第二話 黒い鳥と、呼び覚まされる感覚
翌朝。
ノートに残された「またここからか」という走り書きが、頭から離れなかった。
あれは確かに俺の筆跡だった。
記憶にないのに、手が覚えていた。
手首の感触。ペンを握ったときの重さ。書き終えた後に走る軽い痺れ。
それらすべてが、“本物の自分”を証明していた。
だけど──思い出せない。
ただ、胸の奥がひどくざらついている。
喉の奥に微かな鉄の匂いを感じる。
あれは、きっと“現実じゃない現実”の匂いだ。
靴音を響かせながら、いつもの登校路を歩く。
少し湿ったアスファルト。
空は晴れているのに、頭の上に見えない雲がのしかかっているような感覚。
視界の端で、自転車のブレーキ音が引っかかる。
その音が、昨日の“銃声”と混ざった。
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
昇降口を抜け、教室に入る。
まるで舞台装置みたいに整った光景がそこにある。
同じ顔ぶれ。
同じ席順。
同じ雑音。
だけど、その整いすぎた空気に、俺だけがうまく混ざれない。
席に着くと、窓際から二つ前に座っている朝倉 澪が、文庫本を読んでいた。
顔を上げ、こちらをじっと見てくる。
「……眠れなかった?」
「……まあ」
言葉を濁した俺に、彼女はそれ以上追及せずに目を伏せた。
けれど、本のページをめくる手は止まっていた。
彼女の沈黙が、かえって問いかけのように感じた。
一時間目の現代文。
教師がチョークを黒板に走らせるたび、耳の奥で何かが軋む。
キリ、ギリ……カリッ。
金属が擦れる音。地面が裂ける音。
チョークの粉が視界に散るたび、閃光のような映像が頭の中に走った。
──瓦礫、煙、焼けた鉄の匂い。
──焼失した市街地。誰かが泣き叫んでいる。
(まただ……)
昨日と同じ。いや、それ以上。
映像の密度が濃くなっている。記憶じゃない、でも明らかに“蓄積”されていく感覚。
「神永ー?」
隣から、声が飛んできた。
八城 総士。いつもの調子で俺を覗き込んでくる。
「お前、マジでどうした? 顔、死んでんぞ。ゾンビ化したか?」
「……そう見える?」
「顔色でバレバレ。てか昨日、寝たのか?」
「正直、わからん。寝てたのか起きてたのかも曖昧だ」
「うわ、ガチなやつじゃん。寝ろよ。倒れるぞ?」
からかうような声。だけど、救われた。
総士の軽さは、俺をまだ“こっち側”につなぎ止めてくれている。
昼休み。
屋上には出ず、教室に残っていた。
外では風が吹いていた。強すぎず、でも確かに春の匂いを運んでくる。
だけど──それが“知らない匂い”だった。
春って、もっと……こんなだったか?
鼻孔を通り抜ける香りに、見たことのない土地の土の匂いが混ざっている気がした。
それが、恐ろしくてたまらなかった。
放課後。
昇降口に差し込む夕陽が、床に長く伸びている。
靴を履き替えた俺の背後から、静かな声が届いた。
「……少し、歩かない?」
朝倉 澪。
その声音には、確かな“迷い”と“確信”が入り混じっていた。
俺は無言で頷いた。
駅まで続く歩道橋を、並んで歩く。
彼女は前を向いたまま、ふと問いかける。
「夢、見てない?」
「……最近は。というか、見てるのかどうかもよくわからない」
「たとえば、“何かを忘れている”って、感じたことは?」
その一言が、胸に突き刺さった。
ただの雑談には思えなかった。
彼女は“俺が忘れていること”を、まるで知っているようだった。
「……ああ、ある。理由もないのに、“懐かしさ”だけが先に来るときがある」
「じゃあ、もう……始まってるのかもしれないね」
「……何が?」
彼女は少しだけ黙り込んでから、言った。
「夢の中でね、私、何度も同じ場所に立ってるの。
空が赤く染まってて、黒い鳥が飛んでる。足が三本で、羽が燃えてるみたいに広がって……。
怖いはずなのに、守られてる感じがする」
三本足の鳥。
その言葉を聞いた瞬間、足が止まった。
心臓が“ドクン”と脈打つ。
理由なんてない。けど、それだけは──確かに、知っている存在だった。
駅のホーム。
人の流れの中、澪はもう何も言わなかった。
別れ際に俺が振り返ったとき、彼女はまだこちらを見ていた。
その目には、何かを“託す”ような静けさが宿っていた。
帰り道。
夜の街をひとり歩く。
電灯の明かりが、一つだけパチ、と明滅した。
そのとき、視界の端に──**“誰か”がいた。**
ローブ。仮面。
声は聞こえない。けれど、視線だけが確かにそこにあった。
次の瞬間にはもう、誰もいなかった。
ただ、風だけが吹いていた。
季節風ではない。
それは──過去から吹いてきた、記憶の風だった。
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