時の牢獄
・日地里璃和:一九九六年一月
両親と弟が、二ヶ月前に死んだ。
それはもうあっけなく、そして唐突に。
数学の授業中、担任が血相を変えて教室に飛び込んで来て、わたしを職員室に連れて行き、言いにくそうに口を開いてから、わたしがそれまで暮らしていた幸せに溢れていた世界は一変した。
高速道路での交通事故だったそうで、中央分離帯に激突した父の車は炎上し、遺体は三人とも、性別が判別不能なほど酷く焼け焦げていた。
茫然自失のわたしを尻目に、母方の叔父が葬儀の手配や各種の手続きを代行してくれた。わたしにとってはあまりにショックだったようで、葬式の最中の記憶は、ほとんど残っていない。
あれからもう一年半が経った。
両親と弟が埋葬された郊外の墓地には、昨晩から降りだした雪が静かに降り続いていた。
わたしは墓地の片隅の鉄柵の傍にある墓前に、一人で佇む。
傘をささずにいるので、雪が髪に斑な白模様をつけいく。
不意に眼前の雪が何かで遮られる。わたしは後ろを振り向いた。
「……風邪、引くよ」
「わたしに構わないで」
傘を差し出している青年は、許嫁の黒杜勇也だ。
つい先月に二十二歳になったそうで、都内の大学の四回生として籍を置いている。
わたしはすぐにまた両親と弟の墓前に視線を戻す。勇也はわたしの様子を見守るかのように、傘を差し出した体勢を維持したままだ。
わたしはそんな勇也の様子に苛つきを感じ、湧き上がった思いを一気に吐き出した。
「――わたしの人生はわたしが決める。親の決めた許嫁なんて、従う気はないんだから」
両親は、わたしと勇也を強引に許嫁にしていた。
理由は、日地里家に伝わる魔法を絶やさないための予備の意味。
当主は弟が継ぐ予定だったけど、弟に万が一のことがあった場合のため、日地里家と同じく魔法を扱う他家に娘を嫁に出し、血脈を後世に残すという予備手段。
黒杜家も、日地里家に代々伝わる時の魔法の素養を自分の家系に取り込めることにメリットを感じ、快く息子の許嫁に同意したそうだ。
そして弟が死んで、わたしは予備ではなくなった。父の万が一の備えは、皮肉にも有効に機能したというわけだった。
勇也は少し困ったような顔をして、傘を持っていない方の手で後頭部を掻きながら、苦笑しながら言った。
「それでいいさ。親が勝手に決めたことに従う必要なんてない。でも、きみの叔父さんの家に行ったら、成人するまでは俺の許嫁であることに異議はないフリをしてた方がいい。その方が、学費やらをすんなりと出してもらえるだろうしね。俺も芝居には付き合うからさ」
「……なんでそこまで協力的なの?」
「いくら親が一方的に決めた許嫁相手とはいえ、昔から定期的に会ってたら情が湧いたって別におかしくはないだろ?」
勇也の、こんな変に分別めいた物言いがわたしは嫌いだ。
・黒杜勇也:一九九六年一月
墓地に居た璃和は、俺の姿を見ると明らかに不愉快そうだったので、俺は表面的には苦笑する顔をした。だが、内心では荒れ狂う自分の心を押さえつけるのに精一杯だった。
璃和の両親と弟が死んだ交通事故は、俺の父親の差金だった。璃和の両親たちが家に訪問している最中に、こっそりと車に細工をした。そのせいで、帰路の高速道路で事故が起き、璃和の両親と弟はこの世から居なくなった。
真相を知ったのは、父がそのことを本家に報告する電話を偶然聞いてしまったからだった。本家の指図で、日地里家の時の魔法を黒杜家だけのものにする。父は人を殺めることにまるで抵抗感がないようだった。魔法に魅入られた家系の狂った思想を、まさに体現しているのが父だった。
俺は、璃和に対するどうしようもなく深い罪悪感に苛まされている。
俺が父を殺すだけではもう、償えるものではないだろう。
・日地里璃和:二〇〇三年七月
大学三年生のときに叔父が病死してから、わたしは叔父との住まいを引き払い、黒杜家に住むようになった。
両親と弟に続き、叔父も亡くして落ち込むわたしに、勇也はとても優しかった。
その頃には勇也もお父さんを不慮の事故で亡くしていたので、互いに慰め合うような部分もあったのかもしれない。
中学生のときは、許嫁であることにあれほど反発していたのに、いつしかそんな気持ちは幻のように消え、勇也を愛しく思う気持ちが芽生えるのに、さほど時間はかからなかった。
大学の卒業を半年後に控えた学生時代最後の夏。
勇也と行った近所の神社の夏祭りからの帰り道に、わたしたちは夜道で得体の知れない男どもに襲われた。
強引に路地裏に引き込まれてからの記憶は、全く無い。
・黒杜勇也:二〇〇三年八月
璃和が入院してから一ヶ月が経過した。
俺は毎日病室に見舞いに行き、璃和を献身的に介護した。
心身共に深く傷ついた彼女は、俺にすがることで絶望の淵にギリギリで留まっているようだった。
そろそろ頃合いだろう。
いつものように見舞いに訪れた病室で、俺は璃和に真実を告げた。
璃和の両親と弟を殺したのは。自分の父親であることを。
そして、夏祭りの帰り道に俺と璃和を襲った男たちは、俺の手引であったことを。
璃和にとってはあまりにも突飛な話だったようで、すぐには反応がなかった。
嘘ではないことを確かに証明するため、用意しておいた録画映像を璃和に見せる。 俺が父を事故の見せかけて殺すときに、俺に殺されかけている父が、必死に命乞いをしながら璃和の両親と弟を殺したことを懺悔する映像。
璃和を襲った男たちに俺が金を渡し、璃和を夜道で襲う打合せをしている映像。
数分後、俺の手を固く握りしめていた璃和の手から、温もりが徐々に消えていく。
しばらくの沈黙の後、彼女はやっと真実を理解したのか、激しく絶叫した。
よかった、これでいい。
なにせ、日地里家に伝わる時の魔法の中でも最秘奥の「時間の巻き戻し」の発動条件は、「術者自身の圧倒的な絶望」なのだから。
・黒杜勇也:二回目の一九九六年一月
郊外の墓地には、昨晩から降りだした雪が静かに降り続いていた。
墓地の片隅の鉄柵の傍にある墓前に、璃和が一人で佇んでいる。
傘をささない璃和の髪には、雪が斑に白模様をつけていた。
俺は、さしていた傘を璃和の頭上に差し出した。
「……風邪、引くよ」
「あたしに構わないで」
璃和は一瞬だけ振り向いたが、すぐにまた墓前に視線を戻す。
俺は傘を差し出したままの体勢から、凍りついたように動けないでいた。
二〇〇三年八月に、璃和を圧倒的な絶望に追い込んだことにより、日地里家に伝承されている時の魔法の最秘奥である「時間の巻き戻し」が発動したのは、狙い通りだった。
過去の文献の通り、術者に圧倒的な絶望を味わわせた俺は、時間の巻き戻しの起点である二〇〇三年八月の記憶を保持したまま過去に戻った。
誤算だったのはただ一つ
時間の巻き戻り具合が浅く、璃和の両親と弟が既に死んでいた一九九六年一月に戻ってしまったということだ。
璃和の両親と弟が死ぬ、一九九五年十一月よりも前に戻らなくてはまるで意味がない。
――だから、今からまたやり直す。
過去の文献では、時間の巻き戻り具合は術者の絶望の度合いにより変わるらしいとの記載もあった。
つまり、今度は更なる深い絶望を、璃和に与える必要があるということだ。
時間をかけて璃和の心に取り入り、彼女が俺のことを愛するように仕向け、それを一気に完膚無きまでに叩き壊し、再び時間を巻き戻す魔法を発動させてみせる。
璃和、俺は君の人生の幸も不幸も何もかも、全てを飲み干すような心境で、再び君を絶望させるよ。それが君と家族を真に救う、唯一の道なのだから。
例え俺の中で、もはやいったい何が正しいのか、未来永劫に答えは見つからなかったとしても、何度でも何度でも時間を巻き戻す。
一九九五年十一月以前の、君が限りなく幸せだったあの世界に辿り着くまで。