余話:別れたあとのイーリス
小離宮群までフィンを送り届けたイーリスがハンナと共に公爵邸へ戻ると、馬車は既に先ほどの場所にはなかった。どうやら誰かが片付けてくれたらしい。
「はあ……フィン殿下……最高だった……遠くから拝見しても最高、近くで拝見しても最高、お姿も最高、お声も最高、とにかく最高、私の推し最高……」
フィンと別れてからこちら、ハンナはずっと夢見る表情で呟きどおしだ。おそらく彼女の頭からは馬車のことも消えているだろうから、気をきかせた誰かがいてくれたのはありがたい。
イーリスがそう考えていると、「惜しむらくは」と言ったハンナが急に体をひねり、こちらへ向き直った。
「お嬢様は、殿下が酔っ払いどもを倒すところをご覧になったんですよね!?」
「見ましたよ」
「っくぅぅぅぅぅぅぅ!」
ハンナはその場で身を震わせ、両手で握りこぶしを作って地団太を踏む。
「どうでした!?」
「どう?」
「殿下ですよ! 格好良かったですよね!?」
問われた刹那、イーリスの胸にまたしてもあの光景が鮮やかに蘇る。
――それは、細い通りに馬車が来るまでの、馬車に乗ってから公爵邸に戻るまでの、公爵邸から小離宮群へ歩く間も、もう何度思い返したか分からない光景だ。
イーリスの落とした“捻じれ巻きの毛糸玉”を追い、フィンが走り去った直後のこと。
近くの酒場の扉が開き、数人の男が出てきた。
表情や動きからすると、かなり酒が入っているようだ。男たちはイーリスを見つけるや互いに目で合図しあい、にやついた表情で歩み寄ってくる。イーリスの周囲にむわっとした酒臭さが立ち込めた。
「よう、姉ちゃん! ひとりでどうした?」
「何を持って……ん? 人形?」
「ぎゃはははは! こんなとこでお人形遊びかよ!」
「そんなもん捨てて俺たちと遊ぼうぜ! 楽しませてやるからよぉ!」
下卑た声を投げかけられ、イーリスはそっと身構えた。
一応、護身のための体術は身につけている。呪具を持っているので手は使えないが、足技なら大丈夫。そう分析できる余裕は、まだあった。
しかし計算外だったのは、頬をつかんできた男の力が思った以上に強かったことだ。このときになってようやくイーリスは「困ったことになったかもしれない」と思った。
ひとりなら何とかなる。
ふたりは少し難しいかもしれない。
できれば手を使いたいが、抱えた呪具をどうするべきか。
地面に置くだけの余裕はないはずだ。
いずれにせよ複数で来られたら、手を使っても無駄だろう。
そこまで考えを巡らせていたときだった。風のような速度で黒い影が現れたのだ。
「彼女に触れるな!」
叫んで男たちの懐に入り込むのはフィンだった。その姿を目の当たりにしたイーリスは、彼が「黒獅子」と呼ばれる理由を理解した。
彼の纏う空気は果敢にして苛烈。黒い髪は短かさを感じさせず、むしろたてがみの如く雄々しくなびいてさえ見える。この細い裏通りでさえ彼はこんなにも鮮やかなのだ。戦場という生死のやりとりをする場ならばいっそう「黒獅子」の姿は強く印象に残るだろう。敵には大いなる脅威として、味方には頼もしい守護者として。
彼が立ち回った時間は呼吸にしてほんの数回分でしかない。しかしその短いあいだでも、獅子の雄姿はイーリスの心に深く焼き付いた――。
「お嬢様?」
高い声が聞こえてイーリスが顔を上げると、公爵邸の敷地でハンナがイーリスを覗き込んでいる。
「どうしたんです、ぼうっとして」
「ぼうっとなんてしてませんよ」
にこりと笑ってイーリスが言うと、怪訝そうにしながらもハンナは「ふうん」と答えた。
「で、どうでしたか、殿下は」
「うーんと、すごく強かったです」
「ほかは?」
「びっくりするくらい速かったです」
「っくぅぅぅぅぅぅぅ! やっぱり私も見たかった見たかった見たかった! 次、いつか次の機会にはぜひ! ……ん……次?」
んー、と小さく唸って、ハンナは首を傾げる。
「そういえばどうして今日はフィン殿下がご一緒だったんです?」
「殿下が『呪具店に行ってみたい』とおっしゃったからですよ」
「嘘ぉ! あんな不気味なところに行きたがる人なんて変態しかいませんよ? お優しい殿下がお嬢様に話を合わせてくださっただけじゃないですか?」
「そんなことないですよ。殿下は、呪具を試すときも楽しそうでした」
「呪具を試す? ……フィン殿下ともあろう方が、どうしてそんなものを……」
不審そうに呟いて、けれどハンナはすぐに顔を輝かせた。
「そうよ! 殿下は勇猛果敢なお方だもの! 世の中にある呪いというものがどれほどの危険や苦痛を伴うのかを試すため、あえてご自身の身で確かめようと思われたんだわ! それで呪具店にも行こうとお考えになった! ああああ、どんなことにも挑んでみようとなさる殿下、素敵! 尊い! 尊すぎるうう! ……あ!」
クネクネと妙な動きをしていたハンナが空を指さして何かを言った気がする。しかしイーリスはハンナではなく、彼女の後ろを駆け抜けていく一陣の風に気を取られていた。その中に黒い影を見た気がしたのだ。
もちろん誰もいるはずがない。彼は今ごろ王宮の中を歩いている。
あの鋭い身のこなしではなく、もっとゆったりとした動きで。
その姿を思い起こしながら風の消えた方向を見つめているうち、満足そうなハンナの声がする。
「よーし、これだけ願えば大丈夫! きっとまた殿下にお会い出来るはず!」 お嬢様もちゃんとお願いできました?」
「……お願い?」
「流れ星ですよ。って、私がいま言ったじゃないですか」
「いつ言ったんです?」
「えええ……」
眉をひそめたハンナがイーリスを覗き込んでくる。
「どうしたんですか、お嬢様? 帰って来てからずっと上の空じゃないですよ。気持ちが飛んで行っちゃうほど素敵な呪具でも手に入ったんですか?」
「呪具……そうですね、この“血喰いの櫛”は美しさと命を引きかえにする珍しいものなんです。こちらの“捻じれ巻きの毛糸玉”は、進展しそうな人物の仲をもつれさせるという効果が――」
「聞いてませんって。なぁんだ、やっぱり嬉しかっただけですか」
ハンナは肩をすくめ、「やれやれ」といった具合に笑った。
「お嬢様は流れ星を見てもいつも同じお願いですもんね、『いい呪具が手に入りますように』って。願いが明確でうらやましいです。――さ、お部屋へ戻りましょう。扉の前までご一緒しますよ」
そう言ってハンナが歩き出すので、イーリスは後を追う。途中で足を止めて振り返り、流れる星の跡を探すけれど、そこにはもう何もない。
「流れ星。今日は何も願わないうちに、消えてしまいました。……不思議ですねえ」
小さな声は誰にも届くことのないまま、夜風が溶かして運んで行った。
この話で第1章が終了となりましたので、連載も一時休止いたします。
他の作品に区切りがついたら再開する予定です。
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