婚約破棄後即嫁いだ私の、一目惚れの話
一日一回の手紙のやり取りが、もう五年近く続いている。
※
国の救世主とかつて崇められた聖女様の生まれ変わりが発見されたから、と幼少期より結ばれていた婚約を白紙に戻されたのは五年前。
王太子妃になる者として厳しく躾けられた日々は、国王陛下の一言で全て意味のないものになった。
将来全ての人の上に立つ方を支えるための教育と、家と領地を守り国に仕える方を支えるための教育は、似通うところはあれど異なる部分が多い。特に学に関しては、王太子妃は王太子と同等かそれ以上に優れていなければならないのに対し、貴族の妻は領地の経営を代理で担えるくらいに学は必要だが、夫より賢いことはあってはならないとされている。
そのため、今の私では通常のように嫁ぐのは難しい。主要な独身の貴族は皆、己より劣るが賢い妻を求めているのだ。王妃教育を終えてしばらく、能力に翳りを見せたことのない私を望むのは、先がなくこの際妻よりも劣ると言われる恥を背負ってでも貴族でいたい者か、享楽の道具としての妻を求める者くらいだろう。
父である公爵は「聖女がいるのに側妃や妾など言語道断だ。」と王太子と私の婚約解消には同意したものの、その後の嫁ぎ先に困ることは家名に傷がつくため、陛下に解消により発生する金銭を受け取らない代わりに新たな夫の用意を依頼した。
そしてそれを受けた陛下は、自分の異母弟に私を強制的に嫁がせた。
前国王と側妃の間に生まれた王弟殿下は、継承権を得られなかったため、現在は辺境伯となっている。
他国では生まれた順に継承順位が決まるらしいが、この国では学が基準となり、その基準を満たせない者はどんなにたくさんの人に慕われていても継承権を得ることが出来ない。これは、かつて人望で国王になった者が、学が足りない所為で騙され、国を滅ぼしかけたのが原因だと言われている。
王族は継承権を得られないとなった時点で、四大公爵のうちの何れかに婿入りするか、養子となるかのどちらかだが、王弟殿下には武の才があった。
そのため常に緊張状態の隣国との国境にある辺境の地を治め、民と国を守り続けよと王命が下されたのだ。
そんな方に嫁ぐことになった私は、二十数年前の幼い絵姿のみ知っているという状態で、辺境の地に足を踏み入れた。
彼の方は継承権の基準を満たす見込みがないと判断されてすぐ、王都を出て辺境へ向かったそうで、近況など含めなんの情報もなかった。現王すら、戦況しか報告させていないから生きている事しか知らないと言うのだから驚きだ。さらに言えば、辺境伯領の情報も恐ろしく少なかった。果たして本当に国土なのかと言いたくなるほど、書物や周囲から得られる情報がない。
正直、先に先方の軽い情報だけでも探りたかったけれど、「すぐに嫁入りするように」という王命が下されたからには従わなければならず、準備もそこそこに馬車の中で一人、黄昏ることしかできなかった。
そして辺境の地に着きいざ結婚式。……を挙げるはずだったのだが、到着する少し前に隣国が攻めてきたようで、領全体が厳戒態勢を敷いていた。安全だからという理由で辺境伯邸まで行ったものの、旦那様はすでに出陣されており、館は使用人が数人いるだけ。他の使用人は街に被害が出ないよう、旦那様の指示で出ているとのことだった。
それからずっと、旦那様は戦場にいらっしゃる。だから私は未だに、自分が嫁いだ人の顔を知らない。
※
顔合わせもしていないし式も行えていないが、王命によりすでに夫婦であるため、館の使用人たちはそのように接してくれる。不満はいくつもあるだろうに黙って仕えてくれるのだから、王都の使用人の何倍も優秀な者たちだ。これが王都なら、愛されもしない妻に対して、蔑み、罵り、嫌がらせをするだろうことは想像に難くない。
朝の支度を終わらせ食堂へ向かいながら、執事のトリトンに今日の予定と街に出る使用人、交代で帰還予定の者たちについて、それから街の状況と詳しい戦況について確認する。
戦場は一応は落ち着いているものの、まだ予断を許さない状況のようだ。街の方は領民の協力の元、使用人、それから街の護衛騎士たちが全力を尽くしてくれているため、戦争前とほとんど変わらない暮らしができているようで安心する。
辺境伯領に来てすぐに領の内情を調べたのだが、この領は領土に比べて領民の数や開墾されている土地が少ない。しかも、領民は領内で生活のほとんどを完結させており、あまり他領には行かないことも発覚した。
これは、好戦的な隣国に攻め入られることで安全な中心部から動けず、最初の居住区を広げないでそこだけ発展させていった結果だった。
とはいえ領民や歴代辺境伯を責めることはできない。
この領は、いわゆる普通の税金を納めなくてもいい代わりに、隣国からの侵攻を完璧に止めることを義務付けられている。そしてそもそも、辺境伯は基本的に血では継承できない。王家に五人以上の子ができた場合や、此度のように武に秀でたために継承権をなくした方が、その地位をあまり下げないための手段として利用されるからだ。王弟殿下が辺境伯になられる前は、とある公爵家の三男が一代限り、期間限定の可能性もあるという条件を呑んで務めていた。
継承または就任したものが全員、武芸に秀でた領主であったり、そうでなくても騎士団育成の名手と謳われるほどの敏腕であれば、侵攻の対処と領の開墾を同時に進められただろう。
けれど現実はそう甘くない。
国としてこの領の重要性はわかっているものの、注意をしなければならないのはなにも隣国だけではない。辺境が落とされてもまだ王都までは十分な距離もあるからと、領主の選定の優先順位は低かった。
故に、武芸に秀でていない領主は、ほとんどの時を限られた居住区域を護りつつ、休戦してもしばらくしたら懲りずに侵攻してくる隣国の相手を、戦に慣れていない自分と、王都から派遣された騎士と辺境伯領の騎士、合わせて数千人程度でしなければならなかった。戦に慣れている、もしくは武に秀でている領主の場合は、戦闘に関しての負担は幾分か軽減されるものの、内政に関しての知識が乏しく、そちらにかかりにりになるのを避けるために引き継いだものを変えないこともあって、どのような領主であっても基本的には開墾が進まなかった。
そのような状況であれば、王都に伝わる情報が少ないのは仕方がない。そもそも優先される情報は隣国の侵攻状況のため、内情等がわからないのは当然のことだった。
現領主である王弟殿下も、内政はあまりお得意ではない。しかも隣国からの侵攻が激化しているため、そちらの対処にかかりきりになっている。
恐らく私を嫁がせたのは、そこを補助させて詳細な辺境の情報を手に入れるためだろう。だが、戦闘が続いでいる現状、何処にスパイや隣国の兵士が潜んでいるかわからないのに、内政の状況などを報告するわけにもいかない。そんなことをして隣国に付け入る隙を与えようものなら、針のむしろになりこの領では生きていけないだろう。
朝食を終え、執務室に行くと、昨日片づけたはずの紙の山が再度できあがっていた。これはほとんど毎日の事なのでもはや気にしない。辛うじて作業用のスペースがある机につき、まず左側にある手紙入れを確認する。
……あった。
その手紙には愛の言葉など一言もなく、ただ淡々と現状を伝える一文のみが綴られていた。
【今日は穏やかだった。】
最初にこれ受け取ったのは、ここに来て1か月経った頃だ。差出人は書いておらず、内容もただ一文。
【青空が綺麗だった。】
いたずらかと思い、処分用の箱に入れたら、処分に向かい念のため中を改めていたトリトンが慌てて持ち帰ってきた。
曰く、これは旦那様から奥様へのお手紙です、とのこと。
過去に旦那様が処理した書類を一緒に持ってきて、これは確実に旦那様の字です! と宣言され、怪訝な顔をしてしまったのは仕方がないだろう。確かに筆跡は似ていたが、信用に値するか、と言われれば、トリトンは信用できるが手紙は無理、となるのは当然の事。しかしトリトンはどうも返事を望んでいる。
悩んだ末、自分も一文だけ返信した。
【どちら様ですか。】
それを送った翌日。また一文の手紙が帰ってきた。
【ウルツァイト・カヴァリウルだ。】
旦那様の名前だ。けれそれ以外には何もない。
無難なのは、名前を返す事だろうか、と一応自分も返事を書いてみた。
【カリナン・エルテラームと申します。】
それ以降、一文のみ届く手紙に、一文で返す日々が続いている。
【今日は苛烈だった。】
──【怪我や体調にお気をつけて。】
【珍しく森が静かだった。】
──【嵐の前の静けさとも言いますよ。】
【おいしかった】
──【酔っぱらうと主語が消えると言うのは本当だったのですね。】
………………
…………
……
そして今日も。先ほど受けた報告でも落ち着いているとは聞いていたが、こうして実際に戦場にいる方から聞けるのはありがたい。
文字は震えていない。血の匂いもなし。筆圧もいつも通り。裏にも……。
「いちどかえります……?」
初めて二文目が書いてあった。しかもこんな、紙の端にひっそり書くような事柄ではない。
「……いえ、もしかしたら最初はこっちを書いたのかもしれないわ。やっぱり戦場にとどまった方がいい状況になってしまったから、消す間を惜しんで書き直したとか……。
うん、そんな気がしてきた。」
念のためインク等の確認をする。こっちも震えはないし、匂いも筆圧も変わりない。少なくとも、現段階では戦争が落ち着いたら帰ってくる気があることだけは知れたので良かった。一生顔を合わせないままだなんて、嫌だもの。
それに心底安堵しながら、返事を書く。
【これからもずっとそうであってほしいものですね。】
……。
ペラッ
【心より、お待ちしております。】
※
「おおおおおおおおおおりっ、おりば、オリヴァー!!!!!!!!!!」
「うるっっっっせぇ!!!!」
一時休戦となった戦場を後にし、逸る気持ちをそのままに家に向かって美しい白毛の愛馬・シュヴァルを飛ばしている最中。伝書鷹によって彼女から届いた返事を見て、やはり気づかなかったか、と落胆し何気なく裏を見ると、「心より、お待ちしております。」と書いてあった。
思わず並走していたオリヴァーを呼ぶと、怒鳴り声が帰ってきた。シュヴァルたちは相変わらず走ってくれている。普段戦場で怒号飛び交う中共に戦ってくれているから、叫び声に緊急性がないのを察しているようだ。いや別の意味で緊急性が高いのだが。
オリヴァーに届いた手紙の裏面を見せると、
「ぅおっ、えっ、えぇっ? おまちして……待っててくれてんのか!?」
ありえないものを見る目でその文を凝視した。気持ちはよくわかる。俺も信じられない。
「ど、どぉ、どうする、どうしたらいいっ? 顔合わせもなく、五年間一日一回の手紙のやりとりだけの旦那だぞ俺は!」
「堂々と言うなよ。てか、仕方ねぇことだろそれに関しちゃ。」
五年前、兄から突然、【お前の嫁はこの令嬢だ。私の息子の元婚約者故、教養はある。】とだけ書かれた手紙と、身辺調査の結果、それから釣書を同封したものが送られてきた。
抗議しようにも、まずどういう理由でそれをするに至ったかを兄に認めさせなければ話を聞いてくれないため、一先ず書類を確認した。生まれてから数年で王都を離れ、領地経営と戦争に人生を費やしていた俺は、情勢を全く知らなかったこともあり、王都ではこんなことがまかり通るのか、と憤慨したものだ。聖女様の逸話は知っていたが、だからといって令嬢にあまりにも失礼な対応だし、それを受け入れている周囲にも失望した。
調査の結果を見る限り、品行方正、王太子妃としても問題なくこれからの国を任せられそうな女性だったのに、兄の脳みそは溶けて消えたのかとおもむろに釣書を見て。
俺の頭が溶けた。
いや、正確には、釣書に描かれた令嬢に惚れた。
俺も王族の端くれのため、割と顔は整っているし、周りにも容姿が優れている者がほとんどだった。その上、王族は金髪碧眼が多く、城の中はいつも物理的に光っていたような記憶がある。まぁ俺は側妃の子供だからか、母の黒髪と父の碧眼を受け継いでいたため、特に光ってはいなかったが。
そんな整った顔を見慣れている俺でも、カリナン・エルテラーム公爵令嬢は美しく、まさにこの世の美を体現したかのような女性だった。
淡い紫色の瞳と、瞳よりももっと淡い紫のまっすぐな髪。身に付けている白いドレスも相まって、まるで天使のよう。
齢十八とは思えないほど落ち着いていて、自分が十二も歳上であることも忘れて釣書の彼女に見入った。
同じ歳の王太子と婚約していたのだから、きっと俺との結婚は嫌だっただろう。
それでも文句を言わずこの辺境に向かって出発したと、身辺調査の最後に書いてあった。メイドを連れず、一人で簡素な白いドレスに身を包んで、背筋を伸ばして暗い顔を見せずに……。御者に「よろしくね。」と微笑みすら見せていたそうだ。公爵家が用意したという馬車は簡素で、この領地に来るまでの村で泊まった宿でも、華美な装いは一切なく、全て自分で身支度などを行っていたらしい。戦場で受け取った、部下たちによる御者と宿の主人からの聞き取り調査結果を見てさらに惚れ直したのは言うまでもない。
強制的に、正式な手続きもなく齢三十の俺に嫁ぐことになった相手につけこむような真似はしたくない。そう考えた俺は、まずは自己紹介をして、正直に告白しよう、と決意した。身辺調査結果が兄から送られてきたことも、それに関して俺がどう思ったか、自分の気持ちも。
しかし彼女が到着する二日前に、隣国攻めてきてしまった。すぐに戦場に戻り、のちに部下たちに「魔王」と呼ばれるほどの勢いで敵を殲滅するも、決着はつかず。
結局、落ち着いたと判断できるまでの五年間一度も、顔を合わせる事が出来なかった。
そうして今。
俺はオリヴァーと共に家への道を急いでいるわけだが、なんと彼女はそこで待ってくれているらしい。
いや、トリトンの報告書には「奥様が」から始まる執務の進行状況があったが、俺が釣書に一目ぼれしたと知っているトリトンが気を使ってくれているかもしれない、と半分くらい思っていたのだ。手紙の返信は一文のみ、見たことのない筆跡であったため、本人からだとは思っていたが、家からは出て自由に暮らしているものだと思っていた。なんせ領内にはなぜか割と頑丈で貴族の家と言っても差し支えないほど豪華な空き家がいくつかある。自分好みの家を作ることだってできる、というアピールポイントは伝えておいてほしいと皆に伝えていたから、それを聞いて移動しているかもしれない、と。
それなのに!!
家に!!
まだいてくれている!!
夢か?
頬を引っ張る。痛い。じゃあ夢じゃない……。
「一先ず飛ばそうぜ。もしかしたらこの手紙書いてすぐ家出てるかもしれねぇし。」
「!? シュヴァル! ≪解錠≫!」
「あっ、飛ばすってそっちじゃっ! ……くそっ、リリィ、≪解錠≫!」
シュヴァルと、オリヴァーの愛馬・リリィの背に、それぞれの毛色と同じ羽が生える。シュヴァルは白、リリィは青毛なので黒い羽だ。
そのまま二頭は空へ飛びあがり、大きく羽を羽ばたかせる。≪解錠≫には魔力を大量に使用するので本来なら戦場でしか使わないが、緊急事態のため惜しげもなく消費して家へ急いだ。
休戦による休暇は最大五日。戦況によっては帰還中に戻ることになったりもする。
そして今日はその休暇の一日目だ。前線へ戻るときは流石に魔力を消費出来ないため、家から戦場までで二日ほどかかる。
つまり自由期間は本来なら一日。だが、二頭とも元の姿であるペガサスに戻せば一日以内に家までは戻れるため、自由時間が二日半に増える。
ただ、一時休戦とはいえ破ってきた事例がないわけではないので、順番に休暇を取ることになっていることもあり、時間は伸ばせない。更に言うなら現状把握だけでも半日は費やすだろうから、実質自由なのは二日だけ。
……その二日が勝負どころだ。
俺の気合に呼応したのか、シュヴァルが大きく羽ばたいた。
※
今朝、初めて手紙の返事が来なかった。
代わりに、一時休戦となったから、本日から五日間、旦那様が休暇に入られると告げられる。合わせて、お帰りになられるのは早くても明後日で、一日屋敷で休まれた後、また戦場に戻られるとも。
トリトンは、「帰宅に全力を注いでいるため、お返事を書く余裕がなかったのだと思います」と言ってくれたけれど、裏面に書いた返信がまずかったのではと思うことを止められない。
それもあって、いつも以上に仕事に没頭してしまった。
出来上がっていた山が三つほどなくなったとき、「そろそろ休憩を」とトリトンが紅茶を持ってきたので、ありがたくいただく。
あたたかくておいしい。自分で淹れたときはこんなにおいしくできないので、羨ましい。できれば可能な範囲で教えてほしいが、毎回喉につっかえて言い出せないでいる。
貴族の妻は自分ではお茶を入れない。その上、動かない。それを破るとはしたないと言われ、王都なら嘲笑の対象になってしまう。
ここがそんな場所ではないのはもう十分わかっているが、十八年の王都生活における“常識”は意外と私の中に影を落としていた。
ちなみになぜ私が自分で淹れることができるのかというと、王妃教育で使用人という存在がいかに大切で、暗殺において一番手を出しやすい位置にいるかを学ぶ際、手順を教わったからだ。
そこから淹れようと思うことは普通はありえないが、私自身はできて損はないだろうとこっそり練習していた。嫁いでからも、だれもいない部屋で行っているものの、成果は出ていない。
王宮にいるときは、使用人の動作を盗み見ては学んでいたけれど、辺境伯領の使用人の動作を真似ても形だけしかできず、同じような味が出せないのだ。
熟練の技は、目で見て盗めないところが多くて困るわ。
「ん?」
こっそり張っていた街を覆う結界が、見知らぬ魔力を通した。敵意があるものを通さない、という条件の元張ったものだから、行商人や、偶々戦争中と知らずに来てしまった他領の人という可能性もないことはないが、どうもおかしい。
結界は街を囲む防御壁の外側を基準に、地下を含めた土地に卵状に展開している。空や地下からの攻撃は、前兆を察知しにくいこともあり、魔力探知を付けていた。
その魔力探知が、空からの結界の通過を告げている。さらに、結界内に満たした私の魔力が、それがここにまっすぐ向かっていることも教えてくれた。
「トリトン。空に警戒するよう、皆に指示を。こちらにまっすぐ向かっている者がいるわ。」
短く返事をしたトリトンが、他の者に指示を出すため部屋を辞する。邸内が騒がしくなり始めた頃、トリトンは戻ってきた。
窓に寄り、じっと空を見つめていたら、後ろでぽつりと声が聞こえた。
「それにしても、空、ですか。」
不可解と言わんばかりの彼に、私も同意する。
この辺りはどちらかといえば地を駆ける魔獣の方が多く、空を飛ぶ魔獣は結界外の森の奥深くのどちらかというと国境側に近い位置に生息している。だというのに、今回は空から入ってきている。
「現段階で分かるのは、馬のようなものに跨った、膨大な魔力を持つ男性二人だということだけね。」
騎乗用に調教されたのか、馬のようなものには魔力はあるが敵意はない。
「…………空飛ぶ馬に乗った、男性二人、ですか?」
「? そうね。私が今わかるのはこれくらいだわ。」
外に向けていた目をトリトンに向ければ、神妙な顔で考え込んでいた。思ったより緊迫していない顔に内心首を傾げていると、徐にドアを開け、一番私の世話をしてくれることの多いメイドのフローラを呼んだ。どうやら傍に控えていたようで、すぐに扉の向こうに現れた。その場で何事か話し、彼女も部屋に入ってくる。
「普段から奥様自らもお手入れをしてくださるため、髪結いと軽いお化粧のみ施し、お着替えいただければ十分かと。」
私の方を見て一つうなづいたフローラは、トリトンに向かってそう言う。状況が飲み込めず立ったまま二人を見ていたら、部屋に戻り迎える支度を、と言われた。
「申し訳ございませんが、詳しくはお部屋に向かいながら説明します。」
フローラが普段はしない催促をしている。トリトンがそれを咎めることがないと言うことは、少なくとも本当に急いだ方が良さそうだ。
そう判断して、早足でフローラと部屋に向かう。
「まだ推測の域を出ていないのですが、その男性は旦那様とその右腕であらせられるオリヴァー様と思われます。」
足を止めそうになるのを必死に動かして、言葉の意味を噛み砕く。……つまりこの前の手紙に書いてあったことは、本当だったということかしら?
だとしたら、明確に日付が書いていないからといって、近々戻られる可能性があるだなんて曖昧な伝え方をしてしまったのは悪手だったわね。皆に申し訳ないわ……。
「奥様がお気に病まれることではありません。」
考えていたことを読まれ思わず顔を上げれば、部屋の前についていた。
促されるまま中に入り、補助を受けながら着替える。着ていたワンピースは簡単に脱げるが、お迎えに相応しいドレスはどうしても手を貸してもらわないと着ることができないのが不便だ。
「一時休暇は確かに本日からですが、本来であれば早くても明日ご帰宅予定でした。」
それは今朝聞いたから、知っている。準備もあるから仕事の調整をしなければと思っていた。
袖を通したドレスはまだ装飾が少ないものだが、白い見た目に反して重い。嫁いでから重要なお茶会にのみ参加していたから、ほとんどをワンピースで過ごしていたのもあり、簡易なドレスでもそう感じてしまう。
「しかし、旦那様とオリヴァー様のお乗りになる馬は少々特殊な種でして……。」
「特殊……?」
メイクのために椅子に座るとそう言われた。事前情報がないまま嫁いで来たため、ある程度自分で調べてはいたが、そんな情報はなかった。
よっぽど秘匿されていたということかしら……。
「しかしながら、旦那様がここに来られてからずっと変わらず共に戦場を駆けておられるので、皆特殊なことを失念していたのです。」
そんなことはなさそうね。単に慣れということみたい。
言いながらフローラはヘアメイクに入っている。髪に櫛が通され、引っかかることなく毛先まで流れた。
「お二人の馬は、普段は普通の馬なのですが、それは魔力回路に鍵がかかっている状態です。
それを契約者が解錠することで本来の姿となり、自由に空を翔けることができるようになります。」
「……それは、勇者様の愛馬の血を継いでいるということよね?」
思わず首を動かしてしまった。慌てて元に戻すが、頭を抱えたくてたまらない。
かつて国を救った英雄である勇者様の愛馬は、ペガサスという羽の生えた馬だった。
愛馬に跨り、聖女と共に地を、空を翔けて、巨悪を打倒したのはこの国ではだれもが知っている話だ。
ペガサスは通常時、他の馬と何ら変わりはなく、魔力回路が開錠されたときのみ、その力を存分に発揮できるようになる。そして、回路を開けられた者にのみその力を貸す事でも有名だ。
そんなペガサスが二頭、この領にいて、さらに使用人や領民が忘れてしまうくらいには、ここに馴染んでいる。
「はい。旦那様が王宮を去られる際、護衛としてついて行くことになったオリヴァー様と共に、前国王陛下より賜ったと伺っております。」
衝撃的な事を告げられ、上手くかみ砕けない。
結局、続きの準備が終わり、旦那様を迎えるために玄関ホールに着くまで他の事が頭に入ることはなかった。
※
しまった。すぐにでも会いたいがさすがに風呂に入らないとまずい。
そう思って、庭に着地しシュヴァルから降りた後、顎に伝った汗を拭いながら、綺麗なフォーム・素晴らしいスピードで走ってきたトリトンに風呂に入りたい旨を伝えると、頭を抱えてしまった。迷惑をかけてすまない……。謝ると、深呼吸したトリトンが顔を上げて言った。
「奥様が玄関でお待ちです。」
?
「奥様が、玄関で、お待ちです。」
オクサマ、ゲンカン、オマチ…………。
「こんな汗だくで会えと!?」
駄目だ駄目だ! あんな綺麗な方にこんな状態で会えるわけがない!
「……まぁ確かにそうですよねぇ。随分と飛ばされたようですし。」
シュヴァルを見ながら言われ目を逸らす。
いや、本当に、悪かったとは思っているんだ。けど、その、いてもたっていられず……。
「ですので、外の風呂を整えております。まずはそちらへ。
オリヴァー様もどうぞ。」
だって、居なくなっているものとばかり思っていたんだ。
「随分準備がいいな? 手紙を出したのは昨日だったと思うが。」
緊迫状態が続いていたとはいえ、五年も手紙だけの夫だぞ。いくら王命とはいえ……。
「本来なら慌てているところでしたが、奥様のお陰で皆、最低限の準備をすることができたのです。」
あぁやはり皆慌てて……?
「……彼女が?」
「はい。詳細は後ほど。」
さぁさぁとせかす言葉に従い、外に建てた風呂に向かう。
オリヴァーと二人、素早くしっかりと汗を流して、身支度を整えてから玄関に急いだ。
扉の前に立って、深呼吸する。
あの脳が溶けてしまうほど美しい彼女が、この向こうにいると思うと、緊張で口から心臓が出てしまいそうだったが、何とかこらえた。
トリトンによって開けられるドア。隙間から覗く見覚えのある玄関ホールと、……佇む、白いシルエット。
「……────ッ!」
※
フローラが整えてくれた服も髪も化粧も、完璧だとわかっている。
けれど、初めて会う旦那様にどう思われるのかが想像もつかなくて、胸に大きな不安が押し寄せた。
意味もなく裾を整えていたら到着されたようで、トリトンが対応しているのが微かに聞こえる。
旦那様の絶叫が響いてきたので、汗を流されたいのはわかった。皆が準備してくれているから、そこに関しては問題ないだろう。
外のお風呂は、戦闘や町で領民の手伝いをして、邸内に汚れを持ち込む可能性があるときに使うために設けられている。
ご帰還なされた旦那様はよく使われるのだが、今まではいつ頃こちらに着くのかわからず、予測した日に沸かしては冷め、冷めては沸かしてを繰り返していたらしい。皆、ある程度の日付はわかるけど、一番温かい気持ちのいいときに入ってほしいからと、帰還されるご予定の日は給湯・追い炊き用の魔石の消耗が激しいのだと話していた。
確かに、馬の体調もあるだろうし、天候、地面の調子なども影響するだろうから、予測を立てるには難しいだろう。
けれど今回は、私の結界が役に立った。できればごゆるりと湯船を楽しんでいただきたいけれど、会話から予測するに難しい可能性が高い。
そんなことを考えながら待っていると、徐にドアが開いた。
「「「「「「おかえりなさいませ。」」」」」」
両隣で並んでいた使用人たちが頭を下げる。私もスカートのすそを軽くつまんでカーテシーをした。初めてお会いするのだから、近くでご挨拶するのははしたないだろう。どういった振る舞いがそう見えてしまうかは、公爵家で教わった。必要以上の近距離も、その対象だ。
……。
旦那様からの反応がない。目をつむってカーテシーをしてしまったので、今どういう状況かが気配を探るくらいでしか把握できず、不安が胸に押し寄せる。
思わずドレスを持つ手に力が入った、その時。
「ず、」
ず?
な、なにか話されるなら、お許しはまだ出ていないけれど、さすがに目を開かないと失礼、よね?
知らず知らず詰めていた息を細く吐き出して、失礼のないようゆっくりと瞼を上げる。
「ずっと、お慕いしていた!
どうか俺と結婚してほしい!」
大きな声。けれど威圧を感じさせない、優しそうな、温かみのあるお声。
でもそれ以上に目を奪われたのは、青空のように鮮やかできらきらと光を孕んだ、青い瞳。
それがまっすぐ、私を貫く。
私も、その必死な瞳から目を離せなかった。
「旦那様。既にご結婚なされています。」
「ハッ……!そうだった……!」
ふいに逸らされた瞳に落胆するが、今度は短く切りそろえられた黒髪や、逞しいお体が視界に入る。
黒髪は珍しくはないが、今まで見たどんな黒よりも艶やかだ。熱を発するほどではないが、それでも美しく逞しく鍛えられたお体は、戦場からほど遠い王都にいた頃にはほとんど目にすることはない。
守護という言葉を体現したかのようなお姿。
「あの、すまない、突然。その、俺は貴方の姿を、知っていて、だな……。」
ゆっくりとそのお姿が近づくにつれ、旦那様の輪郭がさらにはっきりと見えるようになった。
「あと兄から、その、色々と聞いていて。」
彫りの深いお顔立ちは、側妃様にそっくりだわ。白い肌は陛下からかしら。
「つ、釣書の君に、一目で心惹かれたんだっ。」
まぁ。あの「愛想がなくて気味が悪い。まるで幽霊のようだな」と父が嘲笑した釣書に惹かれて、……ひか、れて……?
「えっ」
「すまない!気持ち悪かったか!?
いやでも、本心でっ!」
ひか、れたって?
「その、不自由していないかとかいろいろと調査してしまったんだが、あの、……その結果でさらに貴方が好きになった!」
「す、き」
私の知らない国の正反対の意味をもつ言葉かしら。
「俺は、君が許してくれるなら、このまま夫婦として関係を築きたいと思っている!」
ぶわり。
体を得体のしれない熱が駆け巡った。
真剣な瞳は再び私を貫いていて、とてもじゃないが逸らせそうにない。
その強さとは裏腹に、人二人分くらい離れた場所でこちらを見ている旦那様は、凛々しい眉を下げて必死な顔をしている。
「ぁ、う」
早鐘を打つ心臓は元に戻りそうにないし、熱を集めた顔は真っ赤だろう。
子供のように両手で握ってしまったドレスは、皺を直すのに苦労しそうだ。
頭の片隅ではこうして思考を止めずにいられるのに、肝心な部分が機能を停止していて何も言葉が思い浮かばない。
辺境に来て勧められたたくさんの恋愛小説の文字が頭を駆け巡る。
その中から引っ張り出した知識で唯一私にできたのは、
「よ、よろしく、おねがいします……っ。」
ここにきて親しくなったフローラに勧められ初めて読んだ恋愛小説に出てくる、告白の返事を告げるシーン。
男爵家出身のメイドが、手の甲を上にして手を差し出しながら、小さな震える声で答えるところ。平民だったが容姿の端麗さから伯爵家に引き取られ、実力で団長まで上り詰めた騎士から受けた、初めての淑女扱いの再現をするような動作。このあと騎士がその手を取って、甲にふりではなく本当に口づけてとろけるような笑顔を浮かべた、という続きまで思い出し、勝手に体温があがる。
というか初めて会うのにそんな再現もなにもないじゃない!
あぁ、どうしましょう、だめ、こんな、こんなにも頭が働かなく────
「ぴっ」
手を、とられ、
くちはついてないけど、おかお、が
────ふらり
「奥様!!」
この後、目を覚ましてすぐに旦那様の顔を見て再び意識を失うのは、皆も予想外だっただろう。
そして、戦況が思わしくなく、翌日戦場に戻ることになった旦那様が嫌われたと勘違いしていると知って、持ちうる限りの知識と規格外の魔力を駆使して戦場へ向かい、改めて告白したのは別の話。
そして、殿下の結婚式で、私の婚約破棄についての話を旦那様が話した結果、破棄は陛下の独断であり、かつ陛下より私の意思と伝えられていたと発覚し、可哀想なほど青くなった殿下と聖女様に謝罪されたのは、もっと別の話だ。