第九話 笑う者たちの記録
もうすっかり外が暑くなって夏が近づいてますねー。
その前に梅雨か。。
昨日の夢の中、誰かがこう言った。
──「生きているうちに、ちゃんと笑っておけ」
その声に応えるように、今朝の空はいつもより晴れていた。
目覚めた俺は、少しだけ空を見上げる余裕があった。
いつもの風景。いつもの道。けれど、少しだけ違う。
昨日までの俺は、“記録に追われる者”だった。
でも今日、ほんの一瞬だけでも、“今”を生きる者になれている気がした。
「おい、神永ー!」
背後から聞こえる声。
振り向くと、笑顔の総士が片手を上げて駆け寄ってくる。
「なあ、澪ちゃんがな! 職員室前で先生に囲まれてたぞ!」
「……囲まれてた?」
「いや、“質問攻めにされてた”って意味な! 別にリンチとかじゃねーよ?」
「……朝からうるさいぞ」
そこへ、澪がやってきた。制服の襟元を直しながら、ため息ひとつ。
「先生たち、私のこと“真面目すぎる”って言うの。
でもさ、何かを守るにはそれぐらい必要でしょ?」
「なにそれ、急に使命感?」
「……学校じゃなくて、世界救う方の話してない?」
「ちがっ……比喩! たとえ話だから!」
沈黙。
一拍置いて──総士が頭をかきながら、くくっと笑った。
「……マジで、お前ら揃って中二かよ」
次の瞬間、風に乗って笑いが弾けた。
そんな風に笑える日が、何日ぶりだったか分からない。
昼休み。屋上に出ると風が気持ちいい。
総士はパンをかじりながら空を見上げ、澪は小さくあくびをした。
「最近、夢を見るんだ」
ふいに、澪が呟いた。
「夢?」
「うん……あたたかくて、でも悲しい夢。
手を伸ばしても届かない誰かを、いつも追いかけてるの」
「……それ、誰だった?」
「分からない。でも、きっと知ってる人」
その言葉の余韻が残る中──
「おいおい、なんだこの空気。
二人して昼ドラやってんのか?」
いつの間にか、総士がパンを片手に立っていた。
ニヤニヤしながら、明らかに聞いてた様子。
「なっ……ち、違っ!」
澪が一歩引き、俺は言葉を詰まらせた。
総士は頭をかきながら、くくっと笑った。
「まあまあ、青春ってやつだな。ごちそうさん」
風が通り過ぎる。
でもその直前までの空気は、ほんの少しだけあたたかかった。
放課後、俺は旧校舎の渡り廊下を歩いていた。
無意識だった。理由もないのに、身体が勝手に動いていた。
そして、その先に──人影があった。
窓の外に佇む黒い影。
フードをかぶり、顔は見えない。
だが、昨日見た“記録喰い”とは明らかに違った。
そいつは“観察者”ではなく、“訪問者”だった。
「……神永哉。記録の匂いが濃くなったな」
聞こえたのは、落ち着いた男の声。
その響きは妙に澄んでいて、威圧感とは無縁だった。
「誰だ、お前……」
「篁朧だ。お前の“記録の番人”のひとり」
その名に、覚えがあった。
初めて“記録”に触れたとき、脳裏に響いた低い声──
あれが、こいつだった。
「今日はただ、“確認”に来ただけだ。
お前が“道を外れていないか”、それをな」
「俺は──」
「言い訳は不要だ。
ただ、“笑えているうちは大丈夫”ということだけは覚えておけ」
そう言って、朧は静かに消えた。
まるでそこに最初から存在しなかったかのよう
その晩、澪からメッセージが届いた。
《明日、ちょっとだけ付き合って》
それだけ。
でも、彼女の言葉の裏には、“何か”があると分かっていた。
翌日。
放課後、澪に連れられて向かったのは、駅前の古いカフェだった。
「ここ……?」
「うん。前に一度来たことがあるの。
記録とは無関係な、“普通の場所”に行きたくなって」
中は静かで、落ち着いた雰囲気だった。
俺たちは窓際の席に座ると、なんでもない話をした。
好きな食べ物、昔のクラス、飼っていた猫の話。
「ねぇ、哉くんって──どんな夢見るの?」
「夢……最近は、昔の誰かと話してる夢ばっかりだ」
「それって、記録?」
「わからない。でも、見てる最中は……悲しくて、でも、救われてる気がする」
澪は微笑んだ。
そして、ホットココアを一口すする。
「……それ、きっと“未来の記録”だよ」
「未来?」
「うん。“まだ選んでいないはずの選択”が、夢に滲み出てるの。
私も、たまにあるから。……あなたと一緒にいた時間が、夢になるとき」
その言葉に、胸が強く揺れた。
(未来の記録……)
それが見えてしまうということは、
俺たちは、やはり“もう何周も繰り返してる”んだろうか。
帰り道、ふたりで並んで歩く。
夕焼けが、建物の影を長く伸ばしていた。
「ねぇ」
澪が、ふいに立ち止まった。
「哉くんは、怖くない?」
「何が?」
「これからのこと。記録のこと。……敵と、戦うってこと」
「……怖いよ。
でもそれ以上に──“この日常を失うほうが怖い”」
その言葉に、澪は小さく笑った。
そして、そっと俺の手を握った。
「それなら、守ってみせてよ。
……私の笑える日常も」
「……ああ。守る」
その約束のような言葉が、空へと消えていった。
──そして数日後。
学園の掲示板に、ひとつの違和感があった。
「転入生のお知らせ」──そこには、見慣れない名前が書かれていた。
天城零
転入理由:海外からの帰国。成績優秀。推薦入学。
だがその名を見た瞬間、俺と澪は──同時に背筋を凍らせた。
その名前が、
“かつての記録の中”に存在していたことを、記憶していたからだ。
そしてその日、教室に現れた零の瞳は──真っ黒だった。
その瞬間、総士がぽつりと呟いた。
「……記録が動き出したか」
その声は誰に届くでもなく、ただ教室の空気に滲んだ。
けれど確かに、俺の記録の奥に──刻まれた。
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