音が一番遠くなり、海と星を一番近く感じられる場所だ。
「傷心の青年とかがやる行動ですよ、これ」
後輩には呆れられたが、そういう時間が好きなんだから仕方がないだろう。
「そうだよ、俺はめまぐるしく過ぎる都会の日々に傷ついている青年なんだ。だから海を眺めたくもなるんだ」
「はぁ、そうですか」
くだらない事を言ったら更に呆れられてしまった。
「しかし、良かったのか? せっかくの休日に、こんなおっさんだらけの海で寝釣りだなんて」
「このご時世、都内でバイクに乗ってる知り合いなんて先輩くらいしかいないですからね。こういう時に誘ってもらえないと、一人さみしく温泉に行く時くらいにしか乗れないんですよ」
「友達作ればいいじゃないか」
「……ほっといてくださいよ」
どうも機嫌を損ねてしまったらしい。コイツ、そんなに人見知りするタイプだったっけか。
それからしばらくは他愛もない雑談をして過ごした。
日付ももうすぐ変わろうとしていたが、俺達の釣果はゼロ。しかし、穏やかな時間を過ごすことの出来た俺は、全く悪くない気分だった。この後輩と仕事以外でこんなに喋ったのも久しぶりだ。
話が途切れ、心地よい沈黙が訪れてしばらく。後輩が不意に立ち上がって、凝り固まった身体をほぐすように伸びをした。
「飲み物買ってこようと思うんですけど、先輩も何か要ります?」
「コーヒーなら何でも」
「了解」
「海に落ちないように気をつけろよ」
小さな鞄を掴み、300メートルほど離れた場所にある自販機の光に向かって歩いて行く後輩を見送りながら、寝返りを打つ。
コーヒーを頼んでおいてなんだが、さすがにそろそろ眠たくなってきた。
竿を片付けて、ベースキャンプにしているキャンプ場――夕方にバーベキューを楽しんだ場所だ――に戻ってもいい頃だろうな。
そんな事を考えていたら余計に眠くなってきた。
仕方ない、思い立ったら即行動。というより、このままだと本気で寝てしまいそうだ。
半分眠り始めていた身体に活を入れて起き上がり、道具などを片付け始めた。
そんな矢先。
……チリン
「おっ?」
竿の先端に付けた鈴が鳴った。
夜の寝釣りでは、竿は投げっぱなし、投げた本人はゴロゴロしている、ウキなんて暗くて見えない……という事で、竿の先端に鈴を付けている。
魚か何かがかかって竿が震えたら、鈴が鳴って知らせてくれるという寸法だ。
なんと自堕落な、と言われても仕方がない。俺が考え出した訳ではない。
ともかく、その鈴が鳴ったという事は……答えは一つしかない、はずだ。
「かかったか!?」
やる気のない寝釣りとはいえ、魚がかかったらテンションは上がる。
慌てて竿をひっつかみ、竿を立ててみたが……魚がかかっている感触はない。
「ばれたか?」
ばれた――すなわち、魚が針を外してしまったのだろうか。
少しがっかりしながら竿を戻す。
……チリン
すると、隣りにあった後輩の竿からも鈴の音が聞こえた。
「なんだぁ?」
不審に思いながら、後輩の竿に手を伸ばす。
……チリリリン……
今度は、今しがた置いたばかりの俺の竿の鈴が鳴る。
どういう事だ?
小魚の群れでも来て、餌をついばんでいるのだろうか?
不思議な現象の答えは、すぐに分かった。
ゴオオオォォォォオオ……
「な、なんだ!? 地震か?」
俺の立っている堤防が小刻みな振動を始めた。
とっさに海に落ちないよう、その場にしゃがみこんでから気づく。
これは"揺れて"いるのではない。"震えて"いるのだ。
地鳴りのような……何かが、遠くから迫ってきているかのような音が響く。
地面が揺れているのではない。大気だ。大気全体が震えている……!?
「ヤバい。ヤバい。ヤバい……!」
何が起きているかは全くわからない。天気もいいし風もない。
遠洋で地震が発生したというような災害情報もない。
そんな事があれば今頃この港全体に警報が鳴り響いているはずだ。
ともかく、こんな手すりもない堤防の先に居ては危険だ。急いで港の方向に戻らなくては。
半ばパニックになりながら、明かりにしていたLEDの照明を掴んだ瞬間、後輩が俺のいる細い堤防の根本に向かって来ているのが見えた。
「馬鹿野郎ッ!! 今すぐ海から離れろッ!! 避難を――」
俺の叫びは最後まで形にならなかった。
何故なら、全てを言葉にする前に俺は……急に訪れた高波に攫われ、漆黒の海へと転落していたから――。
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先輩の声、眠そうだったな。
コーヒーと、田舎でしか見かけない謎のいちごミルク飲料を自販機で購入した後、道端の蛇口で缶を軽く洗ってから堤防に戻る。
あの分だと、コーヒーを飲んだら竿を納める事になりそうだね。
あんな万全の態勢で横になっていたら、眠くなるのも当たり前だけど。
今日は先輩の色々な話が聞けて楽しかった。明日はどんな話をしてくれるだろうか。
ぼんやり考えながら元きた道を戻っていると、唐突に先輩の叫び声が聞こえた。
「馬鹿野郎ッ!!」
「え、先輩……?」
鬼気迫る先輩の声に心臓が跳ねる。先輩に何かあった……!?
「今す――うみ―――なれ――ッ!! ひな――」
急激に先輩の声が曇っていく。先輩との間に急に綿を詰め込まれたような、不自然な声のくぐもり方をしていてよく聞き取れない。
聞き返そうと声を上げようとしたその瞬間――先輩の持っていたLEDランタンらしき光が消えた。
「先輩!? どうしたんですか!? 先輩ーッ!!」
反応はない。後頭部の辺りが急激に冷えていく。脚が震えてうまく立てない。
少ししてから我に返って走り出したけれど、急いで戻った堤防の先端に先輩の姿はなく。
先輩と、私の釣り竿が乾いたコンクリートの上に転がっているだけだった。