第五話 歪む現実、剥がれ始めた日常
空は、晴れていた。
青空の隅に、どこか不自然なノイズが混じっていた。
……視界が揺れた。
一瞬、現実の“皮”がめくれて、裏側の異質な何かが露出したような──そんな錯覚。
けれど、錯覚とは思えなかった。
あれは、何か“真実の断片”だった気がする。
登校中。
横断歩道を渡るとき、背後から誰かの視線を感じた。
振り返るが、そこには誰もいない。
だが、信号の反射板に映った“影”が一瞬だけ、俺とズレた。
腕の角度が逆だった。
頭の傾きが、まるで別人のようだった。
(……影が俺と違う動きを?)
寒気が背筋を走った。
誰かが、自分の中に入り込もうとしている。そんな直感があった。
学校に着くと、いつも通りの景色があった。
八城 総士は教室の中央でくだらない冗談を飛ばしていたし、
朝倉 澪は相変わらず、本を開いたままページをめくっていない。
けれど、ひとつだけ違っていた。
教卓に、知らない教師が立っていた。
「……誰だ、あの教師」
小さく呟く。
聞いたことのない声。見たことのない顔。
白髪混じりの無精髭に、古いジャケットを羽織った初老の男。
まるで時代遅れの映画から抜け出してきたような存在。
しかし──クラスメイトは誰一人として、違和感を覚えていない様子だった。
総士も、他の生徒も、普通にその男と会話していた。
まるで、初めから存在していたかのように。
(違う。昨日までは、いなかった。絶対に)
ペンを握る手が強張り、芯が折れた。
黒板の文字が滲んで見える。
耳の奥で、さっきから微かに“高周波”が鳴っていた。
ザザッ……というノイズの奥で、誰かの声が聞こえる。
──記録、監視範囲に異常発生。
干渉層、確認中。
教室の空気が、静かに歪む。
誰も何も気づいていない。
この“ズレ”を感じているのは、俺一人だけだった。
昼休み。
俺は渡り廊下に立っていた。
旧校舎へと続く窓の少ない通路。
光のないその空間に、風が吹き込んだ。
そして、いた。
篁 朧。
フードを深く被り、仮面をつけたその人物は、俺の視界の中心に立っていた。
「……また出てきたのか」
「お前が“視られる側”から、“視る側”になった証拠だ。
記録が動き始めている」
「記録……? それは……何だ?」
「魂に刻まれる因果そのもの。
お前は、すでに八度の死と再生を繰り返している。
今が“九回目”。もし次が起これば──」
そこで、朧の声が止まった。
「……消えるのか?」
「否。“記録から外れる”。
存在はするが、世界に影響を与えられない“無名の亡霊”になる」
沈黙。
風の音が、校舎の奥を通り抜ける。
「俺は、今の人生を覚えていない。
でも、手が動く。
戦い方も、感覚も、全部“覚えている”。
それが……記録ってやつか」
「お前の魂が刻んだ、最終防衛の残響だ。
本能ではなく、“意志”として選べ」
「選ぶ?」
「記録に呑まれるか、操るか。
お前がどちらかを選ばぬなら、いずれ誰かが“選ばせる”ことになる」
その言葉の意味を考えるよりも先に、
視界が切り替わった。
──炎。
──崩れた建物。
──瓦礫の中、銃を持つ自分。
──その銃口の先に、八城 総士がいた。
額から血を流しながら、笑っていた。
そして、撃たれた。
視界がフラッシュのように点滅する。
息ができない。
喉が焼ける。
「──神永ッ!」
現実に引き戻されたのは、澪の声だった。
気づけば、旧校舎の壁に手をついていた。
膝に力が入らない。
「大丈夫……? 顔、真っ青……」
「……夢を……見てた。けど、起きてるのに」
「神永くん。
今、あなたの中で“鍵”が開こうとしてるの。
私には見える。“扉”が揺れてる」
「……扉?」
「記録は、記憶じゃない。
記憶は消せても、記録は残る。
あなたが何者か思い出すたび、その記録は“力”になる」
「俺が、力を持っていた……ってことか?」
「ううん。“持っていた”んじゃない。
“持っている”。今も、ずっと」
その夜。
自室で、俺は壁にもたれながら深く呼吸を整えていた。
何もかもが、“本当の始まり”のように感じていた。
手を開く。
指がわずかに震える。
それは恐怖ではない。
何かが──俺の中から目を覚まそうとしている。
──感覚共有、起動。
その声が、頭の奥から聞こえた瞬間、
手が勝手に動いた。
机の上に置かれた鉛筆を、寸分のズレもなく掴む。
そして──投げた。
壁に突き刺さった鉛筆は、まるでナイフのように深く刺さっていた。
「……これは……俺じゃない」
でも、同時に理解した。
これは“俺の中の誰か”ではない。
俺自身なのだ。
眠っていた、“本来の俺”。
記録が開き始めている。
そして、それは俺に選ばせようとしている。
この記録を──“未来の武器”にするのか、
それとも、“過去の呪い”として抱えて死ぬのか。
選べ、神永 哉。
お前の物語は、ここからだ。
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