第三話 目覚めはまだ完全じゃない
桜の花が、風に煽られて舞った。
午前七時三十二分。校門の時計が、正確すぎて不気味だった。
踏みしめたアスファルトの感触が重い。
気のせいじゃない。地面が少しだけ“硬くなってる”気がする。
昨日と同じ道、同じ時間。でも、地面の摩擦係数だけが違う──そんなバカげた感覚に襲われていた。
俺の五感は、確実に“昨日の俺”じゃない。
教室に入る。
朝倉 澪がすでに着席していて、文庫本のページをゆっくりめくっていた。
その指先は、やけに繊細で、傷ひとつない。
俺の手の甲には、小さな擦り傷があった。
──昨日まではなかったはずの傷だ。
けれど、どうしてそれを断言できる?
それを“覚えている”根拠は、どこにある?
「おはよう」
澪が、また目を合わせずに言う。
けれど、その声には少しだけ温度があった。
昨日までとは違う、触れたら壊れそうな柔らかさ。
「……おはよう。昨日の話、覚えてる?」
「うん。……でも、全部じゃない。夢の中で、誰かに言われた気がするの。“言葉にしすぎると壊れる”って」
「……なんだそりゃ。呪いみたいだな」
「違うよ。これは“記録のゆらぎ”」
その言葉に、背中を冷たいものが這った。
“記録”。
昨日、あの異形が発した言葉。
「記録が干渉されている」──あれはただの幻覚じゃなかった。
澪は、言葉を選ぶように少し口を噤んだあと、静かに言った。
「神永くんの中に、“誰か”がいる気がするの。
その人が、あなたを守ろうとしてる」
ホームルーム後。
廊下を歩いていると、誰かが小走りで近づいてきた。
「よっす、神永!」
八城 総士。
今日もやけに元気で、周囲の空気を気にせず俺の肩を叩いてくる。
「マジでさあ、お前最近ほんとに様子おかしいって。夜更かししてんのか?それとも……彼女できた?」
「は?」
「違うの? いや、澪とさ、昨日一緒に帰ってたろ?うちのクラスで話題になってたぜ。ちょっとした噂の二人だわ」
「別にそういうんじゃ──」
「お、否定が雑だぞ。あー、こりゃ絶対怪しいな。ま、俺は応援するけどな」
くだらない。けど、ありがたい。
総士の軽口は、俺の精神を日常の水面に繋ぎ止めてくれる。
だが──その時、
“耳の奥”で、何かが弾けた。
チッ……という音。金属が摩耗して跳ねるような……異音。
総士の肩越しに見えた光景が、一瞬だけ“別の何か”にすり替わった。
教室の窓の外。
桜の木──のはずが、
そこに広がっていたのは、燃え上がる木々と、真っ黒な煙だった。
焦げた匂い。誰かの叫び。
砲声。
(……またか)
瞬間、手が勝手に反応していた。
脇腹を庇うように左腕を引き、右脚に力をためて一歩踏み込む──
──その構えは、完全に“殺しの型”だった。
「お、おい!? なにしてんだ神永!」
総士の声で、意識が現実に戻った。
「……ごめん。何でもない」
息が上がっていた。心臓が喉元までせり上がっている。
(俺の中に──何かがいる)
放課後。
校庭のベンチで、澪が空を見上げていた。
その姿は、何かを探しているようでもあり、祈っているようでもあった。
「お疲れ」
声をかけると、澪はゆっくりと目線を下ろした。
「さっき、黒板の文字が、一瞬だけ変わった気がしたの。
“明日の予定”って書かれてたところに、──“終わりが近づく”って文字が、重なってた」
「それ……見間違い?」
「かもしれない。でも、“かもしれない”って言ってるうちは、全部現実になる気がする」
ふと、視界の端に、影が差した。
振り返ると、校舎の非常階段の踊り場に、人影が立っていた。
ローブ。白い仮面。
また──あれだ。
「澪、下がって」
「……見えるの?」
「見える。昨日も、今日も。ずっとそこにいる気がする」
視線が重なる。仮面の奥に、何かがいる。
それが“敵”か“味方”か、わからない。
けれど──俺の中の“誰か”が、息を潜めていた。
「君は誰だ」
そう口にした瞬間、相手はふっと身を翻した。
風が吹き抜け、花びらが宙を舞った。
その瞬間、俺の視界に──別の光景が混ざり込んだ。
崩れ落ちる都市。
銃声。瓦礫。血。
そして──自分が、誰かを庇って撃たれている映像。
熱い。痛い。苦しい。
(でも──これは、“今”じゃない)
倒れ込んだ瞬間、何かが目の奥で点滅した。
それは、言葉にできない“記憶の断片”。
──お前は、まだ完全には目覚めていない。
脳内に、誰かの声が響いた。
それが“誰”なのか、俺にはまだわからない。
けれど、その声だけは──ずっと前から、俺の中にあった気がした。
目を開けると、澪が俺の腕を掴んでいた。
「ねえ……無理しないで」
その一言に、どうしようもなく救われた気がした。
この世界が何度目でも。
この記憶が何もなくても。
この手を、二度と離さないと決めた。