時間軸の壊れた彼
あなたの記憶を疑って下さい。昨日の記憶を、その前の思い出を、疑って下さい。そこに、彼は居ませんでしたか?
小さな公園にはベンチとブランコ、それから砂場がひとつあるだけ。こんなささやかな公園でも、時おり近所の子どもたちが遊びにやって来る。かくいう自分も、幾度となくこの公園にお世話になっていた。それは今でも同じで、週に最低でも一回は学校帰りにここへ寄っている。理由と訊かれると大したものはない。疲れたからなどと婆くさい理由などなどである。早く家に帰ればいいのにと、いつも他人事のように思いながら今日もまた、ベンチに座って物思いに耽る。ぼんやりと、視線は斜め下。
「こんにちは」
視界に入ったスニーカーが一足。緑色に、黒の靴ヒモだ。のろのろと顔を上げて声の人物を捉えると、自分とさして年が変わらなさそうな少年が立っていた。
「こんにちは」
とりあえず、まずと挨拶を返す。彼は視線が絡まると、右の人差し指を真っ直ぐこちらに向けてきた。
「そこ、座っても?」
「隣に?」
「そう」
変な人だ。私は警戒心を顕に、どうぞと右手で示しながらベンチを立った。彼にこの場所を譲る為である。しかし相手は小首を傾げてもう一度ベンチを指差した。
「座ってればいいのに」
「こんな小さな公園の小さなベンチに初めましての人と隣り合わせって、ちょっとハードル高いと思います」
念のため、年上だった場合を想定して敬語で話した。どうしてと、彼の表情が問いかける。
「貴女と話がしたくてここまで来たのに」
「はぁ私と。どうしてです?」
「僕の暇潰しに付き合って貰おうかと。貴女もその、失礼な言い方だけれど、時間に余裕がありそうだったから」
否定することはない。ならば付き合おうと、最初の警戒心はどこへやら、私はその人懐っこい笑顔と相手が同年代に見える事を理由にベンチに座り直すことにしていた。もちろん、左側に体を寄せて空きスペースを作ることは怠らない。どうも、と言って彼が腰を下ろすと、その動作に合わせて胸元まで長さのあるペンダントが揺れた。ブロンズの鎖の先に付いているのは、二つの輪の中に時計が入ったモチーフだ。三つの丸は一つの棒に串刺されていて、棒を中心にクルクルと回りそうである。
「可愛いペンダントですね」
暇潰しがしたいと言う彼の要望に答えるつもりで、雑談を振った。
「これ?」
鎖の部分を持って上げられたモチーフに、そうそれと頷く。
「そうです。どこで買ったんです?」
「さぁ。買ったのか拾ったのか、よく覚えていないんだよね」
「どういうことです?」
「質問ばかりだし、敬語で堅苦しい」
ごめん、と形ばかりの謝罪をした。
「こちらこそ」
彼もまた形ばかりだと分かる口調で返礼をすると、私の質問の答えを探しに視線をさ迷わせた。
「たぶん、言っても信じて貰えないだろうけど……。そうだね、それこそ暇潰しだと思って聞いて欲しいな」
「小説の冒頭みたいなもの言いだね」
私の言葉に、彼は人差し指を空に向けて伸ばし、いたずらっ子の笑みを浮かべた。
「事実は小説よりも奇なり。これは言わば僕専用の魔法の時計なのである」
小説家志望の少年による創作の発露だと思うことにした。何しろ取っ掛かりからすでに、とても現実的とは思えないのだから。彼は伸ばした指を引っ込めると中空を見つめ、時間っていうのはと話を始めた。
「時間っていうのは当たり前だけれど、昨日から今日、今日から明日っていう一つの軸に沿って一方向にしか流れてないよね」
当然だろうと私は首肯して先を促す。
「僕はその軸が壊れてるんだ。だから、過去も未来もない。この時計が今に僕を留めていなければ、ふらふらと時間の中をさ迷っているような存在なんだ」
「今?」
「基本的には、日が昇ってから沈むまでの、今日と呼ばれる間のこと。夜には眠くなって寝てしまうからね」
「ならその時計がなければ、貴方はタイムスリップが出来るってことなの? ごめん、また質問だらけだ」
いいよ、と言うように彼は首を振って話を続けた。
「そういうことかな。まぁ、今に縛られてるっていうのも、基本的にはって注釈が入るんだけどね」
「基本的にっていうことは、例外があるってことだよね」
「正解」
言って彼は笑った。
「夜の間はふらふらと老いたり若返ったりしているんだ。たぶん、この時計の効力は太陽が昇っている間が一番強く働くんだろうね」
「時間を飛んだりは出来ないの?」
「これが有る限り難しいね。月光とはいえ太陽の残光に見張られてるから」
「じゃあ寝て朝起きたら」
想像を巡らしてみたが、すぐに思考は行き詰まる。
「……どうなってるの?」
たいして考えもせずに答えを求めた私に、彼はくしゃりと顔を歪ませて笑った。人の良さそうな笑みである。私の彼への警戒心は、僅かな時間で微塵もなくなり、代わりに好感と好奇心を持つようになってきていた。彼は笑みの残った唇で答える。
「日が昇る直前の年齢の僕になってるよ。だから、次の日が昇る時には大概その前とは年齢が違ってる」
「じゃあ昨日はいくつだったの?」
「昨日?」
当然の流れで聞いた、なんの不思議もない質問のはずだった。首を傾げた彼と同じ方向に首が倒れ、互いの間を疑問符が飛び回る。先に感嘆符が付いたのは彼の方。
「あ、ごめん。分かった。ひとつ前の日が昇ってる間のことだよね」
「待って、待って待って。昨日って、そんなに変な質問だった?」
疑問符を回収出来ていない私は、彼の言葉の続きを遮り訊ねた。投げ渡された疑問符を彼は仕方なしに回収し、まごつきながらそれを感嘆符へと変えてゆく。
「違うよ。そうじゃなくて、えーっと、貴女たちの言う昨日は、ひとつ前の太陽が昇ってる間の出来事って感覚で。基本すべて平らに伸ばされて、区別がつかないし記憶にもないんだよね。ちなみに明日は次の日が昇ってる間の出来事。それが僕の認識できるぎりぎりの感覚なんだ。そんな感じだから、とっさに言われると分からなくなるんだよ」
指先がペンダントをいじる。思った通り、二つの輪とひとつの丸はクルクルと回るようだ。
「そしてそれが、僕に残された僅かな時間軸の名残なんだろうなぁ」
最後は独白になってしまったが、なんにせよやっぱり、到底現実的な話とは思えない。加えて改めて問い直した質問の答えもまた、
「それで、昨日はいくつだったの」
「ひとつ前は、八十二歳だよ」
空想じみている。
「……うん、なるほど。面白い話だね」
「やっぱり、信じてないでしょ」
「やっぱり、信じがたいからさ」
ま、そうだよね。彼は笑って肯定した。
会話をしている間に、暇潰しとは言えない程時間が過ぎていたようだ。私の携帯が母からのメールを知らせた。時計を見て慌ててベンチから立ち上がる。
「ごめんね、私帰らなきゃならないから。楽しい話をありがとう」
「うん、こちらこそありがとう。バイバイ」
「バイバイ、またね」
初対面の、しかもこれから先会うかどうかも分からない相手に対して不適切な挨拶だった。けれど。けれどもである。私はまた彼と会えるような気がしていた。この先、何度も。
予感は的中した。次に彼と会ったのはそれから一週間後。公園のベンチへ行くと、今度は彼が先に座っていた。
「こんにちは」
うつむいた彼に私から挨拶を送る。
「やぁ、こんにちは」
「久しぶりだね」
「……久しぶり? なんだね」
不思議な問いかけだが、一週間前の彼との会話を思い出してひとり納得した。信じているわけではないけれど、嘘をついているようにも思えないのでしばし話を合わせることにする。
「七つ前の日が昇っている間に貴方と会ったの」
「そうなんだ。でも、なんとなく、貴女のことは知っているよ」
覚えている。とは言わなかった。
「隣、座っても?」
「どうぞ」
今回はすんなりとベンチを分け合う。彼の首には今日もあのペンダントがかかっていた。
「今日もまた暇潰ししてたの?」
「そうだね。でもこの年齢だとあちこちに行けないから、貴女が来るまで今日はとっても暇をしていたよ」
「昨日はどうしてたの?」
「昨日?」
少し調子が狂う。明日も昨日もないとは不便なことだ。
「ひとつ前の日が昇ってる間のこと」
「あぁ。それだったら、僕は七歳だ」
楽しそうに瞳を輝かせて彼は話しだした。
「ここで、友達と遊ぶんだ。彼女も七歳で、そう、そこの砂場で」
指し示された場所には、砂山を作ったらしい形跡があった。確かに最近誰かが遊んだようだ。
「砂で山を作るんだ。貴女も作ったことはある? そう、みんなやったことがあるんだね。砂の山を少し大きめに作って、こちらと反対側から下の方を少しずつ掘り進めていくんだ」
それもやったことがある。山が崩れないように慎重に、指先でトンネルを作る遊びだ。
「しばらくすると、彼女と指先が触れる。その瞬間に感動と言うか、語彙が足りなくて申し訳ないけれどすごくうれしい気分になるんだ」
本当に嬉しそうに彼は目を細めて笑った。かと思うと、次の瞬間には笑みを消し不思議そうに瞬きをする。言葉を途切れさせた横顔はどこか寂しげで、視線が昨日遊んだという彼女を探している気がした。
「また会えるんじゃないかな。私みたいに」
「わからない。でも彼女は七歳だから、きっと、忘れてしまっているね」
「七歳ならそんな簡単に忘れないよ」
彼は首を横に振って否定する。
「忘れるんだよ、みんな」
私なら、忘れないよ。そう伝えたかったけれど、何かが唇をくっつけて声を発せなかった。
「それにね。彼女も、バイバイって。そう言って手を振るから……」
やっぱり、忘れてしまっているよ。やはり寂しそうに、彼は言った。
次に彼と会ったのは、それから四日後。ブランコに揺られる彼を見つけて公園に入ったのだ。
「やぁ」
声をかけると、靴裏の摩擦でブランコを止めた彼は、首を傾げてしげしげとこちらを観察してきた。
「……こんにちは。貴女はいつの貴女だろう。何度も話をしているはずだよね」
「これで三回目。一番最近は、四つ前の日が昇っている間の出来事かな」
「四つ前か。もうよく覚えていないな。ごめんね」
三回目ともなると、彼の言を信じても良いと思えてくる。本当に彼の時間軸なるものは壊れていて、昨日も明日もないのだ。かろうじて残った今日と言う今を彼は危うげに生きている。そんな気がした。
「昨日……じゃないね。ひとつ前の日が昇ってる間は何をしていたの」
隣のブランコに腰掛け、ゆったりと揺れながら彼に尋ねる。彼もまたブランコを揺らしながら視線をさ迷わせた。
「ひとつ前は……僕は五十七歳だ。財布を見たらお金がそれなりに入っていたから、カフェに入って珈琲を飲んだよ。すごく美味しいんだ」
「財布を持ってるんだ」
「財布ならいつだって持っているさ」
「お金はどうしているの」
「さぁ。よく分からないな。時計に合わせてこいつも気ままに膨らんだりしぼんだりするからね」
ズボンの後ろポケットから取り出された小さな財布を見せてもらう。黒のチャックが付いた財布は今は薄く、中身はあまり入っているようには思えなかった。
「カフェでは誰かと会ったの?」
財布を返しながら問う。
「僕とよく似た年齢の彼と。彼はカフェラテを頼んだんだけど、猫舌だからって冷めるまで置いて待っているんだ」
そう言って彼は見えないカップを、実在しないテーブルの上へと置いた。それから相対している彼へ微笑みかけて、瞬きをひとつ。意識は隣のブランコに戻ってきた。幻影を見ていたかのように思えたが、会話に淀みはない。
「だからそれに付き合って、彼と楽しい歓談の時間を過ごす。そうしたらうっかり時間が経ちすぎて、冷たい珈琲に彼は苦笑いだ」
初老の男性が珈琲カップを傾けて苦笑いする絵が頭に浮かび、彼につられて小さく笑う。そして、それからと話を促した。
「それから、また話をして……」
先まで心底楽しそうに笑っていたその顔にふと影が差すのを見た。それだけで話の続きが読めてしまったことを悔いる。知らずに聞くならまだしも、分かっていながら聞かねばならないこの状況は正直苦しかった。できるならば、聞きたくはない。しかしだからといってここで話を止めるのも不自然だ。だから私に出来ることは、視線を落として、傷だらけの声音で話続ける彼から目を反らす事だけだった。
「珈琲を飲み終えて、サヨナラだ。……だから」
見ずとも、彼から笑顔が消えたのが分かる。奥歯をぎゅっと噛みしめた。
「きっと彼も、僕を覚えちゃいないんだろうなぁ」
彼の毎日がサヨナラしかないのなら、私がそこに居てあげよう。またねと未来の約束ができるように、彼が悲しまないように。彼と会えば会うほど沸き上がる感情に名前を付けられないまま、私はブランコを揺らし続けた。また明日、を告げる時を少しでも後に伸ばしたくて。
次の日も、私は公園に寄った。するとベンチには年上の男性がぼんやりと座っていたのだ。一瞬の躊躇逡巡の間を空け、私は男性に声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちは。あぁ、貴女とは前の日が昇ってる間にも会っているね。まだ覚えているよ」
落ち着いた大人の声音に、頭が混乱する。やはり、彼だ。よく似た兄弟だと言われても、こちらが否定したくなるほどに、私はこの彼を昨日会った彼だと認識していた。けれど実際目の前にいる彼はどう見ても年上で、話し方まで大人の男性のようなのだ。記憶と常識と現実が脳内を駆け巡り混沌と化してゆく。
「隣に座っても?」
「もちろん。どうぞ」
体をずらして開けてもらった右側のスペースへと腰を掛ける。
「貴方の言うこと、だいぶ信じたつもりでいたんだけど。やっぱりどこかで疑っていたみたい」
私の言に彼は微笑で応えた。
「大方信じてもらえてた方が、僕にとっては驚きだよ。それにしても、よく分かったね。僕が僕だって」
「面影があるもの。あっ、でもたぶん、私、貴方が七十歳だったとしても、分かったかもしれない」
とっさに続いた言葉に、自分でも驚く。しかし言葉にすることで確かにそうなのだと感じられた。
「僕も、貴女ならどんな僕であっても気付いてくれるんじゃないかなって、今なんとなくそう思った」
右の指先がペンダントをいじる。考え事をしているときの癖のようだ。
「でもどうして……。どうして貴女は僕を忘れないんだろう。どうして僕は、貴女を認識できるんだろうね」
「皆は貴方の事を忘れてしまうの」
「そう」
「どうして」
「僕が、歪みだから」
ユガミが歪みに変換されるまでに、少し時間を要した。けれど言葉は分かっても意味が理解できない。眉をひそめる私に、彼はゆっくりした口調で説明した。
「この世界という概念の中には、僕以外の、その他大勢の貴女たちが作り上げた時間軸がある。僕はそこから外れた存在だ。そして世界は異物を嫌う存在でもある。だから僕は、世界から弾かれる」
「どんな風に?」
「僕と関わった物や人の記憶から、僕自身から、初めから無かったモノとして記憶を消してゆく。そして僕自身に、消滅を促す」
「世界に『消エテナクナレ』とでも言われるの」
「違う。この時計を、壊してしまいたくなるんだ」
今に留まる為の時計を手のひらに転がし、彼は指を折り曲げた。モチーフを掴んだまま握りしめられた拳は固く、本当に壊れてしまいそうである。
「どれほどの間、貴方は今に閉じ込められているんだろうね。ごめん、貴方に訊いても分からないだろうに」
彼は、私の言葉に目をすがめて首を傾けた。長い前髪が動きに会わせて流れ左目が露になる。
「今に閉じ込められているのは、貴女たちも同じだろうに、不思議なことを言う」
これまで前髪越しにしか見えなかった瞳。それに見据えられ、私は息を呑みこんだ。口許は変わらず微笑んでいるのに、今感じているのは彼に対する畏れ。世界が許さない異物に対してようやく、初めての警鐘がならされたようだ。息が苦しい。浅くなる呼吸を呑み込み、私は小さく首を振った。大丈夫。彼が怖いはずがない。言われて初めて思い至った考え方に恐怖しただけだ。責任転嫁のような思考が空回る。突然足元を囚われたような、鉄格子が目の前に落ちてきたかのような感覚に、おののいただけなんだ。大丈夫、大丈夫、大丈夫……。心の中で何度もそう唱えながら再び視線を戻す。苦笑。彼は前髪を梳くようにして左目を覆っていた。
「でもそうだね、長い間なのか、まだほんの短い間なのかは分からない。でも、永遠でないよ。時間の概念がほとんどない僕にも、そんなものが存在しないことは分かるからね」
「なぜ、永遠はないと思うの」
目が隠れる。たったそれだけで恐怖は蜃気楼のように消えて無くなっていた。いつも通りに戻ったとたん、ふと思い付いた疑問をつらつらと口に出してしまう。そんな自分に自然と嫌気が差してきた。しかし、質問ばかりだと言ったはずの本人は嫌がる素振りも見せず、全ての質問に誠実な答えを探してくれた。
「永遠は希望であり、絶望でもあるから」
「なら貴方は永遠にも近い間、昨日も明日もない今に閉じ込められているかもしれないんだ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕自身、いつからこんな風になってしまったのかなんて覚えてないからね」
「だとしたら、かつては貴方にも昨日や明日があったってこと?」
視線が空へと漂う。しかしその時間は短く、辿る過去が無いかのようだった。いや、きっと本当に無いのだろう。
「たぶん、きっと、そうなんだろうね」
「曖昧だ」
「仕方ないよ、忘れてしまっているんだから」
これ以上進んでも行き止まりしか見えてこない話を、首を振って断ち切る。閑話休題。人差し指でネックレスを指し示した。
「それが壊れたら貴方はどうなると思ってるわけ」
「死んでしまうのかもしれないね」
軽い口調で告げられた答え。考えもしなかったそれの所為で会話に空白が生れた。
「貴方にも死はあるんだ」
彼の口許がゆっくりと笑みを浮かべる。穏やかな、余裕すら感じる表情に、また年齢の差を感じた。
「分からない」
彼は間を空けてもう一度分からないと言った。
「でも僕が壊す前に、この時計はきっと壊れてしまう。そんな気もするよ」
手のひらの上でモチーフが揺れている。
「永遠はないから?」
「そう、永遠ではないから」
「そうしたら私は貴方を忘れてしまうのかな」
今は覚えていても、世界が『消エテナクナレ』と唱えれば、この記憶は無くなってしまうのだろうか。寂しさと切なさが同時にこみ上げ、喉に涙が詰まった。
「忘れてしまった方がいい。貴女の為にも」
「悲しいことを言うね」
掠れた声が出る。涙に震えていないだけまだましなはずだ。
「忘れるということは、幸せなことだよ。それにサヨナラにはもう、慣れているから」
「私は、貴方にサヨナラを伝えたくないと思ったから、今日もここに来たのに」
「変な人なんだね貴女は」
「ひどい言い方」
「ごめん」
「また来る。必ず、貴方に会いに来るから」
彼は首を横に振る。いつものように、悲しげな顔をして。
「それでも、僕が今貴女にあげられる言葉はこれしかないよ。……バイバイ、さようなら」
彼は絶対に、またねとは言ってくれない。それが悲しくて、これ以上彼との会話を続けられなくなってしまった。サヨナラ、また。と聞こえないほど小さな声で言い、ベンチから腰を上げる。そして彼から離れるように背を向けて歩き始めたとたん、私は絶望した。彼との記憶を反芻しようとして初めて気が付いたのだ。私の中からも彼の記憶が少しずつ、けれど確かに消えていることに。このまま彼が分からなくなってしまったら、そう考えるとにわかに息苦しく胸の奥が引き攣れるように痛んだ。忘れたくない……。狂おしいほどの激情が身体中を駆け巡り、何もかもがズタズタに切り裂かれてゆくようだ。そんな己の内側に、私はようやく気が付いた。どうしようもないほど、私は彼を恋してるのだと……。公園から出るまで耐えていた涙がひと粒、頬を滑り落ちた。
それから一週間、私は公園に行くことが出来なかった。彼に恋をしていると気付いた途端に、会うことが怖くなってしまったからである。もしも彼の事が分からなかったら、彼にまたねを告げることが出来なくなってしまったらと、思考は悪い方向へ留まることなく頭のなかを支配し不安を肥大化させた。そしてその不安を取り除くには、彼に会うしかないという結論に至ったのが昨日の晩のこと。そうなると不思議と彼に会いたくなったのだ。会えるかも分からないくせに、それでもただただ会いたくて、彼が恋しくて。誰もいない公園のベンチに腰を掛け、視線は今日も斜め下。しばらくぼんやりと俯かせていた視線の先に入ったのは、見覚えのある緑地に黒の靴ヒモのスニーカー。
「こんにちは」
視線を上げると、何度も会ったことのある姿の彼がそこにいた。あぁ彼だ。会いたかった彼を私はきちんと認識できている、その事実にひとり胸を撫で下ろした。
「こんにちは」
そんな心の機微は表に出さず、とりあえずまずと返礼をする。
「隣、座っても?」
「どうぞ」
いつかの繰り返しのような応答に、彼は首を傾げた。それから、腰を下ろしてまじまじとこちらを観察する。
「貴女とは、初めましてじゃない。よね」
「一週間前……七つ前の日が昇ってる間に、その前にも何回か会っているよ」
「そうか。でも不思議だな。どうして貴女は僕を忘れないんだろう」
以前にも問われた疑問に、やはり彼には記憶が無いことを知る。相変わらず、会ったことがある事だけしか覚えていないようだ。
「そんなこと無い。少しずつだけど、忘れてしまってるもの。悲しいけれど、私の記憶は虫に食われて穴だらけ」
「それでも僕が分かるんだね」
「貴方がいくつだろうと、きっと分かるよ。貴方に忘れられても、穴だらけでも、私は覚えてる」
「忘れられた方が幸せだと思うけどね。それにサヨナラにはもう、慣れているから」
似たような台詞を同じ人物に言ったことがあるせいだろう。彼の視線が僅かにぶれ、右の指先がこめかみに触れた。全てが等しく今である彼の記憶は、それ故に脆そうだ。
「今日は一日どうしていたの」
「……誰かを、探していたよ」
意識を今に戻そうと話題を振ってみたが、意外な答えが返ってきた。
「誰を、どうして探していたの」
「たぶん貴女のことを。どうしての理由は、この日が沈むまでには時計が壊れてしまうから、かな」
淡々と返された答えに、目の前が一瞬白に染まった。
「どうして……」
「そのどうしては、どうして壊れてしまうのか、なのか、どうして探してたのは私なのか。どっちの意味?」
「どちらもの意味」
「なるほど。欲張りだし、省略しすぎだね」
軽やかに笑う彼の姿に、話がさして重いものではないのではと勘違いしてしまいそうだ。いや、勘違いなのかもしれない。なにせひどく現実味を欠いた内容ばかりなのだから。彼は、明日の天気を答えるかのような調子で話し出した。
「簡単な方から答えていこうか。まずは、何故壊れてしまうのか。これは単純だ。なぜならば、永遠がないからである」
「前にもそんな事を言っていたね」
「へぇ、そうなんだ」
全くもって他人事だ。ため息が舌先までやってきたところで、彼が、あぁでもと声をあげた。
「僕は貴女と会うたびに、終わりを感じているから。だから永遠なんて無いと言いきれるのかもしれない」
今度こそため息が吐き出される。
「……ひどい話だ。そんな事ばかり覚えてるんだ」
「ごめん、覚えてはない。そんな気がするってだけで」
「どっちにしろ、ひどい話だよ……。じゃあ私は、貴方の終わりの為にこんな……こんなさぁ……」
こんな想いをしているの、とまでは言葉に出来なかった。舌の上に苦味が広がる。溢れる感情が両目に集まってくるのを感じ、彼に見られないように顔を伏せた。
「そうだね。僕の終わりには、貴女が必要らしい。だから貴女を探していたんだよ。一日中、ずっと」
「探してたって、覚えてもいないくせに」
「それでも貴女を見た瞬間に分かったよ。探してたのは貴女だって」
溢れるものをそのままに私は顔を上げて彼を睨み付ける。そして理不尽だと理解しながら、感情のままに怒声をあげていた。
「なんで私なの! 終わりなんて私はいらない! いらないのに……なんで、私、なのよ……」
「ごめんね。それは、僕にも分からない」
彼の言葉に、世界とかこの世とか、そんな名前で呼ばれる大きな何かの気配を感じた。それに導かれるままに私は公園に入り、彼と出会ったのだろうか。ならばこの想いも気持ちも感情も、それが私の心を勝手に歪めた結果なのだろうか。喉の奥に涙とは別の、もっと醜いものが込み上げてきそうだ。気持ちが悪い。
「ごめん、ごめんね」
何度も謝る彼に、涙の跡を消しながら首を振った。情緒不安定にも程がある。
「きっと、貴方の所為じゃない。だからもう、謝らないで」
「そう……ありがとう」
涙も苦いものも全部を呑み込んで、私は一度笑って見せた。初めて会った日のように暇潰しの為の雑談をしようと、言外に彼に――覚えていないだろうが――求めたのだ。だから口調も軽く
「それが壊れたら」
胸元で揺れるネックレスを指差しながら、私はいつものように彼に尋ねる。
「貴方は終わるんだよね。だとしたら貴方は、どんな終わり方をすると思ってるの?」
正しくは伝わらなかっただろうけれど、笑みの意味は汲み取ってくれたようだ。彼もまた笑みを浮かべて作り話のような口調で答え続けた。
「そうだな、いくつか考えられるね。例えば、消失。文字通りこの世から消えてなくなるんだ。誰の記憶からも消えて、初めから僕なんか居なかったかのようになる」
「なるほど『消エテナクナレ』ってわけか。いくら貴方が歪みだからって。そこまでするなんて、世界は傲慢だね」
「そんな見方も在るわけか」
小気味良いテンポで会話が流れる。
「他は?」
「僕が消えて、貴女にこの時計が引き継がれる。古くなった僕を捨てて、新しい器へと移り替わる説」
「これまたひどい話だ。でも、そうしたら私は貴方の事を覚えていられるのかな」
「いや、僕の今の状態を考えればそれは無理なんじゃないかな」
「そうだった。貴方はほとんど何も覚えていないんだった」
「ひどい言い種だ」
「それはどうも。可能性はふたつで終わり?」
「あともうひとつある」
「なに?」
「貴女が、僕を時間軸に引き戻す楔となる可能性」
「くさび?」
「錨の方が正しいかな。つまり、時間軸が壊れた所為でふらふらしている僕を正しい時間軸を持った貴女が引き留めて、あまつさえ時間軸も元通りに」
「ご都合主義」
「悪くはないと思うんだけど」
「悪くはないね。それで? 三つで終わり?」
「終わりかな」
「そう。なら私からもうひとつ」
「へぇ、なんだろう」
「時間軸の話全てが、貴方の妄想」
人差し指を突き付けて放った言葉に、彼は一拍の間を空けて夕暮れの空へと笑声を響かせた。
あっははははは!!
デクレッシェンド。だんだんと小さくなってゆく笑い声はやがてクツクツと喉をならすものへとなってゆく。
「面白い。それ。考えもしなかったよ」
目尻の涙を拭いながら、笑みの残る声で彼が言った。
「そんなに可笑しかった?」
「うん、そんなに。あー面白い。でも、本当にそうだったらなぁ」
日が傾く。それにつられたように、彼の笑顔と声に長い影が延びてきた。
「全部妄想だったら、どれだけ良かっただろう……」
透明だったはずの光は色づき、空や建物それから私たちを、泣きそうなほど美しい朱色に染め上げてゆく。逢魔が時がやって来た。
足音が聴こえた。終焉の足音だ。それは迷うことなく真っ直ぐに、こちらへと近づいてきている。彼にだけ聴こえていたそれが、今は私にも聴こえていた。
「明日になったら、私は貴方を忘れてしまうのかな」
雑談の軽さのない声音が尋ねる。
「きっとね」
そう言って微笑む彼の瞳から涙が溢れようとしていた。つられて、引っ込んだはずの自分の涙がまた視界を曇らせる。 それと同時に、甘い願望が浮かんできた。
「今ね、もうひとつ理由を思い付いたよ」
「理由?」
「貴方の終わりに私が必要な理由」
「へぇ、なんだろう」
「私が、貴方を覚えている唯一の人物になるから」
柔らかく彼は首を振る。
「忘れてしまった方がいい。その方がきっと幸せだ」
そう言って笑った彼の表情に、胸の奥が締め付けられるように苦しんだ。分かってる、そんなこと。覚えていられないことはもう、分かってるよ。
「だったら、どうせ忘れてしまうのなら。お願い、今だけ私に恋してよ。この恋を、独りぼっちにさせないで」
指先を伸ばして、彼の頬に触れる。肌に感じられる温もりに、確かに彼がここにいることを実感できた。けれど今感じているこれも全て、明日には忘れてしまうのだ。私だけじゃない。彼と関わった全ての人の記憶から、跡形もなく消えてしまうのだ。
――あぁどうか。
どこにいるともしれない何かに向かって、私は祈った。
どうかお願いです。どこの誰でもいい。あなたの記憶を疑ってくれませんか。昨日の記憶を、その前の思い出を、疑って下さい。そこに、彼は居ませんでしたか? 世界に言われるがままに、消してしまってはいませんか? 思い出して下さい。どうか思い出して下さい。彼が確かに、ここに居たことを。誰か一人だけでもいい、私でもいいから、どうか……。
「最後に、キスをして」
眉間にシワを寄せ、苦しそうに彼は笑う。
「ならその口づけで、僕の魔法を解いてよ。明日も貴女の隣にいられるように」
ゆっくりと近づいてくる彼を、涙で歪む視界を閉ざして待った。頬を挟む両手の感触。僅かに触れる吐息がだんだん近づいてくる。そして唇が触れる直前、囁きのような声音で彼は世界に祈った。
「どうか叶うならば……僕に、時を返して」
そうして、口づけをかわしたその時。
何かが壊れる音がした。
とある病院の一室。そこに、甲高い赤ん坊の泣き声が満ちた。おめでとうございます、おめでとうございます……と口々に祝の言葉が母子に送られる。疲労困憊の最中、十月十日を共に過ごした母子は、ようやく対面を果たしたのだ。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
看護師の腕の中にいる新しい生命。その彼を見た瞬間、彼女は滂沱の涙を流していた。溢れる感情は言葉を凌駕し、喉を詰まらせる。嗚咽を漏らす母親の姿に、看護師たちは温かな微笑みを浮かべていた。それから、ようやく落ち着いた彼女は、まだ眼を開かない彼にとりあえず、まずと挨拶をする。
「やぁ、こんにちは」
久しぶりだね。