7.王子と聖女
小離宮群から王宮の中心へ近づくにつれ、フィンは何やら妙な空気に気づいた。廊下を行き交う使用人たちが普段よりも慌ただしく見えるのだ。
もっともフィンが王宮に戻ってまだ六日。彼の「いつも」という基準はこのわずかな日数と、十六歳以前の記憶でしかない。比較するには心もとないのだが、それでも人々が落ち着きを失っている気配があるのは確かだ。
――舞踏会で何かあったのだろうか。
そう思った矢先、廊下の向こうでひとりの使用人がこちらを見て「あっ」と声を上げた。
「フィン殿下がおられた!」
その声を皮切りに使用人たちがばたばたと集まってくる。「良かった」「皆にも知らせを」と叫ぶ中に女性の姿はない。フィンがひそかに胸を撫でおろしたところで、ひときわよく通る声がざわめきをかき消した。
「フィン!」
振り向くと、上品な灰色の衣装に身を包んだ人物が数人の騎士を従えて足早に寄ってくるところだった。フィンは焦りと共に叫ぶ。
「兄上、走ってはいけません!」
声に応じて足を止めた兄は一瞬目を見開いたのち、慈愛の笑みに一片の苦みをまぜる。
「お前の中にいる私は、今も病弱なままなんだね」
そう言いながらも弟の心を慮ってか足取りを静かなものに変える。
彼こそがノイマン王国第一王子ロレンツ。四歳違いのフィンの兄だ。
ロレンツは生まれつき病弱だった。フィンにとって兄というのは、青白い顔をして寝台で横になっているか、あるいは椅子に座って静かに本を読んでいるか、そのどちらかだった。しかし先日五年ぶりに会ったときも、今も。ロレンツは頬に血色を宿しており、確かに健康そうだ。
近くまで来た兄を見てフィンは「本当に良かった」と思いながら体の力を抜いた。一方で対照的に兄は笑みを消し、ぐっと眉を上げた。
「それよりも、フィン。お前は今までどこにいた? ――今回の舞踏会は五年ぶりに戻ってきたお前のために父上が力を入れて催したもの。それなのに舞踏会が始まってもお前は姿を見せない。父上も、私も、どれだけ心配したと思っているんだ」
ロレンツの声は静かだが、空気を重くするような迫力があった。それでフィンはようやく自らの過ちに気づく。
辺境伯領に滞在していた後半の二年、フィンは舞踏会に一度も出席していない。呪いのせいで女性と踊ることはできないし、もし誤って触れたときは相手にも痛みを与えてしまうからだ。
やがて「殿下は女嫌い」という噂が立ちはじめると、フィンが舞踏会に出ないというのは暗黙の了解になっていた。
だが、ここは辺境ではない。王宮だ。しかもフィンは長い辺境暮らしを終えて帰還したばかり。まずはきちんと舞踏会に顔を見せる必要があった。そのうえで何か理由をつけて退出するべきだったのだ。呪いを解き、「女嫌い」という噂を返上するつもりでいるのなら尚更に。
――それに、父。
王都へ帰還後、玉座の前で帰還の挨拶を述べようとしたフィンの言葉を父王はさえぎった。そうして立ち上がり、段を降りてフィンを抱きしめると、「未だ戦火くすぶる辺境から、よく無事に戻った……」と嗚咽を漏らしたのだ。
そこにあったのは“王と王子”ではなく、父と息子”の姿だったはず。
父はそれほどまで帰還を喜んでくれていたというのに、自分はなんという失態を犯したのか。
フィンは居住まいを正し、一度迷ってから口を開く。
「……申し訳ありません。騎士団の訓練が終わったあと、大広間へ向かおうとはしていたのです。ですが廊下で怪しい影を見つけ、つい追ってしまいました。幸い不審者ではありませんでしたが、この機に警備の薄い場所がないか調べようと王宮内を歩き回っているうちに、時間が過ぎてしまったのです」
舞踏会を無断で欠席しただけでも後ろめたいのに、嘘までつくのは心苦しい。けれど「自分には女性に触れられぬ呪いがかかっているため、解除法を探るべくバルツァー家のイーリスと秘密裏に検証を重ねていたのです」とは、さすがに言うことができなかった。
ロレンツはしばし無言で弟を見つめ、それからふっと微笑む。
「さすがは勇猛果敢で知られる“黒獅子”だな」
どうやら嘘を信じてくれたようだ。
しかしロレンツはすぐに声音を厳しいものにする。
「けれど、誰にも何も言わず姿を消すのは良くない」
「はい」
「父上はお前の婚約者を見つけようと張り切っておられるから、また近いうちに舞踏会は開かれるはず。……今度はきちんと出席するんだよ。いいね?」
フィンは返事が出来なかった。ロレンツの言葉にまざった意外な単語が頭の中で反響し、他のすべてをかき消してしまったからだ。
――婚約者。
二十一歳になったフィンに婚約者がいてもおかしくはない。むしろ遅いくらいではある。しかし。
「あの……私の婚約者ですか? 兄上のではなく?」
驚いて目を見開くフィンに、ロレンツは穏やかな笑みを崩さず答える。
「お前のだよ」
「ですが兄上にもまだ婚約者はおられませんよね。なぜ父上は私の婚約者を? もしや兄上には既に決まった方がおられるのですか?」
「いいや、いない」
「では」
どうして自分なのか、と更に言い募ろうとしたところで、廊下の奥がさわがしくなった。国王の一団が到着したのだ。周囲を鎧の騎士に守られた中央に、豪華な深緑の衣装をまとった父王の姿がある。
彼の顔に浮かんだのはまず安堵だ。しかしそれは次の瞬間に厳しいものへと変わった。
鋭い視線に射抜かれたフィンが片膝をつき、首を垂れると、上からは重さすら感じるほどの声が降ってきた。
「第二王子よ、今の状況はお前の行動が引き起こしたものだと分かっているな?」
は、とフィンはまず短く答える。
「兄上からの叱責は深く胸に刻んでおります。陛下からのお咎めも、謹んでお受けいたします」
王は短くうなずく。
「その覚悟があるのならば良い。――今回はお前を探すため、聖女殿の力も借りようとしていたのだ」
その言葉にフィンは顔を上げ、父の後ろに立つクラリッサにようやく気がついた。彼女はランプの光で黄金の髪を輝かせながら前に進み出て来る。
「私へのお気遣いなど必要ありませんわ。何もしておりませんもの」
手を差し伸べるクラリッサがごく目の前にまで来た。このままではフィンに触れてしまう。
フィンはとっさに立ち上がって身を引いた。呪いの発動を知られるくらいなら、周囲にフィンの行動を怪しまれた方がよほどいい。
周囲の人々が微かにざわめく。
しかし当のクラリッサに気分を害した様子はない。
「まだその遊びをなさっておられますのね」
そう言って笑い、
「フィン殿下がご無事で何よりでしたわ。御身に何かあったのならどうしようと、国王陛下はずいぶんとお心を痛めていらっしゃいましたのよ。それに――ロレンツ殿下も」
ゆったりと首を巡らせて瞳にロレンツを映す。一方でロレンツはいつものあたたかな笑みを浮かべ、優雅に頭を下げた。
「わざわざ来てくれてありがとう、クラリッサ」
「大したことではございませんわ」
麗しいふたりが笑みをかわす光景は完成された絵のように美しい。誰かが漏らす溜め息さえ聞こえた。
だが、フィンの胸には言いようのない違和感が湧きあがる。
――いったい、何に違和があるというのだ?
考えても答えは出てこない。
◆
フィンはこのまま王の部屋へ同行を求められた。そこで待っていたのは深夜まで続いた叱責と、「明日は軍務だけでなく政務の場にも出席するように」との言葉だった。
フィン自身は軍人として国の役に立つつもりでいるが、自身の“王子”という立場も忘れたことはない。
いずれ兄が王となったときに補佐をする可能性もあるのだから、政治のことも知っておくべきだ。
父の通達をフィンはそう理解し、承諾の返事をした。




