第八話 記録と血と影、動き出す者達
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目が覚めたとき、世界が“重く”なっていた。
空気が、いつもより少しだけ沈んでいる。
何かを“待っている”ように──。
窓の外で、カラスが一羽、電線にとまっていた。
黒い影が朝陽を遮り、その輪郭がやけに強く焼き付く。
それを見た瞬間、昨日の記憶が蘇った。
──〝八咫烏〟
澪の口から発されたその名が、脳裏でゆっくりと鳴る。
ただの神話じゃない。
ただの伝承じゃない。
それは、“俺自身の記録”と繋がっている。
登校中、通りを歩く人々がどこか遠くに感じた。
この“現実”が、記録の上に積み重ねられた薄い皮膜のように思える。
(……何かが、近づいてきてる)
教室に入ると、総士がこちらに顔を向けた。
「お前さ……最近、ちゃんと“自分の目”で見てないよな」
何気ないように聞こえるその言葉に、胸の奥がひりついた。
誰よりも傍にいた存在だからこそ、見抜かれてしまう。
“俺自身の記憶”ではなく、“誰かの記録”で世界を見ていることを。
授業中、澪と視線が合う。
言葉はなかった。
けれど、“今夜”という約束がその一瞬に交わされていた。
放課後。
澪と二人で、河川敷へ向かう。
昨日と同じ階段。昨日と違う空気。
「神永くん。今日、もうひとつの記録を見せたいの」
「……見せてくれ。ちゃんと受け止める」
手を重ねた瞬間、世界が反転した。
色が抜ける。音が消える。重力が揺れる。
──水面に浮かぶ都。夜の神殿。
“鏡宮”と呼ばれるその場所は、まるで時間の外に存在していた。
そこに立つ三人の影。
中央の老人が、こちらを見て口を開いた。
『神永哉。……お前の記録が、ようやくここまで辿り着いたか』
「……誰だ、お前は」
『八咫烏本家《守主》。ここ“鏡宮”は、記録の格納庫。
お前自身の記録も、ずっとここにあった』
「……俺の?」
『お前は“渡し守”。
記録を繋ぎ、未来を選び、過去を焼く役割を背負った者』
言葉の意味がすぐには理解できない。
けれど、心の奥底で、妙に腑に落ちる感覚があった。
視界が切り替わる。
白い部屋。
中央の椅子に座るのは、少年の俺。
その前に立つ少女──澪ではないが、どこか似ている。
もしくは、澪の“原型”だったのかもしれない。
「今度こそ、終わらせよう。
あなたが生きて帰れる未来を、やっと見つけたから」
その言葉が、現在の澪の声と重なる。
記録の中で、俺は何度も死に、何度も繰り返してきた。
そして──今が“九度目”。
世界が戻る。
手の中には澪の温度。
空は、赤く染まり始めていた。
「これが……俺の記録……」
「うん。でも、それだけじゃない」
澪が空を指差す。
空間が歪む。
そこに、黒いフードの人物が立っていた。
顔は見えない。だが、はっきりと“敵”だと分かる。
「初めて現れた、“顔を持った記録喰い”」
存在そのものが空気をねじ曲げる。
殺意は感じない。だが、“観察”されている。
そして──その存在が語らずに伝えてきたのは、ひとつの明確な意志だった。
『次は、喰う』
その夜、夢の中で声を聞いた。
──“記録体、覚醒段階に到達。干渉、開始許可”
言葉ではない。脳に直接響いてくる“指令”のような音。
その直後、全身が焼けるような痛みに襲われた。
心臓の奥。骨の芯。視界の裏側。
身体の内側で“記録”が暴れ始めた。
(う……あぁ……っ!)
額から噴き出す汗。
喉から漏れる呻き声。
まるで、自分の中で何かが“変形”していくような──。
翌朝、鏡の前に立った俺の目は、わずかに色が違っていた。
瞳の奥に、微かに赤い“縁”が宿っていた。
それを見た瞬間、頭の中に別の記憶が流れ込んだ。
──地下の礼拝堂。
──黒い羽根を背負った男。
──その前に立つ、白い仮面の集団。
『記録は、奪うためにある。
存在を喰らい、運命を塗り潰す。
それが“選ばれなかった側”の意志だ』
敵──“記録喰い”たちの中枢。
その存在が、ついにこちらを認識した。
学校では、何事もなかったかのように時間が流れる。
けれど俺だけが、もう“前と同じ現実”には戻れなかった。
澪も、同じだった。
その日、彼女が見せてくれた新たな“記録”の中に、答えがあった。
──かつて“記録喰い”に襲われ、八咫烏の血を守るため命を落とした者たち。
──その中に、かつての俺がいた。
──澪は、その時も俺の隣にいた。
「私たちは、ずっと記録を渡されてきた。
でも今回は、“書き換える”番なの」
「……書き換える?」
「そう。“これまでの記録”じゃなく、“これからの選択”を刻む。
その鍵が──神永くん、あなたなの」
彼女の目はまっすぐだった。
俺が覚えている澪よりも、ずっと“意志を持った目”をしていた。
放課後、旧校舎の裏手。
再び“気配”を感じた。
背後に立った存在は、篁朧だった。
「お前の“血”が反応し始めたな。
これでようやく、八咫烏の本流が動ける」
「……俺は、何をすればいい」
「記録を護れ。
そして“喰われる前に、喰え”」
その言葉に、身体の奥がまた熱くなった。
俺は“喰らわれるだけの存在”じゃない。
自分の記録で、この世界に抗う力を持っている。
その夜。
夢の中で、また一人の人物と出会った。
──八城 総士。
彼は現実の総士とは違っていた。
仮面の奥から、冷たい瞳で俺を見下ろす。
『お前は何も変えられない。
繰り返すだけだ、神永哉』
「……だったら、その記録を俺が塗り潰す」
目覚めたとき、俺の手の中に一枚の紙があった。
誰が置いたか分からない。
けれど、そこにはこう書かれていた。
──“次は、記録の鍵を開けに来い”
風が吹いた。
カラスが鳴いた。
そして俺は、知っていた。
これが──最初じゃない。
でも、今度こそ“終わらせる”記録だ。
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