深夜二時、ラーメンはだいたい正義
深夜二時。
この時間に腹が鳴るのは、もはや事故だと思う。
夕飯は食べた。
風呂にも入った。
歯も磨いた。
それなのに、腹が減った。
「……なんでだよ」
俺は冷蔵庫を開ける。
中には、信頼できない面々が並んでいた。
・缶ビール
・賞味期限ギリギリの豆腐
・存在意義が不明なもやし
・健康を言い訳に買ったが一度も活躍していないサラダチキン
違う。
今の俺が欲しいのは、努力しなくていい食べ物だ。
つまり――ラーメン。
深夜二時におけるラーメンは、食事ではない。
現実逃避の最終形態である。
俺は上着を羽織り、財布とスマホを持って家を出た。
この時点で「負け」だが、勝ちに行く負けもある。
玄関を出ると、空気がひんやりしていた。
冬と言うには少し早いが、秋と言うには寒い。
こんな日はラーメンが美味い。
コンビニの前を通る。
ビール缶のポップと、肉まんの湯気と、雑誌のラック。
ここで済ませる、という選択肢もある。
カップ麺。レンチンのチャーハン。ホットスナック。
それでもまあ満たされる。
……満たされるが。
今日は違う。
今日は、店のラーメンだ。
人が火を使って、鍋で湯を沸かして、麺を泳がせて、スープを注ぐ。
その「手間」の味を、俺は欲している。
歩く足が勝手に進む。
角を曲がると、少しだけ明るい光が見えた。
真っ暗な通りにぽつんと浮かぶ、黄色い看板。
「ラーメン」とだけ書いてある。
余計なことは何も言わない。
営業時間も書いてない。
なのに、光っている。
その時点で、もう勝ちだ。
店の前に立つと、湯気と油と醤油の匂いが混ざった、あの“吸い込むと腹が鳴る匂い”が鼻孔を突いた。
胃が、嬉しそうに反応する。
俺の胃は、あっという間に手のひらを返す。
暖簾をくぐると、カウンターだけの店内に、先客が二人。
一人はスーツのまま、ネクタイを緩めて俯いている男。
もう一人は、スマホを見ながら黙々と麺をすすっている若い兄ちゃん。
いい。非常にいい。
「いらっしゃい」
店主の声がする。
券売機を見上げる。
券売機は、人生の岐路みたいな顔をしている。いや、実際岐路だ。醤油、味噌。チャーシュー。味玉。
俺の脳内会議が始まるが、いつものに落ち着く。
醤油だ。味玉もイイ。
こういうところに、人生の保守性が出る。俺は券売機のボタンを押す。
醤油ラーメン、味玉。
それと、小ライス。
深夜二時の救いが、千円ちょっとで買えるのは、たぶん奇跡だ。
券を店主に渡す。
「はいよ。味玉ね」
俺は水を一口飲んで、カウンターに肘をつく。
カウンター越しに、寸胴から立ち上る湯気を見る。
仕事で言われた理不尽な一言。
どうでもいい会議。
上司の曖昧な指示。
全部、麺と一緒に胃袋に流し込むためにある。
しばらくして、丼がカウンターに置かれた。
見慣れたはずなのに、深夜二時のラーメンは、なぜか特別に見える。
まずはスープだ。
レンゲを取る。
レンゲの白が、スープの茶色に沈む。
すくい上げると、油が薄く膜を張っている。
光が反射して、きらっとする。
口に運ぶ。
熱い。
だが、熱さの向こうに旨味がある。
醤油の角があるのに、嫌じゃない。
むしろ、夜中にはこの角が必要だ。
甘い。
いや、砂糖の甘さじゃない。
脂と出汁の甘さ。
舌の奥で「うん」と頷く甘さ。
ああ、やっぱり店のラーメンは違う。
次は麺。
箸で持ち上げると、麺が湯気と一緒にふわっと上がる。
細麺。
ストレート。
少し硬め。
すすった瞬間、鼻に小麦の香りが抜ける。
スープが絡んで、舌に塩気が残る。
噛むと、ぷつっと切れる。
この「ぷつ」が、いい。
夜中に食べる麺は、なぜこんなに罪深く、うまいのか。
熱い。
だが、その熱さが、今の俺にはちょうどいい。
チャーシューに箸を伸ばす。
薄い。
だが、薄いからこそ、口の中でスープと混ざる。
脂がとろけて、肉の繊維がほどける。
完璧じゃない。
でも、今の俺には、これでいい。
隣のスーツの男が、ため息をついた。
スマホの兄ちゃんは、替え玉を頼んだ。
深夜二時のラーメン屋は、不思議な連帯感がある。
誰も話さないが、全員「今日は大変だった」という顔をしている。
麺を半分ほど食べたところで、卓上の胡椒に手を伸ばす。
一振り。
二振り。
スープの表情が変わる。
少しだけ、刺激が増す。
こういう小さな変化が、三十代には楽しい。
味玉。これがまた、ずるい。
箸で持ち上げると、黄身がぷるっと揺れる。
持っただけで「完璧です」と言っている。
半分を口に入れる。
白身は、ちゃんと味が染みている。
でもしょっぱすぎない。
タレの甘さがある。
黄身は、とろっとしている。
舌に広がる。
スープと混ざり、少しだけまろやかになる。
俺は思わず、レンゲでスープをすくい、もう一口飲んだ。
さっきよりまろい。
味玉って、スープを完成させる装置なんだな、と、どうでもいいことを思う。
こういうどうでもいいことを思えるのが、夜中のラーメンの良さだ。
俺は小ライスに手を伸ばす。
白いご飯が、湯気を上げている。深夜二時の白米は、罪悪感の塊だ。だが、ここでやらないと後悔する。俺はレンゲでスープを少し掬い、ご飯にかける。
じゅわっ。
スープが米に吸われる。海苔をちぎって乗せる。そこに、チャーシューの端を置く。
食べる。
……うわ。
うまい。
米の甘さが、醤油スープの旨味を吸って膨らむ。
海苔が香りを足して、チャーシューが肉の説得力を出す。
これはもう、ラーメンのオマケではなく、別の料理だ。深夜二時の“現実逃避どんぶり”である。
隣の兄ちゃんが、ちらりと俺の小ライスを見て、目を逸らした。
分かる。分かるぞ。「それはやりすぎだろ」と思ったな。俺もそう思う。でもやるんだよ。人生にはそういう日がある。
俺は黙々と食べ進める。スープを飲む。麺を啜る。具をかじる。ご飯を掻き込む。体の内側が、じわじわと温まっていく。胃が、満たされていく。肩のあたりの力が抜けていく。
不思議だ。
食べているだけなのに、なぜこうも「大丈夫になる」のか。
いや、たぶん大丈夫じゃない。明日も仕事はある。あの案件も終わってない。あの人の機嫌も取れてない。俺の人生の何かが劇的に改善することはない。
でも、少なくとも今は。
今この瞬間だけは、ちゃんと満たされている。
ラーメンは、世界を救わない。
救わないが、人間を一人くらいなら、深夜二時に救える。
スープを最後まで飲むかどうか、少し悩む。ここが最後の分かれ道だ。
俺は、レンゲを持ち上げる。
――飲む。
今日は飲む日だ。明日の俺は明日の俺がどうにかする。今日の俺は、今日の俺の幸福を優先する。
レンゲで、すくう。飲む。すくう。飲む。
丼の底が見えてくる。最後に、ねぎと油と小さな旨味の粒が残る。俺はレンゲでそれを集めて、ゆっくり飲んだ。
レンゲを持ち、最後の一口を飲む。
丼の底が見えた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
会計を済ませ、暖簾をくぐる。
外は相変わらず静かで、少し冷える。
腹の奥が、じんわりと温かい。
深夜二時のラーメンは、だいたい正義だ。
少なくとも、今日の俺にとっては。
そう思いながら、俺は家路についた。
明日も仕事だ。
たぶん、ろくでもない。
でもまあ、なんとかなるだろう。
ラーメンが、うまかったからな。




