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わたくしは悪役令嬢になれなかった〈短編版〉


賑やかな声がする。

ルミエラ・ローザ・ザイツェフェルトはゆっくりと瞼を上げた。騒がしい声にのろのろと左側を見ると、いつものように輝く壁が、あの女(・・・)の笑顔を映し出していた。


「――もう、アークったら! 冗談ばっかり!」

「はは、すまない。ルミが可愛くて、つい」

「そろそろ怒るよ!」

「まあまあ、許してやりなさい、ルミ。アークレイドも悪気があったわけじゃないんだから」

「お兄様ってば、いつもアークの肩を持つんだから!」

「ははは」


ルミエラは無表情に笑い合う男女を眺める。

――今日も、目覚めてしまった。この場所で。

そこは真っ暗な空間であった。空間としか形容しようがない。生活に必要なものは揃っているが、他に人の気配はなく、光源もなかった。

ルミエラはそこに長い間閉じ込められていた。


「さ、そろそろ教室に戻ろう、ルミエラ(・・・・)

「はぁい。次は歴史の授業だったわよね?」

「お昼休みの後だからってお昼寝しないように。この前、お前が寝そうになっていたと聞いてどれだけ肝が冷えたか。ザイツェフェルト家の令嬢としての自覚を」

「お兄様、お説教をしていたら時間がなくなるわよ! 行きましょう、アーク」

「ルミエラ、絶対に寝ないように! いいな!?」


追いかける声に笑いを返し、ルミエラと呼ばれた女は画面の中で笑っている。


「......今日も、楽しそうだこと」


呟いた声にもはや感情は滲まない。悲しみも怒りも、次第に薄れてしまったから。

転生者だとかいうこの女に、体を乗っ取られてから。

ルミエラは画面の中に映る己の顔をなぞる。


「――よくもまあ、人の体で暢気に笑っていられるわね」


拳をたたきつけても、壁はびくりともしない。知っていてなお、殺意だけは募っていく。


「居眠りなんてことをしてわたくしの評判を下げるくらいなら、わたくしの体をお返しなさい......!」


――ルミエラが己の体を失ってから、実に6年の時が経過していた。



***



乙女ゲーム「運命の乙女と宝石の騎士」主人公のリラは14歳になる頃、父である男爵に引き取られ、貴族学園に入学。そこで5人の男性と出会い、恋に落ちる。これを面白く思わないのは彼らの婚約者である。特に第二王子の婚約者ルミエラの怒りは激しく、リラに酷い嫌がらせを行い、最終的に命を奪おうとした咎で処刑される。


「って、わたし、あのルミエラになっちゃったのー!?」


五十嵐 瑠美は社畜である。両親は早くに亡くなっていて、友達もろくにいない。十連勤でろくに眠れなくて、ついデスクでうたたねをしてしまって――目が覚めると小さな女の子の体の中に入っていた。手の小ささに違和感を覚えて鏡を見たら、そこには知らない女子が映っていたのだ、驚くというものだ。


「嘘......どうしよう、死にたくないよぅ」


叫び声を聞きつけてか、侍女が入ってきた。


「お嬢様、どうかされましたか?」

「お、お嬢様って、わたしのこと、よね......?」

「え......? お、お嬢様? ほんとうに、どうかされましたか?」

「あの、わたしって、ルミエラ・ローザ・ザイツェフェルト?」

「そ、そうですよ......?」

「今って、わたし、何歳?」

「八歳ですけれど.......」

「じゃ、じゃあ、もうアーク様と婚約したわよね!?」

「え? え、ええ」


侍女は怪訝そうな顔をしている。瑠美は慌てて顔の前で手を振った。


「変なこと聞いてごめんなさい! 変な夢を見てしまっただけなの」

「えっ!?」

「ど、どうしたの?」

「お、お嬢様に謝られた......? お医者さま、お医者さま、大変です、お嬢様がーーー!」

「待って、うそでしょ、もうそんなに我儘三昧なの!? ねえ待って、わたしは普通よ、いつも通り! 心を入れ替えただけだから、信じてちょうだーい!」


――その日はザイツェフェルト家で、ルミエラが天使になった日として長く祝われることになるのだが、そんなことはまだ誰も知らない。


「乙女ゲームが始まるまでに、なんとかしなくっちゃ......! わたしの推しのリュディガー様の闇落ちも防ぎたいっ!」


乙女ゲームのスチルを思い出しながら、瑠美は意気込む。


「なっちゃったものはしょうがないもんね。頑張らなくちゃ!」



***



「......しょうがない、ですって?」


ルミエラ・ローザ・ザイツェフェルトは怒りの余り顔を真っ赤に染めた。


「わたくしの体を奪っておきながら、しょうがないだなんて! 恥を知りなさい、この盗人(ぬすっと)が!」


ルミエラは暗い場所にいた。一か所だけが煌々と明るく、先程までルミエラがいた場所の様子を伝えているが、他は真っ暗である。ここがどこなのか、他に誰もいないのか、ルミエラには全く分からなかった。

いつも通り眠っただけなのだ。だというのに目覚めたらここにいて、己の体には見ず知らずの女が入り込み、訳の分からぬことをほざいている。


「返しなさい、この下郎! その体はわたくしのものよ!」


壁に映る己の顔を叩いても、壁はびくともしない。両親と会って笑顔を見せるその中身はルミエラではないのだと叫びたくても、壁の向こうには届かない。

壁の向こうで、盗人はこれまでのことを謝り、心を入れ替えたのだとさも誠実そうな顔をして言っていた。


「お父様、お母様、騙されないで! それはわたくしではないわ! お兄様! どうか気づいて!」


声を限りに叫んでも、誰も気づいてはくれない。そんなことをしなくても大丈夫だよ、と頭を撫でる父、ルミエラはそのままでも可愛いわよ?と顔を覗き込む母、ルミエラがやりたいなら頑張って、と笑う兄—―全員、ルミエラの家族なのに!


「ふざけないで! わたくしでもないのに、ルミエラを名乗らないで! 今までの行いを改めるって何よ、わたくしは何も間違ったことはしていないわ! 汚らわしい盗人、その方はあなたのお父様じゃないわ、わたくしのお父様よ! ねえお母様、わたくしはここよ! お兄様、ルミエラはここにいるわ! その女は偽物よ!」


ルミエラは出してくれと訴えたが、壁はびくりともしない。泣いて泣いて泣き疲れて、これは夢だと言い聞かせて眠り――それでも元には戻らなかった。



盗人は名を五十嵐 瑠美というらしい。年は32歳で、家族も友達もいない。魔法の代わりに科学というものが発展した世界の記憶を持っていた。

ルミエラの体を乗っ取ったことは、本人もよく分かっていないようだった。けれど、第二の人生を楽しまなくちゃ、などと宣っているのが、ルミエラには我慢できなかった。

第二の人生などではない。ルミエラにとっては唯一の、大切な日常だった。

ルミエラは盗人――瑠美などと呼ばない。あの女は盗人である――を蛇蝎の如く嫌った。

気持ち悪いのだ。

二回りも違う子供の体を乗っ取った挙句、自分よりも年下のルミエラの両親を慕い、自分よりも遥かに年下の少年を兄と呼ぶなど。確かに今はルミエラの皮をかぶっているから8歳の少女に見えるけれど、中身は32歳。何かしら大切なものがあってもおかしくないだろうに、自分の体に戻ろうという努力の片鱗さえないことが、嫌悪感を加速させた。

しかも、この世界がゲームとやらの世界だと信じて、これから起こる悲劇を防ごうなどと息巻いている。不幸な未来を知っているからそれを変えようとするのは、その先の未来すべてに責任を取ろうということだ。分かっているならばいいのだが、盗人は処刑回避しか考えていないようで、その他のことなんてまるで頭にはないようだった。

――なんて、愚かな。

ルミエラは必死に祈った。誰でもいいからわたくしの体をわたくしに返してくれと祈った。せめて誰か気づいてくれたら、と思ったが、誰一人として気づかないままに過ぎていく日々に絶望した。


ルミエラは婚約者のアークレイドに一縷の望みをかけた。ルミエラはアークレイドを心から好いていた。初めて会った時の小さな紳士の姿に心を奪われたのである。だが勿論、この感情はルミエラのものであり、盗人はそうではないようである。この態度の違いに違和感を覚えて探ってくれれば、とルミエラは天にも祈る気持ちでその日を待ちわびた。


「――こんにちは、ルミエラ令嬢」

「こんにちは、第二王子殿下」


アークレイドは驚いた様子で小さく目を見開く。それも当然であろう。ルミエラは今までずっと、アークレイドのことをアーク様と呼んでいた。望まれたことは何でも叶えたし、先回りして準備した。お茶会は彼の好みに合わせ、ひたすら彼に尽くした。


「......なんだか、今日は別人のようだね」

「実は、わたしは生まれ変わろうと決めたのです。これまで身分をいいことに、色々とやりすぎてしまいましたから。心を改めました」

「そうなのか。うん、確かにこの方が好ましいね」


――その言葉を聞いた時、アークレイドが口元を綻ばせるのを見た時、ルミエラの中で何かが壊れる音がした。


「ルル、と呼んでもいいかい?」

「あっ、最近、愛称をルミに替えたんです。心機一転、と言いますから」

「なるほど。ではルミ。またのお茶会を楽しみにしているね」

「はい、さようなら」


アークレイドが去って行くのを眺め、ルミエラは号泣した。

5歳を過ぎてから初めて流した涙だった。



***



それからというものの、盗人は未来改変に乗り出した。奴隷商に違法に売られていた子供たちを助けたり、第一王子に王の支援を与えたり、何やら魔法や料理の発明もしている。

最後のひとつは文句のつけどころがない。前ふたつも人道の観点からは良いことと言えるだろう。

しかし、総合的に見て決して良いことではない。

違法な奴隷商を叩くだけでめでたしめでたしとはならない。販売に関わった者たちを一斉検挙するでもなく、ただそこにいた者だけを捕えても意味がない。目先のものを解決したところで根本的な解決にはならないし、そもそも他の奴隷商の実態を調査しようともしないあたり、ほんとうにゲームのことしか頭にないのだと理解せざるを得なかった。

第一王子を助けたことだって、王妃に睨まれる行為だ。婚約変更で第一王子を押し付けられ、嫡男の兄を差し置いて己が公爵位を継承する危険性すらあった。それを理解していないのが、何より恐ろしかった。

けれどそういった過失があっても、盗人は己の功績のおかげで色々と(はや)し立てられていた。天才令嬢、期待の星、などと言われている。誰彼構わず笑顔を振りまいているから、老若男女問わず人を惹きつけているようだけれど、その才能は決して王妃に向いてはいない。

王妃はこの国の守護者、時には非情な決断を下し、民を斬り捨てることが出来る人物でなければならない。使用人さえも同列に扱う盗人に、それが出来るとは到底思えなかった。

しかし、その無邪気さと発想力が相変わらずアークレイドを引き付けているようだった。勿論、それは他の男にも言えることで、とりわけ、救われた第一王子の恩義は思いの大きさとなって行動に現れた。まして盗人は第一王子に心があるらしく、それが態度に出ているのを見た時には発狂したくなった。

――別にもう、第二王子殿下のことは好きではありませんけれど。

初めは盗人に蕩けそうな眼差しを向ける度心は痛んだけれど、やがて諦めた。こちらに気づかず、会話をすることもない相手に、何かしらの感情を抱けという方が難しい。

そして驚くべきことに、誰もその状態に異を唱えないのだ。子供だからかもしれないが、早くしないと手遅れになるような気がしてルミエラにはもどかしかった。


そんな状態のまま貴族学園に入学し、初等部の2年を終えた頃。ひとりの令嬢が学園に編入してきた。平民として生まれ育ち、落胤であることが発覚して貴族に迎え入れられた娘だという。

これを聞いてから、盗人は随分不安そうにしていた。なんでもその平民女がゲームの主人公らしい。皆を取られたらいやだな、などとお前は何様だと言いたくなるようなことを考えていた。

編入してきた娘は、リラといった。子兎のように可愛らしく、また愚かな娘だった。誰があの女を相手にするのか、と思っていたのだが、あろうことかルミエラの兄がその馬鹿娘に引っかかってしまったのである。

ルミエラは心の底から兄を嫌悪した。

2歳年上の兄には、婚約者がいる。恋愛というよりも信頼を育んでいたのだが、これが揺らいだ。当然のこととして、その義姉は毅然とした態度で馬鹿娘と兄に抗議した。

婚約者がいる男性とは節度を持った付き合いをするように。

物を贈られても、身に着けないように。

二人きりの状況を避けるように。

間違ったことは言っていない。貴族令嬢として当たり前のことである。

けれどそれを聞いた馬鹿娘は、不思議そうに首を傾げて言ったのだ。


「ルミエラ様は、いつも沢山のご令息に囲まれていますよ?」


言葉に詰まったのは義姉の方であった。

本来手本を示すべき公爵令嬢が、その地位に相応しくない振る舞いをしているのである。咎めるならばそちらを先にするべきであるのに、長年の親戚付き合いがその(まなこ)を曇らせていたらしかった。

義姉はそれ以上何も言えず、その場を立ち去った。以降盗人にも注意をし始めたのだが、盗人は何がいけないのか本気で分からないと言いたげだった。


「だってみんな、友達よ?」


そう言って収まる段階は過ぎたのだと理解しないお花畑のような頭を、首からへし折ってやりたいと思った。



***



中等部一年の終わり。3歳年上の第一王子の卒業が迫っていた。

なかなか会えなくなるという事情がふたりの恋に火をつけたのだろうか。

あろうことか、卒業式を二日後に控えた日、ふたりは口づけを交わした。一度限りの思い出だと、そう言って。

目の前が真っ赤になった。

口づけひとつであっても、それは立派な不貞だ。離縁の材料になるほどの、神への冒涜。それを一度限りだからなどと言って行う愚かしさが信じられなかった。


「どうして......?」


かろうじて絞り出した声は震えていた。


「どうして、そんなことができるの! わたくしの体で! 乗っ取った他人様(ひとさま)の体で! ルミエラ・ローザ・ザイツェフェルトの体で!」


ルミエラはその空間に閉じ込められて幾度目かに絶望した。


「......わたくしの体が、汚された」


次期王妃として貞淑に、完璧に――そうあれと育てられ、己を律してきたルミエラに、それは耐えられることではなかった。

――もう、どうでもいいわ。

家族も婚約者も見限り、ただひとり孤独に生き延びてきたのは、ひとえに己を取り戻すため。盗人に汚された己が名誉と誇りを築き直す為である。

誰も気づいてくれない孤独の中、矜持と気概だけで生きていたルミエラにとって、首に手を回しはしたなく音を立てて口づける己の姿は、獣のものにしか見えなかった。艶めかしい声を聞いた瞬間、鳥肌が立った。

――もう、わたくしはわたくしに戻れない。

静かな絶望が体を覆っていく。視野が狭窄(きょうさく)し、ルミエラは意識を手放した。



***



目が覚めると、ルミエラは赤ん坊になっていた。

驚愕した。息苦しさに声をあげたら、それが産声だったのだから。

意識を取り戻したのは、ちょうど生まれた時らしい。盗人のように誰かの体を奪ったわけではないのだろうと分かり、ルミエラは僅かに安堵した。どうしても人の手を足りないとき以外は黙っていたため、使用人たちは赤子らしくないと気味悪がっていたが、中身は15歳まで生きた貴族令嬢だ、仕方のないことである。


驚くべきことに、ルミエラの兄が父に、義姉が母になっていた。ただし結婚と同時に兄はリラを愛人として迎えたためふたりの仲は冷え切っており、子供が生まれたことで愛人の家に入り浸るようになったそうである。

これ以上下がると思っていなかった兄への評価が下限を突破した瞬間であった。

かといって義姉も義姉で、夫を嫌うあまり夫の血を引く娘のことも気に入らないらしく、別に愛人を囲っていたから、基本的に面倒を見てくれるのは乳母と使用人であった。

長じるにつれ、ルミエラは天才令嬢として名を馳せるようになった。元より王妃教育まで修めたルミエラにとって、同じ年頃の貴族令嬢が学ぶようなことは児戯に等しい。あまりにも退屈だったので暗い空間で得た知識を基に新たな魔法を考案したり、航海技術の向上に関わったりと、精力的に活動した。

――よって、この現状はなんら不思議なところがない。


「ザイツェフェルト公爵が嫡孫ベルローズ、王太子殿下ならびに王太子妃殿下、第一王孫殿下に拝謁いたします。クラルヴァイン王国に更なる繁栄がもたらされますように」

「顔をあげて、ベルローズちゃん。わたしたちは叔母と姪ですもの、仲良くしましょう?」

「恐悦至極に存じます」


ルミエラが因縁の8歳を迎えた年である。この世で最も嫌悪している王太子妃こと盗人と、王太子こと元婚約者のアークレイド、そしてそのふたりの子供である第一王孫に拝謁した。

話題は勿論、婚約に関してである。血は近いとはいえ、これほどまでに優れた令嬢が他国に流れる前に囲い込んでおきたいというところであろう。


「――というわけで、我が息子の婚約者になってもらいたいと考えている」

「であれば公爵にお話しください。わたくしの意見は不要のはず」

「まあ、そんなことを言わないで。婚約者とは生涯を共にするのよ? 好いた方と一緒がいいじゃない」

「その通り。私もこうして最愛の妃を迎えられたのだから」

「まあ、殿下ったら......」


盗人は頬を赤らめている。どうやら第一王子への愛は薄れたらしい。呆れた売女(ばいた)である。


「勿論、ザイツェフェルト公にも打診するが、先にそなたの意見を聞いておきたくてな」

「左様でございますか」

「あっでも、いきなり言われても分からないわよね。そうだわ、ふたりで庭園を散歩してきたらどうかしら? オスカー、案内してあげて」

「はい、母上。ベルローズ嬢、行きましょう」


少し緊張した面持ちで差し出された手を何の感慨もなく見つめ、ルミエラはそうですね、と頷いた。


「ベルローズ嬢の噂は聞いています。とても優れた方であると、父上も母上も誇らしげに仰っておりました。僕も、ベルローズ嬢に早くお会いしたいと思っていたんです」

「左様でございますか」

「ベルローズ嬢の発明はすごいです。どうしたらあのようなことを思いつくのですか?」

「さあ。思い浮かんだものを形にしているだけですので」

「そうなんですね! これが才能なんでしょうね」


第一王孫は沈黙を嫌うようだった。絶え間なく何かを話し続けた。ルミエラが何ひとつ話題を提供しようとしないのも、原因のひとつだったかもしれない。


「......あの、僕はベルローズ嬢と婚約できたら嬉しいなって思ってました。ベルローズ嬢は僕と話すのは楽しくないですか?」


建物に戻る直前、泣き出しそうな顔で第一王孫は言った。もう6歳になろうと言うのに、これほどまでに感情の制御ができないのは如何なものかと思う。さあ、とルミエラは無感情に首を傾げた。


「誰と何を話しても変わりませんので」


第一王孫は心底意味が分からないと言いたげに眉を寄せた。

――結局、第一王孫とルミエラの婚約は結ばれなかった。


「ねえベルローズちゃん、どうしてあんなことを言ったの? オスカー、泣いていたわ。嫌なら嫌と、そう言ってくれたらいいのに。どうしてオスカーを傷つけるの」


ルミエラは王太子妃こと盗人に呼び出された。かつて見た王太子妃の私室は美しく高価な調度品で揃えられていたはずだが、盗人が私物を持ち込んだためだろう、幾らか野暮ったく庶民的に見えた。


「嫌と申し上げたつもりはありませんが、第一王孫殿下を傷つけたのであれば謝罪いたします」

「オスカーと話しても楽しくないって言いたかったのでしょう? 直接本人に言わなくてもいいじゃないの」

「そのようなことは申しておりません」

「だったらどういう意味なの?」


王太子妃にあるまじきことに、盗人は眉を寄せ感情をあらわにしている。外交の場でこれを出していないといいのだが。国の品位までが落ちる。


「誰と話していても楽しみを感じたこともありませんし、話題がなんであれそれは変わりません、と。そう申し上げたつもりでした」

「ベルローズちゃん、嘘は良くないわ。おしゃべりが楽しくないだなんて。ベルローズちゃんにもお友達がいるでしょう?」

「おりません」

「え......そんな、お友達がいないなんて......寂しいでしょう。お兄様に言って、誰かお友達を......」

「結構です。小公爵さまは愛人とその娘に構うのでお忙しいようですので」

「ベルローズちゃん!?」

「なんでしょうか」


ルミエラが述べたのはただの事実である。


「お兄様ったら、ベルローズちゃんにそんな思いをさせるなんてひどいわ。わたしからきつく言っておくから、安心してね」


結構です、と言いかけて飲み込んだ。どうせ断っても、盗人が暴走することは目に見えていた。ルミエラはカーテシーをして部屋を出た。

それから3日後、およそ半年ぶりに元兄である父が屋敷にやってきた。ノックもせずに部屋に押し掛けてきた無礼者は誰かと思えば父だったので、ルミエラは少々驚いた。


「――久しぶりだな」

「お久しぶりです、小公爵様。こちらにお越しになるのでしたら、ご一報いただければ――」


パシンッ、と頬が鳴った。体が傾き、床に崩れ落ちる。すべての音が遠のいて、息が詰まった。口の中に血の味を感じてようやく、殴られたのだと理解する。


「――王太子妃殿下に要らぬ口を聞いたそうだな」


床に這いつくばったままの姿勢でその声を聞いた。視界が揺れているが、それでもルミエラは立ち上がった。無様な姿など、見せてやるものか。


「事実を申し上げただけのことが要らぬ口と言われるとは思いませんでした。今後は参内を控えた方が宜しいでしょうか?」

「減らず口を叩くな――愛人とその娘に構うので忙しいと言ったとか」

「何か誤ったことを申し上げましたでしょうか」


父と娘の関係にあるはずだが、二者の間に漂う空気は温かなものとは程遠い。


「愛人など、王太子妃殿下の前で口にするな」

「失礼いたしました。情人、婚姻関係を結んでいない男女関係、と言い換えれば宜しいでしょうか」

「ベルローズ!」


怒声と真っ赤な顔を見ても、ルミエラは何も思わなかった。


「どこまでザイツェフェルト家を貶めれば気が済む」

「貶めているのはお父様では? 嫡子と庶子の年の差が1歳であることが知られたらどうなるのでしょうね」

「黙れ。お前が口を挟むことではない」

「失礼いたしました」

「今後、二度と王太子妃殿下に余計な奏上をするな。分かったか」

「承知いたしました」


元兄は足音を立てて出て行った。あれが父親であると思うと眩暈がした。



***



王宮附属の魔法院に呼び出されたルミエラは、足早に回廊を歩いていた。何しろここは盗人と盗人の夫が権勢を振るう場所である。家が安らげる場所であるとは思わないが、こんなところより幾分かマシである。

ルミエラは一度足を止めて深く息を吐いた。デビュタントも済んでいない8歳児とはいえど、王宮に参内するにはそれ相応の恰好がある。久しぶりの高いヒールで足が痛んでいた。周囲に悟らせるつもりはないので、庭園を眺めているふりをする。痛みが引いて再び歩き出した矢先、角で人とぶつかり尻餅をついた。


「済まない、大丈夫かい?」

「不注意でした、申し訳――」


人前で醜態を晒したという恥辱を胸の内に隠しながら顔を上げて、ルミエラは絶句した。


「靴擦れをしているようだね。手当てをしてあげよう」


結構です、と言いたかったが、喉はいたずらに鳴るばかりで、明瞭な声を発することが出来なかった。

王太子の腹違いの兄にして、盗人のかつての想い人。第一王子、リュディガー。

――もう、わたくしはわたくしに戻れない。

体を覆った絶望が、かつてルミエラがルミエラでなくなった日の記憶が、ひたひたと胸を浸食していく。目の前で穏やかに微笑む男が、けだものの顔に変わっていく。


「......令嬢? ザイツェフェルト嬢!」


黒い斑紋が視界に生じて、ルミエラの意識は閉ざされた。



***



「んっ.......ふあっ、リュディガー、様......」

「っ......ルミ」


これは夢だ、とルミエラはすぐに分かった。舌を絡ませる下品な水音と、荒い息遣い。互いを見つめる熱の籠った眼差し。

ルミエラの体が汚された日の情景だ。


「リュディガー様......お慕いしていました。最後に夢を叶えてくださって、ありがとう......」

「ルミエラ嬢......私はいつも、君を想っている。どんな時でも、君の味方になる。それだけは......どうか、忘れないでほしい」


盗人は小さく息を飲んだ。その目に涙が浮かび、頬を滑る。


「はい......はい。決して忘れません」

「――もう、行きなさい。アークレイドが待っているだろう」


名残惜しそうに抱擁を交わすと、ルミエラは教室を去って行った。

それからすぐに第一王子は卒業し、臣籍に下った。

けれど、この時の誓いが守られたことをルミエラは知っている。

あろうことかこの男は、死んだ人を恋うていると偽り、十年以上も盗人との約束を守って盗人を愛し続けているのだ。盗人が王妃になり、子を三人産んでも尚。

純愛だと、そう評する人もいるだろう。叶わぬ恋に身を焦がし、それでも一途に相手を思ったのだと胸を厚くする人もいるかもしれない。

けれど、第一王子にとって盗人は、弟の婚約者だった。盗人にとっての第一王子は、婚約者の兄だった。

たとえ双方がどれだけ相手のことを想っていたとしても、それは不貞に他ならなかった。

一言でいうならば、


「――気持ち、悪い」


発声と同時に目が覚めた。ぼんやりとした意識のまま瞬きを繰り返し、現状に思い至って飛び起きる。見知らぬ部屋だ。色に乏しいルミエラの部屋とは違って、植物の緑や絵画の色が鮮やかに映えている。


「――あっ、目が覚めた?」


背後から声をかけられて、ルミエラは思わず体と顔を強張らせた。驚かせたかな、と笑ったのは先程会議で会った女魔法使いだ。


「びっくりしたよ。さっき閣下がひょっこり現れて、意識のないあなたを置いていったの。置いていったって言っても、貴族子女の手当は同性の方がいいだろうって任されただけで、本人は外で待機してるんだけど」

「......そう、でしたか。失礼を、致しました」

「いいよいいよ、気にしないで。ちょうど暇してたところだし。それで、原因は?」

「......は?」

「だってザイツェフェルト嬢が倒れるなんて、よっぽどだよね。何かあったんでしょう?」


微笑みながら告げられた言葉に、ルミエラは口を引き結んだ。

魔法院には5歳を過ぎた頃から何度か出入りしている。これまで一度も失態を犯したことがない。ゆえにこの疑問も妥当だ。

――だが。


「――何も」

「え」

「何も、ありませんでした」


他の答えなど、あるはずもないのだ。



***



靴擦れの手当をしてもらうと、ルミエラは早々に部屋を出た。女魔法使いは送ろうか、と言ってくれたが、これは固辞した。付き添いがなければ歩けないと思われるのは癪だった。部屋を出た途端、忌まわしい男が視界に入り、咄嗟に頭を下げる。


「――ザイツェフェルト公爵が嫡孫、ベルローズと申します。閣下にご迷惑をおかけしたこと、お詫び申し上げます」

「頭を上げてくれ、令嬢。私こそ、驚かせて済まなかったね。怪我は大丈夫かい?」

「はい。ヴィーク卿が手当をしてくださいました」

「それはよかった。王宮の門まで送ろうか」

「お心遣いはありがたいですが、大丈夫です。ひとりで問題ありません。閣下は魔法院に御用がおありなのですよね」


臣籍降下し公爵位を賜った第一王子であるが、闇魔法という稀有な属性の魔法使いであるため、度々魔法院に来ていると聞いていた。これまで鉢合わせなかったのは、単に運がよかったのだろう。


「送っていくのはすぐだからね。足を怪我しているのだし、歩くのは大変だろう?」

「いえ、どうかお気になさらず。失礼いたします」


手当をしてもらったとはいえ、痛いものは痛い。表情には出さずに歩き始めたが、不意に手を掴まれた。


「目を瞑って」


魔力が動く。反射的に目を瞑り、次に目を開けた時、ルミエラは王宮の正門の前に立っていた。


「......え」

「ね? すぐだっただろう?」


ルミエラは呆然と周囲を見回した。転移したのだと気づき、目を見開く。魔法使いとしての興味が芽生えたが、相手はあの第一王子である。他の者であれば頭を下げて教えを乞うのだが、そもそも顔すら見たくなかった。


「この魔法、他に使える方はいらっしゃいませんか? 教えを乞いたいのですが」

「いないはずだよ。最近作ったばかりだから」

「......そうでしたか」


それもそうか。転移などという魔法を多くの魔法使いが使えるようになったら物流革命が起こる。


「まだ、人ふたり転移させるのがやっとなんだけれど......もしよければ、私が教えようか?」

「閣下の貴重なお時間をいただくわけには参りません」

「構わないよ。暫く都に滞在する予定だから」

「――結構です」


ルミエラは第一王子の顔を一瞥もせずに言い切った。


「お時間をいただきまして申し訳ありませんでした。それでは失礼いたします」


ルミエラは門の横に並ぶ馬車に向かって足を進めた。空の青さが目に沁みた。



***



時は巡る。ルミエラは10歳を迎えた頃、今の母が死んだ。昨年祖父母が死んだことに続く、突然の死だった。1年が経ち母の喪が明けると、即座に父は愛人とその娘を連れてきた。屋敷は騒がしくなったが、基本的にルミエラは用がなければ部屋から出ないので数日は会わずに済んだ。とはいっても数日である。魔法院に再び行く用事があって昼時に部屋を出ると、昼餐室の前で3人と鉢合わせた。


「いたのか」

「はい。閣下におかれましてはご機嫌麗しく」

「挨拶せよ。今日からお前の母になるリラだ」

「は、初めまして、わたし、リラといいます!」

「初めまして。ベルローズと申します」


かつて見たリラという女は、一切成長せずに年だけ取ったようだった。その娘は、父譲りの青い髪と女譲りの紫の目をしており、顔立ちは女に似ていた。母譲りの水色の髪、父譲りの金の瞳を持つルミエラとは、まるで似ていない。


「ベルローズちゃん、よろしくね。わたしをほんとうのお母さんだと思ってくれたら嬉しいわ。こっちは娘のヴィオレット。仲良くしてあげてください」

「初めまして、ベルローズ様。ヴィオレットと申します」


挨拶を受けて、ベルローズは目を細めた。てっきり父や愛人のようなお花畑の住人かと思っていたが、カーテシーは見苦しいところがなく、ベルローズを姉とも呼ばなかった。


「わたくしは一度も公爵閣下を父と思ったことはございません。いないものとして扱っていただければ結構でございます」


微笑みながら言うと、呆気に取られたように愛人は口を開け、父は不愉快そうに眉を寄せ、ヴィオレットは俯いた。


「それでは失礼いたします」


宣言通り、ルミエラはこの3人家族に近づこうとはしなかった。お花畑の住人とは、会話するだけで疲れるものである。唯一、ヴィオレットはルミエラに気づくと略式ながらも礼をし、必ず敬語で敬称をつけて話すため、彼女との時間は苦ではなかった。

そうして1年が経ち、ルミエラは貴族学園に入学した。

王妃の姪にあたるルミエラは同学年の中で最も高い地位であるため、すり寄ってくる者が後を絶たなかった。目に見えて御機嫌取りをしようとしてくる者たちは、家の付き合いで必要な者だけを傍に残し、後は遠ざけた。


「ザイツェフェルト様、中庭の紫陽花が見頃だそうですよ。今日はそちらで昼食を食べませんか?」

「......いい考えですわね。そうしましょう」


中庭の中央には大木が生え、中庭の外縁には四季折々の花々が植えられている。春にはバラや桃の花が咲き誇っていたそこは、今はすっかり装いを変えていた。


「美しいですわね」

「ええ、ほんとうに。秋にはコスモスが咲くと聞きましたわ。またその時期に来てもよいかもしれません」


中庭のベンチに腰を下ろし、たわいない話に花を咲かせる。笑顔を絶やさなかったが、ルミエラの心は沈んでいくようだった。

盗人はこの中庭を好んでいた。毎日のように攻略対象たちとお茶をしていたものである。はしたなく声を上げて笑い、手ずから花を摘む情景を否が応でも思い出した。

至るところに盗人が見た情景があることが、ルミエラを常に苦しめた。


「ザイツェフェルト様は今日の放課後はどうなさいますか?」

「今日は何の予定もございませんわ。皆さん、お時間がおありでしたら、カフェにでも行きましょうか」

「まあ、嬉しいですわ! 是非御一緒させてくださいまし」


放課後は時と場合によって使い道を分けた。魔法院や王宮からの呼び出しは仕方のないことであるから、それ以外の時間を如何に有意義に使うかに心血を注いだ。取り巻きとの交友関係の維持のために定期的にお茶をし、買い物をし、家庭不和を囁かれないために、理由をつけて早帰りをした。そうでない時は閉館時間まで図書館に籠り、これまで学ばなかった分野にも目を向けた。数学やら物理やら、学術的に難しい内容に頭を悩ませる日も多かった。


そうして1年が経ち、異母妹ヴィオレットが学園に入学した。

その生い立ちから、ヴィオレットには好奇の眼差しが注がれた。ルミエラはザイツェフェルト家に不穏な噂を立てないため、共に登校し、定期的にヴィオレットを食事に誘った。学園内ではお姉様、レティ、と呼ぶことが暗黙の了解となったが、家では相変わらずベルローズ様と呼ばれた。


「――あの、お姉様」

「何かしら、レティ」

「.......どうか、ご無理をなさらないでください」

「あら? 何のことかしら。わたくしは無理なんてしていなくてよ」


ルミエラは意味が分からず首を傾げた。ヴィオレットは表情を取り繕うことも忘れたのか、必死の様子で言い募る。


「ですが、いつ見てもお休みされていません。確かにザイツェフェルト家の嫡女としてお忙しいのだろうと推察しますが、それでもいつか休まねば、疲れ果ててしまいます」

「まあ......わたくしを心配してくれるのね。ありがとう。けれどほんとうに大丈夫よ、わたくしはやりたいことをやっているだけなのだから」

「......ほんとうにそうですか?」


小さな声だった。向かい合って座っていても尚、耳を澄ませていなければ聞こえなかっただろう。


「私は――お姉様の心からの笑みを、見たことがありません」

「――…………」


ルミエラは微笑みを保ったまま黙り込んだ。


笑い方など、もはや覚えていなかった。


時は流れる。ルミエラが14になってようやく、婚約者が選ばれた。相手は、13歳年上の、ふたつ西の隣国の皇太子だった。

側室制度を設けている我が国と違い、あちらの皇帝と皇太子はそれぞれ後宮を持つという。その国は魔石の産出が多く、婚約に伴って拡張された貿易には利益が多い。とはいえ、既に妻子を抱える男の妻に王太子妃の姪を、天才魔法使いを差し出すことには、幾らか王宮で議論されたらしい。反対派が多かったそうだが、父が強引に決めた。ルミエラを視界の外に出すためだろうと、容易く想像がついた。

あちらからの要望で、婚姻は2年後となった。貴族学園を卒業出来ないと聞いても、ルミエラは何も思わなかった。

デビュタントも済ませ、穏やかに日々を過ごしていたある日、盗人こと王太子妃から参内命令が下った。

季節は春めき、嫁入りまで残すところあと1年であった。


「――ザイツェフェルト公爵が嫡女ベルローズが、王太子妃殿下に拝謁致します。クラルヴァイン王国の月に栄光あれ」

「堅苦しい挨拶はいいわ、顔をあげてベルローズちゃん」


王太子妃こと盗人は、悲しそうな顔をしていた。


「最近アスガルド帝国では政変があったそうなの。末の皇子が他の皇族を皆殺しにして位についたとか……婚約がどうなるか分からないけれど、もしも続行されるようだったら、ベルローズちゃんの身がどうなるか、分からないわ。だからわたし、反対したのよ。でも、お兄様はそんなに残虐ならば、約束を違えたことを理由に攻めてくるかもしれない、なんて仰って」

「左様でございましたか」


哀れんでいるのだな、とすぐに察しがついた。確かに、普通の令嬢であれば思うところがあるかもしれない。


「ベルローズちゃん、嫌なら嫌と言ってちょうだい。元の約束は皇太子だから、とか、学園を卒業するまで待ってほしい、とか、わたしにもできることは少しはあると思うから」

「ありがたいお言葉ですが、どうかこのまま送り出してくださいませ」

「どうして! 確かにオスカーとの婚約は結べなかったけれど、それでもベルローズちゃんがわたしの可愛い姪であることには変わりないのよ。どうか頼ってちょうだい」

「わたくしはこの婚約に対しなんら思うところはございません。クラルヴァイン王国の臣民として責務を果たす所存でございます」

「ベルローズちゃん、ここでは大人にならなくてもいいのよ。国を離れるなんて、寂しいでしょう。しかも、夫となる方がああも残酷な方だなんて、受け入れるのは大変なはずよ。少しくらい、我儘になっても大丈夫よ」


オスカーから聞いたわ、と必死の面持ちで盗人は続ける。


「最近は、ヴィオちゃんとも仲良くしているんでしょう? 学園での友達も多いみたいだし......悲しい気持ちに蓋をしなくてもいいのよ。婚姻は貴族としての義務だから、ってお兄様は言うけれど、ある程度心を通わせた方との方がいいじゃない。ベルローズちゃんが悲しんでいるだろうと思うと、わたしも胸が塞がって......」

「悲しんでおりませんのでお気になさらず」

「嘘は良くないわ、ベルローズちゃん」

「嘘は申し上げておりません。わたくし、誰に対しても親愛の情を抱いたことはありませんので、悲しく思う術がございません」


盗人は目を見開いてルミエラを見つめた。次第にその瞳に涙が浮かぶ。


「そんな悲しいことを言わないで。ヴィオちゃんもお友達も悲しむわ」

「事実を申し上げたまでです」

「そんなわけはないわ! 誰にも情がないなんて、それじゃあただの生ける屍じゃない」


生ける屍。

その言葉を聞いた瞬間、ルミエラは瞠目した。暫しの沈黙の後、喉から零れたのは笑い声だ。声を上げて笑うルミエラを、盗人は驚いたように見ている。


「――ええ、その通りね」


なるほど的を射た言葉ではないか。やりたいことも好きなことも何もなく、ただ義務だけに生かされている。あの暗い空間にいた時から何も変わらない。

生きる意味などないことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

なぜ、こんな生にしがみついているのだろう。かつて奪われた己に跪きながら、生ける屍と嘲笑われながら。親しい人も恋しい人もなく、好きな物もないこの生に。

――なぜ、わたくしは生きようなどと思っていたのだろう。


「ほんとうに、なぜかしら」


なぜ、なのだろう。

なぜ、ルミエラとこの女だったのだろう。

なぜ、生まれ変わっても尚、この女に出会わなければならなかったのだろう。


「――ねえ、五十嵐 瑠美。お前は、一度でも8歳まで生きたルミエラのことを考えたことがあって? 己の体を乗っ取られ、誰の声も届かず、誰の目にも映らず、お前から離れることもできず、己の体で行われる不貞を、愚行を、止めることもできなかった娘のことを、知ろうとしたことはあって?」

「.................え?」

「――あるわけがないわよね」


盗人は随分間抜けな顔を晒していた。ルミエラは口元に笑みを浮かべる。問うても詮無いことであった。


「さようなら、盗人」


ルミエラはカーテシーをしてその場を後にした。僅かな沈黙の後で絶叫が響き渡った。


王太子妃が錯乱し、バルコニーから転落して亡くなったのはその日のことだった。


王宮の使いが事情聴取のためザイツェフェルト公爵家の邸宅を訪れたが、令嬢ベルローズの姿はどこにもなかった。


遺体は、今に至るまで見つかっていない。



***



王国歴218年、王太子妃ルミエラ・ローザ・クラルヴァイン自害。


王太子妃ルミエラは慈悲深く、また数々の優れた発明をしたことで、民からも貴族からも慕われていた。彼女の突然の自死に、家族のみならず、国民全員が悲嘆に暮れた。

なぜ、彼女は自ら死を選んだのか。

当時彼女は33歳。相思相愛の夫と可愛らしい3人の子供に囲まれ、幸せ真っ只中であった。綿密な調査の結果、自害であろうということが分かっても、周囲の人々はなかなかその事実を飲み込むことができないでいた。原因究明が急がれる中、王太子妃の私室から日記が見つかった。しかし穏やかな日常が記されているばかりで、何が彼女を自死に追い詰めたのかは判然としないままであった。

一方で、不思議なことが判明した。

なんと、8歳から王女誕生の直前までの日記に、未確認言語の記載が認められたのだ。これは8歳以前の日記には見られないもので、見たこともない文字の系統や書き方に、言語学者たちは首を捻った。

王太子は、ルミエラが8歳のある日を境として、人が変わったように(・・・・・・・・・)穏やかでお人好しになったことを思い出した。これは何かしらの意味を持つと王太子は直感し、未確認言語の解読を急がせた。

同時に、自害当日王太子妃に拝謁していた彼女の姪、ベルローズに召喚命令を下したが、ベルローズは行方知れずとなっていた。王太子はベルローズが何かしらの暴言を吐いて妻を追い詰めたものと断定し、彼女を指名手配して国中を捜索させたが、彼女の姿はどこにもなかった。


十年が経ち、王太子妃を失った悲しみが薄れてきた頃、日記に記されていた未確認言語の解読がついに完了した。王として即位したかつての王太子は喜んでこの調査結果を受け取ったが、以降、賢王として慕われていた彼らは暴君に変貌した。

初めに、言語学者らを一人残らず殺した。この暴挙に貴族も平民も恐れおののき反発したが、王は顔色ひとつ変えず、匿った者をも含めて殺し尽くした。

次いで亡き王太子妃が開発した品々の生産停止を命じた。この理不尽な命令に反発した者は、皆処断された。

更に、亡き王太子妃と共に訪問した地に対し、他の土地との交易を禁じた。自給自足ではない土地柄が多く、1年が経つ前にその土地の者は反旗を翻したが、王に逆らった罪で焼き尽くされた。

王の所業に驚き、諫めた心ある貴族は皆、降格されたり爵位を取り上げられた。父王の変貌に心を痛めた王子はかつてのお心を取り戻してくださいと訴え、幽閉された。双子の王女は兄王子を解放してほしいと願ったが、婚姻を目前としていた両者は修道院に送られ、婚約も破棄された。

とどめに、王妃の生家であるザイツェフェルト家を皆殺しにし、自らの兄王子を手にかけた。亡くなった王太子妃に関連するものをすべて焼き払い、自らも首をくくった。

幽閉された王子は精神を患ってしまったため、王位継承をかけてクラルヴァイン王国は動乱の時代に突入する。


これは最後の王太子妃になるはずだった少女を描いた、回顧録である。





連載版「わたくしは悪役令嬢になれなかった」もあります。

ちょっと加筆&番外編が足されています。読んでいただけると嬉しいです。

https://ncode.syosetu.com/n3396lg/

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― 新着の感想 ―
どちらも拝読しました。ルミエラ(真)はどうなったのでしょうか… やはりヴィオレットや各々のその後が気になりますし、オスカー王子は哀れに見えました
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