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斬痕

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/09/23

銅鑼が低く尾を引いていた。

暮れかけた空を、血のように重い黒煙が覆い尽くしている。城壁の向こうからは、いまだ肉を削ぐ音と、重く響く怒号が風に乗って運ばれていた。


允応は、こぶしの中で折れた槍の木屑を握り潰し、捨てた。


足元には、一人の敵兵が転がっている。

胸甲は叩き割られ、額から流れる血が目元を赤く染めているが、致命傷には至っていない。

胸の上下はまだ止まっておらず、喉の奥から、ヒュウ、ヒュウと擦れた喘息のような呼吸音が漏れている。


允応は腰の剣の柄に手をかけた。

敵将ではない。名もない兵卒だ。

だからこそ、息の根を止めねばならない。


戦場で倒れた者に情けをかければ、その隙に喉を穿たれて死ぬ。

それがこの乱世の鉄則だった。


足元の男は血混じりの唾を吐き出し、允応を睨み上げている。


允応も無言で剣を抜いた。

夕日を吸い上げた刃が、妖しく鈍い朱色に光る。


二人の頭上では、燕を模した漆黒の軍旗が冷たい風にはためいていた。

その中央に金の糸で縫い取られているのは、允応が命を捧げるべき絶対者――帝の紋章。


帝は遠くの都の玉座に座り、この戦を命じた方だ。

命《めい》に狂いなく応《こた》え、ただ人形のごとく斬る。それが允応の生きる理由のはずだった。


振り上げられた刃。

あとは重さに任せ、男の首筋へ振り下ろすだけでいい。


――なのに、腕が動かない。


腕の筋肉が固着したように強張り、指先が痺れていく。


(なぜだ。なぜ下ろせない)


男が、両目を限界まで見開いて允応を見上げた。

その顔は、允応より幾つか年下に見えた。


その男の右手が、激しく痙攣しながら胸元へ伸びた。

懐に隠した暗器でも探しているのか。允応の目は険しくなり、柄を握る手になおさら力がこもる。


だが、男の震える指先が引っ張り出したのは、刃物ではなく血に汚れた小さな木屑だった。


歪な丸い頭。不格好に伸びた耳。

子供が未熟な手つきで削り出した、粗末な兎の木彫り。


「……慈悲をくれるというなら……、……これだけは、娘に返してやってくれ……」


男の乾いた唇が吊り上がった。


指関節が白くなるほど、男はその木彫りを強く握りしめている。


允応の胸の奥で、何かが軋んだ。

そんなものは戦場においては一切の価値を持たない。

帝の御威光にも、軍規にも、この殺戮の勝敗にも、何の役にも立ちはしないゴミ屑だ。


殺せ。命に応えろ。

頭の中で規律が叫ぶ。

刃を落とせば、すべては終わる。


斬れ。

斬れ。

斬れ。


頭の中で響き渡るその声に、允応は歯を食いしばった。


息が詰まる。鼓動が耳元で痛いほど跳ねる。

剣を握る掌に、不快な汗が滲み出していた。


その、一瞬の膠着《こうちゃく》だった。


男が途切れかけた命を振り絞り、言葉にならない咆哮とともに允応の足首を掴んだ。


冷気のような殺気が駆け抜ける。反射的に、允応の腕が動いた。

思考よりも早く、身体の本能が刃を閃かせる。


――ドスッ。


重い音が響いた。


だが、刃が裂いたのは男の頸脈ではなかった。

男の首筋からわずか指一幅隣の、固い土が弾け飛ぶ。


二人の呼吸が止まった。

静寂の中、突き刺さった剣の刃だけが甲高い余韻を上げて震えている。


允応は、自分の手を見つめた。

手が、恐ろしいほどの振り幅で震えていた。


忠誠心ではない。

慈悲でも、

哀れみでもない。


ただ、この圧倒的な暴力の世界で、目の前の命の灯火を自分の手で消したくないという――喉を掻きむしりたくなるような、身勝手でどうしようもない衝動だった。


「……行け」


允応の声は、掠れて低かった。


「え……?」

「次にまみえた時は、迷わず首を落とす」


允応は刺さった剣を土から引き抜いた。泥と返り血を、力任せに振り払う。


「だから……気が変わらないうちに、消えろ!」


男は一瞬、信じられないものを見る目で允応を仰ぎ見ると、血の滲む土を這い、木彫りを懐に抱きかかえながら黒煙の向こうへと姿を消した。


允応はその背中が煙に溶けていくのを、ただじっと見送っていた。


やがて遠くで、再び高らかな銅鑼が鳴り渡った。

帝の軍が勝鬨を上げ、完全な勝利を告げる音だ。


允応は静かに剣を鞘に収めた。

見ていた者は誰もいない。


この過ちは、最初からなかったことにできる。

――そう思おうとした。


彼の足元には、突き立てられた剣が残した深い亀裂が刻まれていた。





ー了ー

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