9.公爵邸と護衛騎士と馬車
踊るような足取りでフィンを先導しながら、イーリスは例によって小離宮群の方へ向かう。
昨日、亜麻色の髪を見送ったあの木立の向こうには王宮の城壁があった。その石壁にそって五歩移動したイーリスが小さな石をぐっと押すと、近くの大きな石が内側へ向けて滑るように開いた。
「隠し通路か」
「はい」
にこにこしながらイーリスがフィンを差し招く。
屈んでくぐった先にあったのは、人ひとりが通れるほどの幅を持った空間だった。二重壁の中空を利用して作った隠し通路なのだろう。王族が王宮から逃げるために作られたものか、もしかすると小離宮群に暮らしていた女性たちがひっそりと使っていたものなのかもしれない。
両側は厚い石に囲まれているために外から気づかれることはなさそうだ。途中にはひび割れに擬態した換気口や、狭い明り取りが点々と設けられており、そこからわずかに夜気が入り込んでくる。
先を進むイーリスの足取りに迷いはなかった。音を立てない歩き方も慣れたものだ。よく見るとドレスの裾は歩くのに邪魔にならない長さになっているし、靴のカカトが低いのだって歩きやすさを重視した結果だろう。
きっと彼女にとって小離宮群との往来は日常の一部になっているのだ。
苦笑しつつもフィンは戦場で培った歩き方で後に続く。
曲がり角をいくつも越え、石段を降りる。土と苔の匂いが濃くなる中を進んで行くとその先は行き止まりだ。しかしイーリスが手を何番目かの継ぎ目にあてると、また石が動いて扉になった。開いた先からは清々しい風が流れ込む。外だ。
草を踏んで一、二歩進み、腰を伸ばしたフィンが背後を見上げると、そそり立つ城壁の上からは見張り塔が確認できた。どうやら王宮の裏手側にあたる木立に出たようだ。体をひねると反対側には石造りの立派な屋敷がそびえている。
「あれは?」
「うちの屋敷です。ね、近いでしょう?」
確かに近い。この距離ならば、イーリスが気軽に王宮へ出入りしているのも当然だ。
「さ、殿下。こっちですよ」
木立の先にある建物は夜の空を背景にして白く浮かび上がり、堂々と立っていた。数多く配置された窓からは明かりが漏れ、行き来する人の姿が見られる。
イーリスは側面へフィンを案内した。公爵邸にも石組みの壁があり、先ほどと同じように隠された入り口があった。ここまでくると驚きよりも「やはり」という気持ちにしかならない。
小さな庭を進むと、屋敷に寄り添うようにして並ぶ建物が見えた。使用人たちが住む場所のようだ。
イーリスはその中も端にある窓を軽く叩いた。揺らめく人影がカーテンを開けた。
姿を見せたのは栗色の髪を三つ編みにまとめた娘だった。年齢はイーリスと同じくらいだろうか。眉を寄せながら窓を開いた彼女は、イーリスを見つけてさらに眉間のしわを深くした。
「どうしました、お嬢様?」
「ハンナ、馬車を出してください!」
「またですかー」
ハンナと呼ばれた彼女は、過剰なまでに大きなため息をつきながら肩を落とす。
「今月はもう四回目ですよ。勘弁してください」
「いいじゃないですか。それに今日は特別なんです!」
「何が特別なんです? まさか『特別に胡散臭い呪具でも出品される日だから』、なーんておっしゃいませんよね?」
「言いませんよ。あのですね、なんと今日は特別に、こちらのかたがご一緒してくださるんです!」
胸を張ったイーリスが「じゃーん!」と言いながら斜め後ろのフィンを手で示す。その動きを追ってハンナはフィンに胡乱な目を向け――極限まで見開いた。
「え……っ? えっ、え、あ、あのっ」
言いながらなぜか彼女はじりじりと後退り、窓枠から離れた。
「まっ……まさか……フィン殿下……!?」
「ああ、そうだ。私を知っているのか」
「もももももちろん存じあげておりますとも!」
ハンナは何度も首を上下させつつ答える。あんな妙な動きをして、筋を痛めてしまわないかと少々心配になるくらいだ。
「軍人なら誰もが憧れる“黒獅子殿下”! わわわわ、わ、私、辺境からお戻りになる殿下をどうしてもお迎えしたくて! 先日のご帰還の際には前の夜から大通りの前列に陣取っておりまして! 黒い馬に乗った殿下の凛としたお姿を拝見したときにはあまりの嬉しさに卒倒するかと思うくらいで、あ、あ、あの日が人生で一番幸せだと思ったのですが、撤回! 幸せなのは今! 殿下をこんな間近で拝見できたばかりか、お言葉までかわすことができた今が一番幸せ! 最高に幸せ!」
まくしたてるハンナの表情は、イーリスが呪いの話をするときのものによく似ていた。
「お嬢様! 馬車ですね! 今すぐ用意してまいりますよ! すぐですよ! すぐですからね!」
そうしてハンナは腰に剣をさげると、疾風のように部屋から去って行く。
「ハンナは騎士なんです。とっても腕が立つんですよー」
のんびりとしたイーリス言葉は、ほんの少し、今の状況の説明にそぐわない気がした。
◆
ハンナが用意したのは古びた外装の荷馬車で、外から見ているだけでも想像以上にガタガタと揺れている。これはうっかりすると舌を噛んでしまいそうだ。
まがりなりにも公爵家の令嬢が使うようなものではないと思うのだが、イーリスによるとこれは「わざと」らしい。
「行く場所は町中ですからね、目立たないようにする工夫です!」
御者はハンナが務めてくれる。
まずイーリスは荷台にあがり、隅から古びた灰色のマントを取り出した。足首までを覆う丈の長さで、フードも付いている。どうやらきらびやかなドレスを隠すためのものらしいが、布をめくれば簡単に裾が見えてしまうだろう。着替えた方が安全ではないかとフィンは思ったが、イーリスは「構わないんですよ」と答えた。
「あそこでは互いの素性を詮索しないものですからね」
後ろ暗い場所にいるもの同士なのだから不干渉でやりすごすのが礼儀、ということか。
ただしだからといって馬鹿正直に素性を晒して歩くものではないはずだ。
そう思って軍服の上着を脱いでいると、イーリスがもう一枚、灰色のマントを出してきた。予備として置いてあったものだという。
礼を言って羽織り、フィンは唸る。
「……小さいみたいだ」
「でもよくお似合いですよ!」
半ばケープのようになってしまったマントが似合うと言われて嬉しいかどうかは分からない。ただ、一応は褒めてくれているようなので、フィンも素直に「ありがとう」と言って受け取っておいた。




