10.荷馬車に乗って
ハンナが操る古い荷馬車は、派手な音を立てながら王都の石畳を進んで行く。
フィンとイーリスが乗るのは荷台だ。簡易的な屋根と壁に囲まれ、木の板を並べただけの硬い腰掛けがあるだけの場所。
揺れも大きく、話すと舌を噛みそうになるので、黙っているしかない。
当然ながらイーリスもそれは分かっているのだろう。馬車が動くまではあれこれと楽しそうに話していたが、動き出してからはフィンの正面に座り、黙って外を見ている。それが気づまりによるものでない証拠に彼女の目元は柔らかで、頬は上気したように赤い。唇の端もずっと上向いている。
その横顔を見つめながら、フィンは何度目か分からない「変わった女性だな」という思いにとらわれた。
イーリスという令嬢のことは、辺境へ行く前からフィンも知っている。
現バルツァー公爵には娘がひとりと息子がふたりいて、その“娘”がイーリスという名前だと。
当時十三歳だった彼女はまだ王宮には来ていなかったが、噂によれば勉強熱心で賢い娘で――。
そこでふと違和感を覚えてフィンは眉を寄せる。
フィンが『呪い集めの令嬢』について話を聞いたのは二年ほど前のこと。自分に起きている“女性に触れられない”という奇妙な現象を「呪いだ」と認めるしかない時期だった。
辺境には中央の噂が流れてくるのも遅い。おそらく王都ではもう少し前に『呪い集めの令嬢』の話は広まっていたと思う。
しかしフィンが王都を離れる五年前には『呪い集めの令嬢』なる噂を耳にした覚えがない。
ならばイーリスが呪い好きだという話はいつ、どこから、流れ始めたのだろう?
イーリスの横顔を見つめながら記憶を手繰っていると、ふと彼女がフィンの方へ顔を向けた。じろじろと見すぎて無遠慮だったかとフィンはあせるが、彼女の表情は咎めるものではない。何か言いたそうな様子で小さな唇をすぼめ、指をあてただけだ。
今まで見たことのない仕草になぜか鼓動が跳ねる。
一度ごくりと唾を飲み、平静を装って、何があったのかを尋ねようと、
「ど……」
と言いかけたとき、荷馬車がひときわ大きく揺れた。
危うく舌を噛みかけてフィンは口を押さえる。
静かになった馬車の中でイーリスが「あー」と声を上げた。
「到着するので口を開いたら駄目ですよってお伝えしたつもりだったんですけど、ちょっと遅かったですね。殿下、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。少し驚いただけで」
答えが滑らかだったことを確認できて安心したのだろう、イーリスはニッコリ笑って外へ顔を向け、暗い路地を指さす。
「ほらほら殿下、あそこが呪具店が並ぶ界隈への入り口ですよ!」
呪い集めの令嬢の本領を目の当たりにし、フィンは苦笑しながら馬車から飛び降りる。振り返って何気なくイーリスへ手を差し出そうとし、はたと気がついた。
自分には女性に触れられない呪いがかかっている。イーリスを助けることはできない。
ここ二年で染みついたその感覚を忘れていたとは信じがたいことだった。
彼女に対して何もできないフィンが棒立ちになっているあいだに、イーリスは御者台からおりてきたハンナの手を借りて地面に立った。どうやらいつもそうしているらしい。
自分の胸にわずかな苛立ちが走ったのが奇妙に思えてフィンは首を傾げ、すぐに結論付ける。これだって先に降りていた自分が女性のために何もできなかったのが恥ずかしく、悔しいだけだ。こんなふうに理由などすぐに見つかる。深く考える必要はない。
「そうだ、殿下」
フードで顔を覆いながら、イーリスが小さな声で言う。
「あの路地に入ったあとは『殿下』とお呼びするのを控えますので、ご了承くださいね」
「もちろんだ」
先ほどイーリスからは「あそこでは互いの素性を詮索しない」と聞かされていた。
何かを知っても表の世界に持ち出してはならないのだから、例え「殿下」と呼ばれてもフィンがいた事実が伝わることはないのだろう。だからといって無理にひけらかす必要もないのだ。
「ハンナ、今日は馬車と一緒にお留守番しててください」
「分かりました」
「では殿下、いっきましょー! 今日はどんな品に会えるのか楽しみですね!」
イーリスはまるでピクニックにでも行くかのような足取りで進み始める。これから歩くのは暗い路地、目的地は呪具店という怪しげな場所だというのに、そんな空気は微塵も感じない。
本当に呪いや呪具が好きなんだな、と苦笑して後を追いかけようとしたところで、ハンナの声が聞こえた。
「お嬢様ったら、今日はとても嬉しそうだわ」
視線を向けると、少し離れたところでハンナが不思議そうに何度も瞬きをしながらイーリスを見つめていた。
「私には変わらないように見えるが、そうなのか?」
フィンが返すと、ハンナはハッとしたようにこちらを振り返った。フィンにまで聞こえていると思わなかった、と言いたげだ。
昨日初めてイーリスと顔を合わせたばかりのフィンは、彼女のことを詳しく知っているわけではない。だから「嬉しそう」だと言われても特に違いは感じられなかったが、ハンナのように傍にいる者には何か分かることがあるのだろうかと思って聞いただけだったのだが。
「ああああ……いえ、あの、その」
赤くなったハンナはじりじりと後ずさり、フィンから距離を取る。
初めて会った時といい、今といい、どうしてハンナはフィンから離れようとするのだろう。女性に触れられないフィンからするとありがたい一面、少々不思議でもあった。
「い、一見するとそうかもしれないんですけど、でも何というか……いつもと違って、浮かれているというか、はしゃいで見えるというか……」
必死に言葉を探すような声は小さく震え、最後には尻すぼみになって消えた。本人にも自分の感覚が正しいのかどうか確信がないのかもしれない。
だが、イーリスの近くにいる人物だからこそ感じとれている空気感はあるはずだ。
「普段から細かなところまで見ているんだな。立派だ」
フィンが言うと、ハンナは耳まで真っ赤に染めて顔を覆う。
その後もしばらくは、もごもごと何かを言っていたようだが、はっきりとフィンが聞き取れたのは「わらしのおし、しゃいこお」という謎の音だけだった。




