斬痕
銅鑼が低く尾を引いていた。
暮れかけた空を、血のように重い黒煙が覆い尽くしている。城壁の向こうからは、いまだ肉を削ぐ音と、重く響く怒号が風に乗って運ばれていた。
允応は、こぶしの中で折れた槍の木屑を握り潰し、捨てた。
足元には、一人の敵兵が転がっている。
胸甲は叩き割られ、額から流れる血が目元を赤く染めているが、致命傷には至っていない。
胸の上下はまだ止まっておらず、喉の奥から、ヒュウ、ヒュウと擦れた喘息のような呼吸音が漏れている。
允応は腰の剣の柄に手をかけた。
敵将ではない。名もない兵卒だ。
だからこそ、息の根を止めねばならない。
戦場で倒れた者に情けをかければ、その隙に喉を穿たれて死ぬ。
それがこの乱世の鉄則だった。
足元の男は血混じりの唾を吐き出し、允応を睨み上げている。
允応も無言で剣を抜いた。
夕日を吸い上げた刃が、妖しく鈍い朱色に光る。
二人の頭上では、燕を模した漆黒の軍旗が冷たい風にはためいていた。
その中央に金の糸で縫い取られているのは、允応が命を捧げるべき絶対者――帝の紋章。
帝は遠くの都の玉座に座り、この戦を命じた方だ。
命に狂いなく応え、ただ人形のごとく斬る。それが允応の生きる理由のはずだった。
振り上げられた刃。
あとは重さに任せ、男の首筋へ振り下ろすだけでいい。
――なのに、腕が動かない。
腕の筋肉が固着したように強張り、指先が痺れていく。
(なぜだ。なぜ下ろせない)
男が、両目を限界まで見開いて允応を見上げた。
その顔は、允応より幾つか年下に見えた。
その男の右手が、激しく痙攣しながら胸元へ伸びた。
懐に隠した暗器でも探しているのか。允応の目は険しくなり、柄を握る手になおさら力がこもる。
だが、男の震える指先が引っ張り出したのは、刃物ではなく血に汚れた小さな木屑だった。
歪な丸い頭。不格好に伸びた耳。
子供が未熟な手つきで削り出した、粗末な兎の木彫り。
「……慈悲をくれるというなら……、……これだけは、娘に返してやってくれ……」
男の乾いた唇が吊り上がった。
指関節が白くなるほど、男はその木彫りを強く握りしめている。
允応の胸の奥で、何かが軋んだ。
そんなものは戦場においては一切の価値を持たない。
帝の御威光にも、軍規にも、この殺戮の勝敗にも、何の役にも立ちはしないゴミ屑だ。
殺せ。命に応えろ。
頭の中で規律が叫ぶ。
刃を落とせば、すべては終わる。
斬れ。
斬れ。
斬れ。
頭の中で響き渡るその声に、允応は歯を食いしばった。
息が詰まる。鼓動が耳元で痛いほど跳ねる。
剣を握る掌に、不快な汗が滲み出していた。
その、一瞬の膠着だった。
男が途切れかけた命を振り絞り、言葉にならない咆哮とともに允応の足首を掴んだ。
冷気のような殺気が駆け抜ける。反射的に、允応の腕が動いた。
思考よりも早く、身体の本能が刃を閃かせる。
――ドスッ。
重い音が響いた。
だが、刃が裂いたのは男の頸脈ではなかった。
男の首筋からわずか指一幅隣の、固い土が弾け飛ぶ。
二人の呼吸が止まった。
静寂の中、突き刺さった剣の刃だけが甲高い余韻を上げて震えている。
允応は、自分の手を見つめた。
手が、恐ろしいほどの振り幅で震えていた。
忠誠心ではない。
慈悲でも、
哀れみでもない。
ただ、この圧倒的な暴力の世界で、目の前の命の灯火を自分の手で消したくないという――喉を掻きむしりたくなるような、身勝手でどうしようもない衝動だった。
「……行け」
允応の声は、掠れて低かった。
「え……?」
「次にまみえた時は、迷わず首を落とす」
允応は刺さった剣を土から引き抜いた。泥と返り血を、力任せに振り払う。
「だから……気が変わらないうちに、消えろ!」
男は一瞬、信じられないものを見る目で允応を仰ぎ見ると、血の滲む土を這い、木彫りを懐に抱きかかえながら黒煙の向こうへと姿を消した。
允応はその背中が煙に溶けていくのを、ただじっと見送っていた。
やがて遠くで、再び高らかな銅鑼が鳴り渡った。
帝の軍が勝鬨を上げ、完全な勝利を告げる音だ。
允応は静かに剣を鞘に収めた。
見ていた者は誰もいない。
この過ちは、最初からなかったことにできる。
――そう思おうとした。
彼の足元には、突き立てられた剣が残した深い亀裂が刻まれていた。
ー了ー




