第十九話 戻れない距離
本日も最後まで読んで頂きありがとうございます。
少し短く感じますがどうぞ宜しくお願いいたします。
朝の教室は、整いすぎていた。
机は並び、椅子は引かれ、窓は開いている。
欠けた席にも、もう誰も触れない。
人は、慣れる。
それが生きるための性質だと、分かってはいる。
だが、その速度が速すぎると、胸の奥がざらつく。
総士は、昨日から席を変えた。
誰に言われたわけでもない。
自然に、人の少ない列へ移っただけだ。
距離を取るという選択が、すでに形になっている。
澪は、変わらない。
変わらないことを、選んでいる。
視線は全体を捉え、声は出さない。
留めない覚悟を決めた錨は、静かだ。
(……俺は)
束ねる者として、俺は二人の間に立つ。
間に立つというのは、
両方を等しく見ることじゃない。
両方が離れていくのを、止めないことでもある。
一時間目の途中、廊下がざわついた。
担任が教室を出て、戻ってくる。
顔色が、明らかに違う。
「……神永、澪。
放課後、校長室に来てくれ」
教室の空気が、きゅっと締まる。
理由を問う声は、誰からも出なかった。
放課後。
校長室の前で、篁朧が待っていた。
「……来るわね」
その一言で、覚悟は固まる。
校長室に入ると、校長と教頭、そして見慣れない大人が一人いた。
スーツ姿。
だが、教育委員会の雰囲気とは違う。
視線が、冷たい。
「……本日は」
校長が、言葉を選びながら話し始める。
「最近、校内外で起きている一連の“偶然”について、
確認が必要になった」
偶然。
その言葉が、空虚に響く。
「生徒間で、特定の生徒に“頼りすぎる”傾向が見られる」
視線が、澪に向く。
「場を安定させる存在として、
無意識に依存が生まれている」
澪は、何も言わない。
校長が、次に俺を見る。
「神永。
君は、その中心にいると報告を受けている」
「……事実ですか」
俺は、静かに答えた。
「中心ではありません」
事実だ。
「繋がっているだけです」
沈黙。
スーツの男が、初めて口を開いた。
「……曖昧な表現だ」
低い声。
「だが、曖昧なものほど、管理が難しい」
管理。
その言葉で、はっきりした。
(……世界が、直接来た)
「校としては」
校長が続ける。
「これ以上、
“個人に負荷が集中する状態”を放置できない」
それは、正論だ。
だが、
正論ほど、選択を狭めるものはない。
「そこで」
教頭が、書類を差し出す。
「いくつか、提案がある」
内容は、淡々としていた。
・クラス替えの前倒し
・部活動の制限
・特定生徒同士の接触頻度の調整
――分断。
露骨な言葉はない。
だが、意味は一つだ。
「……総士は」
俺は、聞いた。
「彼については、別途」
スーツの男が言う。
「本人にも、話をする」
それが、決別の合図だった。
校長室を出ると、
澪が、深く息を吐いた。
「……来たね」
「ああ」
俺は、頷く。
「世界は、
“個人の選択”を
制度で切り離しに来た」
廊下の先で、総士が待っていた。
何も聞かなくても、
彼は察していた。
「……俺、呼ばれた」
「そうか」
短い会話。
それで、十分だった。
放課後の校庭。
三人で立つ。
距離は、ほんの数歩。
だが、昨日よりも遠い。
世界は、
“一緒にいること”を許さなくなった。
第一章の終わりは、
もうすぐだ。
それは、爆発でも崩壊でもない。
静かな決別。
戻れない距離が、
ゆっくりと形を持ち始めている。
総士が呼ばれたのは、校長室ではなかった。
職員室の奥。
普段、生徒が足を踏み入れない小さな会議室。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
中にいたのは三人だった。
担任。
教頭。
そして、あのスーツの男。
「……君は、優秀だ」
開口一番、男はそう言った。
「反射神経も判断力もある。
周囲からの信頼も厚い」
褒め言葉のはずなのに、
総士の背中は強張った。
「だが」
一拍置く。
「その“期待”が、
君自身を危険に晒している」
総士は、黙って聞いている。
「最近、校内で起きている偶発的な事象」
男は、資料を机に置く。
「君が関与した場面が、
統計的に多い」
「……偶然です」
総士が、低く言う。
「偶然でも、結果は結果だ」
教頭が、淡々と続ける。
「学校としては、
君を“守る必要”がある」
守る。
その言葉が、
何かを奪う前触れであることを、
総士は本能的に理解していた。
「そこで」
担任が、視線を逸らしながら言う。
「しばらく、
自宅学習という形を取らないか」
空気が、止まった。
「……停学ですか」
「違う」
即答。
「処分ではない。
あくまで、配慮だ」
総士は、拳を握る。
「俺が、
何か悪いことをしたんですか」
誰も、すぐには答えなかった。
沈黙が、答えだった。
悪いことをしたわけじゃない。
ただ、“都合が悪い”。
それだけだ。
「……分かりました」
総士は、短く言った。
それ以上、何も言わなかった。
会議室を出ると、
廊下の光がやけに眩しかった。
外では、部活帰りの生徒たちが笑っている。
いつもの放課後。
その中に、
もう自分はいない。
校門の外で、俺と澪は待っていた。
総士の顔を見た瞬間、
答えは分かった。
「……決まったか」
「ああ」
総士は、笑ってみせる。
「しばらく、
学校来なくていいってさ」
澪が、息を呑む。
「……そんな」
「停学じゃねえ」
総士は、肩をすくめる。
「“配慮”だって」
その言葉が、
皮肉にしか聞こえなかった。
三人で、しばらく黙って立つ。
夕焼けが、校舎を染めている。
「……俺さ」
総士が、ゆっくり言う。
「分かってた」
「何を」
「こうなるって」
視線を、空に向ける。
「名を持った時点で、
普通から外れるって」
澪が、小さく言う。
「……それでも、
一緒にいられると思ってた」
「俺も」
総士は、頷く。
「でも、世界はさ」
一拍、置く。
「同じ場所に立たせてくれない」
その通りだった。
力を持つ者を、
集団の中に置き続けるほど、
世界は優しくない。
「……どうする」
俺が、聞く。
総士は、迷わず答えた。
「離れる」
その言葉は、
逃げでも投げやりでもなかった。
「でも」
拳を握る。
「切れねえ」
視線が、俺と澪を貫く。
「繋がりまで、
奪わせるつもりはねえ」
澪が、静かに頷いた。
「……場所が違っても、
選択は、同じ方向を向ける」
それは、錨としての答えだ。
俺は、胸の奥で何かが静かに固まるのを感じた。
――ここだ。
ここで、
“全員を同じ場所に置く”という幻想を、
完全に捨てる必要がある。
「……総士」
俺は、はっきり言った。
「一時的に、
物理的な距離は取れ」
「分かってる」
「だが」
一歩、踏み出す。
「繋ぎ方は、
俺が考える」
総士が、少しだけ笑った。
「……頼む」
それは、初めて見せる
“委ねる表情”だった。
その瞬間。
遠くで、何かが軋む感覚がした。
世界が、
こちらの選択を
“確認”している。
別れは、
まだ完全じゃない。
だが、
戻れない距離は、
もう確定した。
第一章の終わりは、
目前だ。
総士が学校に来なくなった。
その事実は、思っていた以上に静かに広がった。
最初の一日は、
「今日は休みか?」
そんな軽い声で流される。
二日目には、
「しばらく来ないらしい」
と噂に変わる。
三日目には、
もう誰も口にしなくなった。
人は、空いた場所にすぐ慣れる。
それが、救いでもあり、残酷さでもある。
教室の窓際。
総士が移動していた席は、最初から誰のものでもなかったかのように扱われていた。
澪は、変わらず登校している。
だが、彼女の周囲には、微妙な距離が生まれていた。
話しかけられないわけじゃない。
避けられているわけでもない。
ただ、
「近づきすぎない」
そんな無言の了解が、場に広がっている。
錨は、そこにいるだけで空気を変える。
だからこそ、人は距離を測る。
昼休み、屋上。
俺と澪は、フェンス越しに空を見ていた。
「……静かだね」
「そうだな」
総士がいないだけで、
こんなにも音が減るとは思わなかった。
「私、分かった」
澪が、ぽつりと言う。
「留めるって、
“皆を守る”ことじゃない」
「どういう意味だ」
「戻れない距離を、
ちゃんと距離として存在させること」
それは、逃げでも諦めでもない。
現実を、現実として扱う覚悟だ。
放課後、俺は一人で帰った。
通学路の途中、
いつも三人で通っていた横断歩道で立ち止まる。
信号が変わる。
人の流れに混じって歩き出す。
だが、隣に誰もいない。
その空白が、胸に残る。
夜。
総士から、短いメッセージが届いた。
《今日、外出た》
すぐに返す。
《どうだった》
《静かだった》
少し間が空く。
《でも、悪くなかった》
それだけで、十分だった。
彼は、孤立していない。
距離を取っているだけだ。
澪からも、別の夜にメッセージが来た。
《哉くん
今日ね
誰かに“大丈夫?”って聞かれた》
《どう答えた》
《“大丈夫じゃないけど
ここにいる”って》
それが、錨の在り方だ。
俺は、空白を開いた。
そこに浮かぶ言葉は、短い。
『繋がりは、距離で壊れない』
だが、続きがあった。
『同じ場所にいなければ、
同じ選択はできない』
それが、今の現実だ。
数日後。
校内で、小さな異変が起きた。
体育館での集会中、
一瞬だけ、照明が落ちた。
ざわめき。
すぐ復旧。
だが、俺には分かった。
あれは、事故じゃない。
“均衡がズレた”。
総士がいない。
澪が留めきれない場がある。
俺は、全体を束ねきれていない。
世界は、はっきりと示してきた。
次は、もっと大きく来る。
放課後、澪が言った。
「……次、奪われるのは
場所じゃない」
「分かってる」
「関係、だよね」
「ああ」
それは、取り戻せないものだ。
だからこそ、
失う前に、選ばなければならない。
第一章は、
もう後戻りしない地点に来ている。
次に来るのは、
決別の完成か、
それとも――
新しい繋がりの形か。
答えは、
第ニ十話で出る。




