3.秘密の実験室
先を行くイーリスの歩みに迷いはなかった。
どこへ行くのだろうと思いつつフィンが後をついていくと、やがていくつかの建物が見えてきた。
フィンは王宮内の見取り図を思い浮かべる。
「もしかして目的地は小離宮群のどれかなのか?」
言ってみると、イーリスは振り返ってニヤリと笑った。
「当たりです」
小離宮群とは、王宮の西側に並ぶ九つの離宮の総称だ。好色で知られた五代前の王が、三十人とも四十人ともいわれる妻妾たちを住まわせるために築かせたと伝わっている。
ただし建物の規模はまちまちで、中には四部屋しかないものもあった。そのような小規模な建物は「離宮」と呼ぶにはそぐわないが、同じ時代に造営されたことから建物はすべてひとまとめにして「小離宮群」と呼ばれている。
王城からは少し距離があるため今ではほとんど使われず、中には物置と化している離宮もあるのだが、それでも警備兵や管理官は置かれている。果たしてどうするのだろうと思っていたところ、立ち止まったイーリスは正面の木立を指さした。
「少し歩きづらい道を行きますね」
イーリスは木立の中に入る。
陽も落ちかけている今、周囲は暗く見づらい。しかし彼女の足取りに迷いはなかった。周囲の状況をきちんと把握できるほど頻繁に来ているのだろうか。
やがて彼女はひとつの建物の裏手で足を止める。
「はい、到着です!」
辿り着いたのは、小離宮群の中でも最も西寄りに建つ一棟だった。周囲は他の建物よりも木々が生い茂っており、まるで森の中に隠れているかのようだ。
「ずいぶん緑が多いな」
フィンが言うと、イーリスは意味ありげに「ふふふ」と笑った。
「私のひいお祖母様が、少しずつ植え足していったんだそうです」
「うん?」
イーリスの曾祖母こと先々代のバルツァー公爵夫人は、フィンの曽祖父――先々代国王の妹にあたる人物、つまりは元王女だ。王宮内の状況に詳しくてもおかしくはない。だが。
「どうして夫人は、わざわざここに木を植えたんだ?」
「中に入ったら分かります」
言いながらイーリスは身を屈めて壁を探り、ランタンを取り出した。中には白い石がおさめられている。イーリスが石を弾くと、ぽっと淡く輝いた。
星灯石だ。
火を使わないこの明かりは煙も煤も立たない。裕福なものたちがこぞって欲しがる明かりだった。
そうしてイーリスは星灯石のランタンを掲げ、ひっそりと現れた裏口へ手を伸ばす。
鍵はどうするのだろうかと不思議に思うフィンの前で、イーリスはブレスレットの飾りを鍵穴にさしこむ。少し動かしたかと思うと、あっさり開けてしまった。
「ささ、見張りの兵が来ないうちにどうぞ」
彼女がニコニコと中を示すので、フィンは苦笑しながら身を屈めて扉をくぐった。
記憶によればここは物置として使用されている離宮だ。置かれているものは祭具が中心、頻繁に取り出すようなものではないので人の出入りも少ない。掃除の間隔は開きがちになるだろうし、さぞ汚れているのだろうと思ったが、中はフィンの想像と違っていた。
壁紙には染みもカビも見当たらず、床の木も剥げたり腐ったりなどはしていない。
よく見れば廊下の隅にはうっすらと埃が積もっているし、窓辺のカーテンもくすんでいるが、この程度なら「住もう」と思えばすぐにでも住める範疇に入る。
「綺麗だな」
意外な気持ちで言うと、背後で扉を閉めたイーリスが言う。
「汚れすぎていると、使うとき困りますから」
「まさか君が掃除をしてるのか?」
フィンとしては『高貴な令嬢と掃除』のふたつが結びつかなくて驚いたのだが、イーリスにとっては特にどうということもないらしい。気負いも謙遜もなくうなずいて、
「『暇なときに誰かが軽く掃除しているんだろう』と思わせる程度の仕上げって、なかなか難しいんですよねー」
などと言いつつ先に立って進んで行く。どうにもいろいろな意味で型破りな令嬢だ。
廊下の左右には五つずつ扉が並んでいて、どれも同じ意匠の真鍮のノブがついていた。先に立って歩き出したイーリスは奥から二番目、東向きの扉を選んで開ける。
そこは薄暗い部屋だった。壁際に据えられた棚には、古びた燭台や宝石のはまった杖などがきちんと並べられている。どれも埃はかぶっておらず、長く放置されているわけではないようだ。
棚のひとつへイーリスが進んだので、フィンはここが目的地かと思った。しかし彼女の用は棚の縁に掘られた鳥の飾りにこそあった。細い指が順番に押していくと、かちり、と小さな歯車の噛み合う音がして取っ手が現れる。それを引くと棚がせり出してきた。奥の壁は左右に分かれており、人ひとり分が進めるほどの隙間が見える。
そこは何もない、がらんとした灰色の空間だった。ただしイーリスが床の端を持ちあげると、下へ向かう階段が現れる。隠し部屋に隠し階段とは、ずいぶんと念入りに秘匿された場所のようだ。
「こちらへどうぞ」
フィンが近寄ると、階下からはかすかな香草の匂いがした。
階段はイーリスでも腰をかがめなければならないほどの高さしかなかったので、ほとんどしゃがみ込む羽目になったフィンはこの先の高さを危惧したが、降りきってみると先の空間は意外にも高かった。これなら背伸びをしても平気だ、とフィンは胸を撫でおろす。
イーリスは壁に掛かっているいくつかのランタンを点していく。柔らかい光が室内に満ちたとき、フィンは思わず「ほう」と声をあげた。
右手には薬草の入った瓶が規則正しく並んだ棚が、左手には多くの本が並んだ書架が、向こう側の壁際には指輪や腕輪といった装飾の類から、鈴や羅針盤、果ては小さな額縁や精巧な人形まで、一貫性のない雑貨が所狭しと並ぶ棚があった。後ろの壁際にはくるくると丸めた大きな紙が、何枚も壺に入って壁に立てかけられている。
先ほどのからくりといい、この部屋といい、古さからすると最近のものとは思えない。作ったのはおそらくイーリスの曾祖母だろう。
仕上げとばかりにイーリスが、階段横にあるハンドルを回した。天井近くで小さな音がして、外の空気が流れ込んでくる。通風孔だ。
「ようこそ殿下! ここが先ほど申し上げた面白い場所、私がひいお祖母様から受け継いだ“呪いの研究室”です! 殿下は私が招待申し上げた最初の被検者ですよ!」
「……被検者?」
「いえいえ、お客様です」
とってつけたような調子で言い、イーリスは机の中央に置かれた小さな鈴を摘み上げる。すぐそばには書き込まれた紙が広げられており、末尾で踊るように大きく書かれた「新発見!」の文字が印象的だった。
「殿下の呪いは“触れられない”という、非常に曖昧な性質を持っています。ですから、ひとつずつ条件を検証していきますね。発動の仕組みや作用を比べていけば、必ずどこかに式や起点が見えてきます。そこから呪いを解く道が開けるはずですよ!」
よく分からないが、フィンは曖昧にうなずく。
先ほどの嘘「触れられないのは『女性のみ』」が露見してまったときのため、早急に誤魔化しの言葉を考えておくべきだろうと思いながら。
「まずは『使用すると呪いが発動する品』を――呪具を使って、呪いの発動状況を調べてみましょう! どんな結果が出るのかとても楽しみですね!」
満面の笑みで両手を広げるイーリスの手のひらで鈴が転がり、何かの合図のように、りりん、と澄んだ音をたてた。




