1.王宮の一角で
角を曲がると、王宮の廊下はまばゆく光っていた。
フィンがそんな気分にかられたのは、長い金髪をなびかせて歩く令嬢がいたからだ。
――人の少ないルートを選んだはずなのに、もう女性に出会うとは。
朝の光の中で重いため息を吐き、フィンは足を踏み出す。気配を感じたのか当の令嬢が立ち止まり、こちらを向いて「まあ!」と声を上げた。
「フィン王子殿下でいらっしゃいますわね!」
「その声……もしかして、クラリッサか?」
「はい!」
小走りに寄ってくるのは辺境伯令嬢のクラリッサ、二年前に『光の聖女』として選ばれた女性だ。辺境伯領に長く滞在していたフィンは彼女のこともよく知っていた。
「二年ぶりですわね! 殿下はいつ王都へお戻りに?」
「六日前だ。しかし見違えたな。今年で十八歳になったのだったか、もう立派な大人だ」
「殿下は相変わらずですのね。私と三歳しか違わないのに、お父様みたいなことばかりおっしゃるわ。剣術の師弟は言動まで似ますの?」
「手厳しいな。……っと、それ以上は来ないでくれ」
互いの手が絶対に届かない距離で制止すると、クラリッサは小首を傾げる。
「お話するには遠くありません?」
「このくらいがちょうどいいんだ」
「私はもっと近くがいいですわ」
クラリッサが進んでくる。フィンは同じだけ後ずさる。
しばらく妙な追いかけっこが続いたあと、立ち止まったクラリッサがころころと笑った。
「殿下ったら、変な遊びを思いつかれましたのね!」
クラリッサの声が廊下に響く。しかし、向こうを歩いていく召使いたちはこちらを見ない。互いにひそひそと話し合う、その内容にだけ意識が向かっているようだ。ここに来るまで同じような光景を何度か目にしたな、とフィンは思う。
「今日は城の者たちが落ち着かない様子だな。どうしたんだろう」
「今宵の舞踏会のせいですわ」
確かに今日の夜は舞踏会が催される。しかし城の者たちは舞踏会の開催など慣れているだろう。
フィンがそう言うと、クラリッサはきゅっと眉を寄せた。
「おっしゃる通り、舞踏会自体には特別なことは起きませんわ。ただ……今日の舞踏会に、バルツァー公爵家のイーリス様がいらっしゃるという噂がありますの。そのせいでみんな不安なんですわ」
「バルツァー家の令嬢……有名な彼女か」
「ええ。『呪い集めの令嬢』ですわ」
床に落とすクラリッサの視線が厳しいものになった。
「イーリス様は私と同じく聖女候補だった方。でも呪具に触れている姿を何人もが目撃して、選考の場でも問題になってしまいました。聖女に選ばれなかったあとは、いっそう呪いの研究に打ち込むようになったとの噂もあります。……その理由が、怨みによるものだったとしたら……」
「クラリッサ。それらはすべて憶測にすぎないのだろう?」
「お優しい殿下、心配してくださいますのね」
クラリッサが顔を上げた。そこには今しがたと違って柔らかな微笑が浮かんでいる。
「ご安心なさって。私は呪いなんて平気ですわ。だって『光の聖女』ですもの」
空を薄雲が覆ったようだ。辺りがすぅっと陰りを帯びる
「今日の舞踏会に欠席なのもイーリス様が怖いからではありませんのよ、信者の方から相談を受けてるためですの。殿下も何かお困りのことがありましたら、ぜひ、私に」
微笑むクラリッサが一歩近づく。その分だけフィンは後ずさった。クラリッサが小さく吹き出す。
「本当に、変な殿下!」
軽やかな笑い声と甘やかな香りを残し、クラリッサが去っていく。
遠ざかる黄金の髪を見ながら、フィンは再び重いため息を吐いた。
――困ったこと、か。
確かに、ある。
もう二年も悩んでいることが。
もちろんクラリッサのことは信じている。五年前、辺境の地で遠巻きにされていたフィンを受け入れてもらえるきっかけになったのも、クラリッサのおかげだ。
しかし心のどこかで“話してはいけない”と警鐘を鳴らす自分がいる。その小さな違和感がどうしてもフィンに口を開かせないのだ。
もしかしたら、とフィンは苦笑する。
クラリッサと最初に会ったときにフィンは十六歳でクラリッサは十三歳だった。
最初に会ったときからフィンは、クラリッサのことを妹のように思って来た。
妹に対して弱みを見せるのは、兄としてのプライドが許さないのかもしれない。
ただ、イーリスは違う。
彼女の年齢はクラリッサと同じではあるが、初対面の彼女に対しては妹だとは思えない。
だから呪いに傾倒している彼女に相談してみたい。きっとそういうことなのだと思う。
彼女が王宮に来るなら願ってもないことだ。
探してみよう。できれば舞踏会の開始前、まだ人が少ないうちに。
◆
そういうときに限って騎士団の訓練が押してしまい、舞踏会まで時間がなくなってしまった。
仕方なくフィンは軍服姿のまま走る。近道のため廊下を外れ、夕日に照らされた木立の横を通っていると、向こう側から男性の声が聞こえた。普段は閑散としているこの場に人がいるなど珍しいなと思うフィンは、続いて耳に届いた内容で、この場を通ってしまったことを後悔する。
「ということで、あなたとの婚約ですが――」
木の向こうの気配は二つ。「婚約」という言葉が出た以上、もう一人は女性だろう。
足音を忍ばせて急いで去ろうとしたフィンだったが、次の言葉で思わず動きを止めた。
「無理です。公爵家のあなたと子爵家の僕とでは、家の格が違いすぎるんです」
「そうですか」
「ほかに理由はありません。だ、だから、僕を呪わないでください」
「もちろんです。私は」
女性は耳馴染みの良い声で、ゆったりと何かを言いかける。しかし男性は聞く気がないようだ。
「呪わないで、くださいね!」
上ずった叫び声のあとにはすぐ、バタバタと走り去る音が続いた。
公爵家。
呪い。
もしやこの木の向こうにいるのは『呪い集めの令嬢』だろうか。
いてもたってもいられずにフィンが回り込むと、そこには奇妙な女性が立っていた。
腰まで伸ばした亜麻色の髪はボサボサで、最後に櫛を通したのがいつなのか見当もつかない。しかし着ている紫のドレスは一目で分かるほどに上等で、非常に高価そうだ。
奇妙につりあわなそのふたつが真っ先に目に入ったので彼女が何者なのかをはかりかねるフィンだったが、よく見ると立ち姿も、醸し出す空気感も、とても優雅だった。
きっと貴族の令嬢だろう。それも上位の。
――バルツァー家の令嬢は確か十八歳だったはず。目の前の彼女も同じくらいに見える。ならばやはり彼女が。
息を詰めながらフィンが見つめていると、彼女がふと首を横向けた。
理知的な水色の瞳がフィンをとらえる。
涼しい夕の風に乗って爽やかな香りが届き、フィンはふと、今の自分は汗臭くないだろうかと気になった。