姉の婚約者様が怖すぎるので絶対に譲られたくありません
エレノアお姉様の金の髪がわずかに震えている。
その薔薇色の唇。
形さえ美しいそれが、そっと開いた。
「わたくし、やっと決心しました……。
セドリック様の婚約者を辞退いたします。ヴィヴィアン……これからはあなたがセドリック様をお支えするのですよ……」
潤んだ瞳。
透き通った白い肌。
膝の上で組まれた華奢な指先。
部屋には、昼の白い光が満ちていた。
ローテーブルに並んだカップの琥珀の水面が、わずかに揺れる。
紅茶の芳香。
隣に座っている男の、柑橘系のコロンの香り。
壁にかけられた時計の針が、ひとつ、進む。
――え? なんて?
怖くて、隣が見られない。
「お……お姉様。今なんとおっしゃいましたか?」
自分の声が、自分の声とは信じられないほどに震えている。
お姉様は白いハンカチを取り出すと、そっと目元を拭った。
「不甲斐ないわたくしよりも、ヴィヴィアン……あなたの方が、セドリック様には相応しいのです」
横目で、隣を伺う。
長い脚をゆったりと組んでソファに身を預けている、彼。
お姉様の婚約者――セドリック。
落ち着いたダークブラウンの髪に、深い藍の瞳。洒落た最高級の衣服を品よく身に纏い、見目も爵位も、品格も、すべてを兼ね備えた男。
彼の瞳が、ゆっくりとこちらに向く。
目が、合う。
艶のある微笑み。
――顔が最高に良い……。
でも、目の奥が、笑っていない。
私はお姉様を見る。
「お姉様……」
――待って。
お姉様……待ってください。
撤回して。
考え直して。
いやいや本当に。
今すぐ、どうか。
それだけは……
「……無理です!!」
私は、立ち上がった。
認めます。私が愚かでした。
あれは……いつだったか覚えていないけれど、前の話――
お姉様が書き物机に向かっているその横で、私はお姉様の宝石箱を勝手に開けた。そこからひとつ、青色の宝石のついたネックレスを手に取る。
「お姉様、これ、初めて見るわ」
ネックレスが――チャラと、小さな音を立てた。
振り返ったお姉様の顔が曇る。
「ヴィヴィアン……それは、セドリック様がくださったものなの」
「だから?
私、これにするわ」
お姉様はペンを机に置くと、立っていた私を潤んだ瞳で見上げる。
そうやってすぐ泣くんだから。あざとくて嫌い。
「……だめよ。それは婚約者様にいただいたものなんだから――」
「お姉様、ずるいわ」
お姉様の眉が下がる。
「いいわよね。
お姉様は、幼い頃から健康で。お美しくて。素敵な婚約者様もいて。
何でも持ってるじゃない。
宝石くらい私にくれたっていいのではなくて?」
お姉様の水色の瞳を見下ろす。
長いまつげに縁取られた完璧なアーモンドアイ。誰もが彼女を美しいと言う。
「ヴィヴィアンだって……。今は健康じゃない。みんなが言うわ。私よりあなたの方が可憐だって……」
「でも、私、こんな宝石持ってないもの。
本当にお姉様って欲しがりなのね。わがままだわ」
宝石を手のひらで握り込むと、踵を返した。背後でお姉様が私の名を呼ぶ。
欲しいんだもの。
私が貰って、何が悪いの?
私はお姉様の部屋を後にした。
――そうやって、私はいつもお姉様のものを譲ってもらっていた。
私にはもうひとつ、欲しいものがあった。
私は自室の窓から庭園を見下ろす。
見えるのは、ガーデンテーブルに向かい合う二人。お姉様と、セドリック様。
――あれほど美しい男の人、見たことがない。
二人がくすくすと楽しそうに笑い合っている。
セドリック様は、物腰も穏やかで、品があって、優しくて……。社交界でも評判の高い、どこをとっても最高の男。
セドリック様が手を差し出すと、お姉様がおずおずとその手に指先を添えた。優しく指を握り込まれ、お姉様の頬が赤く染まる。セドリック様は蕩けそうなほどに優しいお顔でそれを見つめていた。
――欲しい。
――絶対に。
私は邸宅の外へ出た。
セドリック様が従者を連れて歩いている。お姉様が彼から離れたその隙。
並ぶ木立の間にセドリック様が差し掛かったとき――
私は彼に抱きついた。
潤んだ瞳で見上げる。
風が吹いて、私の金の髪を揺らした。
葉擦れの音。ちらつく木漏れ日。
少しだけ西に傾いた日差しが私の瞳に差し込んで、それはそれは美しく見えているはず。
「……セドリック様。
お慕いしています……。
セドリック様が……お姉様の婚約者様だと理解はしています……。
でも、この気持ちは……」
涙をひとつ、落とす。
――視線。
背後に、お姉様がいる。驚いて木の陰に身を隠したのね。
私はセドリック様の藍の瞳を、ただまっすぐに見つめた。
「セドリック様……。好きです。
もう……この気持ちは抑えられませんわ……。
どうか、私を抱きしめてくださいませんか……」
声を震わせる。
「ヴィヴィアン嬢……」
彼の低くて甘い声。セドリック様は私の肩にそっと手を添える。
「……僕は、君の気持ちには応えられないよ」
優しい声音。
――だけど。
ふと、肌が粟立つ。
彼の藍の瞳。その奥。
ぞっとするほど、深い闇。
私は慌ててセドリック様から離れた。
――え!?
セドリック様は、私に甘い笑みを残して、横を通り過ぎていく。従者も私に軽く頭を下げて、去った。
その後、セドリック様は再びお姉様と一緒に庭園を歩いていた。その藍の瞳にあるのは、ただただ、優しい紳士の柔らかい光。
一人木立に残された私は、それを見つめた。
――さっきのあれは?
――気のせい?
私は呆然と、そこに立ち尽くした。
お姉様とセドリック様の約束のなかったはずのある日――
セドリック様が私の部屋に来た。
彼は、私の部屋に入ると扉の前に静かに立つ。従者が隣に並んだ。
相変わらず綺麗な顔のその男は、切れ長の藍の瞳で私をまっすぐに捉える。
私は浮き足立ち、部屋の中央で彼の言葉を待った。
セドリック様がゆっくりと口を開ける。
「貴様――」
彼が腕を組んだ。
「僕に殺されたいのか?」
部屋を満たす白い光。
窓の向こうで小鳥がさえずっている。
――え?
セドリック様は大股で歩き、当然のように私の部屋の布張りソファに腰を下ろした。
長い脚を組むと、従者に向かって無言で手のひらを差し出す。
「失礼します」
従者の青年は一礼すると、部屋の中を歩き出した。迷いなく宝石箱をみつけ、セドリック様の手にのせる。それから、衣装室の方へ。
「ちょ……!
ちょっとお待ちください!」
セドリック様は宝石箱を開けると、先日お姉様から貰った青色の宝石のついたネックレスを取り出す。
そして、私の方へかざして見せた。
「これは……僕が、僕の天使に贈ったネックレスじゃないか」
――今“天使”って言った?
ネックレスを丁寧にテーブルにのせると、別のイヤリングも手に取る。それも、テーブルに置く。
またひとつ、指輪を。
ブレスレットを……。
従者の青年が何着かドレスを持ってセドリック様のもとに戻ってきた。
それを眺め、セドリック様はふっと笑う。
「おい。そこ座れ」
――え、誰? 私?
セドリック様に鋭く睨め付けられ、私は大人しくセドリック様の前のソファに座った。
正面は怖かった。少し右に。
セドリック様は、膝に肘をつくと、まじまじと私を見つめる。
「僕のエレノアの物を盗るなんて、愚かにも程がある」
地を這うような、低い声。
途端に、空気が冷え込む。
知らずに体が震えだし、私は腕をさすった。
「それから、今度天使の前で僕に触れてみろ。
その爪一枚一枚はがして、骨という骨全て折ってやるからな」
目が本気だ。
「天使の妹でいたかったら、弁えろ。
僕が矯正してやろうか。徹底的に」
「え、いや……結構です……」
「あぁ?」
え?
どこからその声出たの?
え?
この人本当にあのセドリック様?
自分の体から血の気が引いていく音がした。
従者の青年の顔を見る。
彼は、憐れむような目で私を見ていた。
分かった。この人……
――ヤバい人だ。
その後一時間ほど、セドリック様の説教が続いた。
セドリック様を見送る。
玄関口。もう外は夕焼けだった。
「また来る」
――来なくていいです!
だが、それを言葉にする勇気は無かった。
彼は背を向け、去っていく。最高級の生地で仕立てられたジャケットは品の良い光沢を返していた。
私も、やっと部屋に戻る。
お姉様の視線は感じた。
でも、言い訳をする気力も沸かなかった。
そして、冒頭に戻る――
「お姉様……。無理です!!」
私は、立ち上がった。
横から、まるで巨大な氷を押し付けられているかのような圧力を感じる。
「私にセドリック様は怖すぎ――じゃない!
こんな素敵な方にはお姉様こそが相応しいです!
私になんてそんな恐れ多い!」
お姉様がその潤んだ瞳で私を見上げた。
「でも……わたくし、見てしまったの……」
私は眉を寄せる。
「あなた達が、抱き合ってるところ……」
黒歴史です!
忘れてください!
あれから地獄が始まったのです!
「あ……あれは! 私が躓いたのをセドリック様が助けてくださっただけです!」
――と、いうことにしておいてください!
「それに……わたくしとお約束のない日にセドリック様があなたの部屋に入っていくところも見たわ……」
説教されてただけです!
「あれは……べ、勉強を教えていただいていたのです!
私、ほら、ちょっと勉強が苦手なので」
「ちょっと?」
セドリック様が私にだけ届く声でボソリとつぶやいた。
――こいつ……。
一瞬だけセドリック様を見るが、彼は深淵の瞳で私を見つめ返す。
お姉様を見た。
セドリック様を見たあとだと不思議とお姉様が愛しく見えるわ。
「とにかく! 撤回してください!
一刻も早く! ほら!」
「でも……わたくし……やっと決意して……」
「お姉様!!
私を助けると思って!!」
お姉様は不思議そうに私を見上げていた。
――左にいる男の視線が痛い!
セドリック様はゆっくりと立ち上がると、テーブルを回り込み、お姉様の脇に片膝をつく。そして、華奢なお姉様の手を優しく取った。
「……エレノア。
僕は君を心から愛している。僕を捨てるだなんて、そんなこと……どうか、言わないでくれないか」
「セドリック様……。
そんな……わたくしだって……」
二人が見つめ合っている。
私はゆっくりと、音を立てないようにソファを離れ、部屋を出た。
扉を慎重に閉める。
そして、扉に背を預けて、長く息を吐いた。
「……勘弁してよ」
踵を返し、自分の部屋に戻る。
その後、お姉様はセドリック様の婚約者であり続けた。
お姉様……それでいいのです。
どうか、私を巻き込まず、お姉様には幸せになっていただきたいものです。




