第6話 王宮の崩壊予兆
その日の朝、第三寮の空気は凍りついていた。
「――勅命である!」
玄関ホールに、甲高い声が響き渡る。
立っているのは、王家の紋章が入った豪奢な服を着た文官だった。
後ろには護衛の騎士が二人。
ただし、騎士たちの顔色は土気色で、立っているのがやっとという風情だ。
私はルシアン様の斜め後ろ、影になる位置でその光景を見ていた。
ついに来た。
王宮からの接触だ。
「宮廷筆頭魔導師ルシアン・クロード、および第三寮所属の魔導師全員に告ぐ。直ちに北の森へ出撃し、出現した魔獣の群れを殲滅せよ!」
文官が羊皮紙を突きつける。
ルシアン様は眉一つ動かさず、静かに問い返した。
「北の森……あそこは王都防衛の要衝ですが、出現した魔獣の規模は?」
「報告では、オークロードを含む数百の群れ。さらに『深淵の黒狼』も確認されている」
「……なんですって?」
私は思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
数百?
それに黒狼?
それは通常、騎士団と魔導師団の第一・第二寮が合同であたる規模の案件だ。
間違っても、掃き溜めの第三寮(人員五名)だけで相手にする数じゃない。
「第一寮と第二寮はどうしたのです。彼らの管轄でしょう」
「彼らは……その、体調不良により全滅した」
文官がバツが悪そうに視線を逸らす。
「聖女ニーナ様の懸命な治療も虚しく、原因不明の『魔力熱』で倒れる者が続出している。近衛騎士団も同様だ」
(原因不明じゃない、ただの治療ミスだ!)
私は心の中で叫んだ。
ニーナの光魔法は、傷を塞ぐだけで体内の魔素を除去できていない。
汚れた魔素が体内で暴走し、熱を出して倒れているのだ。
完全に医療崩壊している。
「ゆえに、動けるのは貴様ら第三寮のみ! これはカイル殿下の命令でもある!」
文官は唾を飛ばして喚いた。
「殿下は仰っていたぞ。『魔導師どもが日頃たるんでいるから、魔獣の侵入を許したのだ』とな。これは汚名返上の機会である! 失敗は許されん!」
なんという責任転嫁。
魔獣が増えたのは、聖女の結界が弱まっているからだ。
それを棚に上げて、激務の魔導師たちに死んでこいと言うのか。
ルシアン様の背中から、冷たい殺気が立ち昇るのが見えた。
部屋の温度が数度下がる。
文官が「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。
でも、ルシアン様は怒りを爆発させたりはしなかった。
彼は一度だけ深く息を吸い、静かに言った。
「……承知した」
「ルシアン様!」
私が止めようとすると、彼は手で私を制した。
「民に被害が出る前に食い止める。……それが、魔導師の義務だ」
「ふ、ふん。わかればいいのだ。直ちに出発せよ!」
文官たちは逃げるように去っていった。
残されたのは、静まり返ったホールと、絶望的な命令書だけ。
◇
出撃準備が進む中、私はルシアン様の部屋に押しかけた。
彼は黙々と装備を整えている。
愛用の杖を磨き、魔石をポーチに詰めている。
「行ってはダメです」
私は声を震わせた。
「あの数は無理です。自殺行為です。第一寮たちが回復するまで、結界を張って籠城するべきです!」
「それでは間に合わない」
ルシアン様は手を止めず、淡々と答える。
「北の森を抜ければ、その先には農村がある。僕たちが籠城すれば、村は全滅する」
「でも、貴方が死んだら意味がない!」
叫んでしまった。
彼の手が止まる。
振り返った彼のアイスブルーの瞳は、凪いだ海のように穏やかだった。
「サラ。……僕はね、自分がいつか魔力の使いすぎで死ぬとわかっていたんだ」
彼は寂しげに微笑んだ。
「呪われた魔力だ。せめて多くの人を守って散るなら、それも悪くないと思っていた」
「……っ」
「でも、今は少し違う」
彼は私に歩み寄り、そっと私の頬に触れた。
その手は温かい。
「君が美味しい飯を食わせてくれたから。体が軽いんだ。今の僕なら、あるいは生き残れるかもしれない」
「『あるいは』じゃ嫌です! 絶対じゃなきゃ!」
「わがままだな、僕の寮母は」
彼は困ったように眉を下げ、それから私の頭をくしゃりと撫でた。
「大丈夫だ。君の特製スープを水筒に入れた。これがあれば百人力だ」
嘘だ。
バフの効果は強力だけど、無敵じゃない。
数百の魔獣を相手に、たった五人で戦えば、いずれ魔力は尽きる。
そして尽きた時が、最期だ。
原作小説のシーンが脳裏をよぎる。
森の中で、無数の魔獣に囲まれ、魔力が枯渇して膝をつくルシアン。
『……ああ、静かだ』
そう言い残して、彼は彼方へ逝ってしまう。
あれが、今日の夕方に起きる現実?
「行ってくる。……留守を頼む」
彼は私を抱きしめることはしなかった。
抱きしめたら、決意が鈍るとでも言うように。
背を向け、マントを翻して部屋を出て行く。
「ルシアン様……!」
追いかけようとして、足が止まる。
私がついて行っても、足手まといになるだけ?
私は戦えない。
攻撃魔法なんて使えない。
ただの、生活魔法しか使えない女だ。
窓の外を見る。
第三寮の庭に、住人たちが整列していた。
皆、悲壮な顔をしているが、ルシアン様への信頼だけで立っている。
彼らが転移魔法を発動させ、光の中に消えていく。
残されたのは、静寂。
そして、私一人。
「……頼む、じゃないわよ」
私はガタガタと震える膝を叩いた。
涙が溢れてくる。
怖い。
失うのが怖い。
やっと見つけた推しとの幸せな日常が、理不尽な悪意と無能さによって奪われるなんて。
(留守番なんて、できるわけない)
私はキッチンへ走った。
鍋に残っていたスープを、ありったけの保存瓶に詰める。
冷蔵庫の食材をすべて収納魔法に放り込む。
掃除用のモップ(柄が長いから武器になるかも)を背負う。
変装用の眼鏡を外した。
邪魔だ。
もう、正体がバレるとか、王宮に見つかるとか、そんなことはどうでもいい。
「待ってて、ルシアン」
鏡に映る私は、もう「地味な寮母」の顔をしていなかった。
かつて社交界で「氷の令嬢」と呼ばれた、覚悟を決めた女の顔だ。
私の魔法は【状態付与】。
対象の能力を底上げする力。
戦場に届かなければ意味がない。
なら、届く場所まで行くしかない。
「私が貴方を死なせない。……絶対に!」
私は寮を飛び出した。
北の森へ。
馬なんていない。
自分の足に【身体強化・脚力】をかける。
風になれ。
誰よりも速く。
私は地面を蹴った。
爆発的な加速が、景色を後方へと置き去りにしていく。
心臓が破裂しそうでも、足が千切れそうでも止まらない。
死の運命なんて、私がこの手で書き換えてやる。




