第十五話 名を得るもの
放課後の校舎は、奇妙な静けさに包まれていた。
人がいないわけじゃない。
部活に向かう足音も、笑い声もある。
それでも、空気が一様に“同じ方向”を向いている。
集会の準備。
それが理由だと、誰もが思っている。
だが、俺には分かる。
これは、世界が意図的に人を集めようとしている。
体育館へ向かう通路で、澪が隣を歩いていた。
「……嫌な感じだね」
「同感だ」
「防災集会って名目なのに、
“守られる側”に集められてる気がする」
その感覚は正しい。
世界は、個人より集団を扱う方が楽だ。
均すなら、まとめての方がいい。
「……総士は?」
「先に行ってる」
澪は少しだけ視線を落とした。
「昨日から、総士……変わってきてる」
「自覚してるか?」
「してると思う」
それが、一番危うい。
体育館の扉を開けると、生徒たちが整然と座っていた。
いつもより、無駄な私語が少ない。
壇上には、校長と数名の教師。
その中に、篁朧の姿もあった。
彼女は俺を見ると、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
合図だ。
“ここからは、観測が始まる”。
集会が始まる。
校長の話は、どこにでもある内容だった。
災害時の行動。
集団での安全確保。
だが、その言葉の端々に、違和感が滲んでいる。
「一人で行動しないこと」
「指示に従うこと」
「勝手な判断をしないこと」
そのすべてが、俺たちに向けられている気がした。
ふと、背筋に冷たいものが走る。
壇上の影。
教師たちの背後、壁際に、もう一つ影がある。
それは、誰のものでもない。
観測者だ。
名を得たことで、存在が安定している。
だが、まだ輪郭は曖昧だ。
(……堂々と出てきたな)
観測者は、動かない。
ただ、見ている。
生徒一人一人を、ではない。
全体を。
世界は今、個人の選択ではなく、
集団の反応を測っている。
その瞬間、総士が小さく息を呑むのが分かった。
彼の視線が、壇上ではなく、自分の手に落ちている。
「……総士」
声をかけようとして、やめた。
彼は今、自分の中で起きている変化を確認している。
邪魔すべきじゃない。
澪が、俺の袖を軽く引く。
「……哉くん」
「見えてるな」
「うん。
でも……」
澪は、観測者の影から目を離さずに言った。
「私たちだけじゃない」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
体育館のあちこちで、
“気づいてしまった”生徒が、わずかに息を詰めている。
視線が合う。
すぐ逸らされる。
全員じゃない。
だが、確実に増えている。
保持者未満。
だが、無関係でもない存在。
集会が終わる直前、観測者が初めて動いた。
影が、僅かに前に出る。
言葉はない。
だが、はっきりと“宣言”があった。
――ここから、個人は隠れられない。
心臓が、静かに強く打つ。
集会終了の合図。
生徒たちが立ち上がる。
その混乱の中で、観測者の影は、俺のすぐ横に現れた。
「……神永哉」
今回は、はっきりと聞こえた。
「確認は、次の段階に入る」
「……何をするつもりだ」
「選別だ」
短い答え。
「役割を持つ者と、持たない者」
澪と総士が、同時にこちらを見る。
観測者は、三人を見比べるように視線を巡らせた。
「君たちは、もう“偶然”ではない」
影が、ゆっくりと薄れる。
「名を得るとは、
戻れなくなるということだ」
次の瞬間、観測者はいなくなった。
ざわめきの中で、誰も異変に気づかない。
だが俺たちは、確信していた。
今日を境に、
世界は“選別”を始めた。
第一章の終わりが、
はっきりと見え始めている。
集会が終わった後の体育館は、奇妙な熱を帯びていた。
生徒たちは一斉に立ち上がり、出口へ向かう。
いつもなら騒がしくなるはずのその時間帯に、今日は無駄な声が少ない。
誰もが、理由の分からない緊張を抱えたまま動いている。
観測者の影は、もう見えない。
だが、消えたわけじゃない。
(……見てる)
視線の感覚だけが、確実に残っている。
「哉くん」
澪が、低い声で呼ぶ。
「さっきの集会……
“安全”って言葉、多すぎなかった?」
「気づいたか」
「うん。
安全、管理、指示、統制……
守るための言葉なのに、全部“縛る側”の言葉だった」
それは、世界の論理だ。
例外が増えたとき、世界は自由ではなく秩序を選ぶ。
体育館を出ると、篁朧が廊下の先で待っていた。
「来なさい」
それだけ言って、踵を返す。
迷う理由はなかった。
保健室に入ると、カーテンがすべて閉められていた。
外の光が遮断され、空間が一段落ち着く。
「……始まったわ」
篁は、座る前からそう言った。
「選別が?」
「ええ」
机の上に、数枚の紙を置く。
名簿。
だが、クラス名簿とは微妙に違う。
「これ……」
「“気づいた者”のリストよ」
澪が、思わず息を呑む。
「こんなに……?」
「まだ初期段階」
篁は淡々と言う。
「でも、観測者が“視認”した以上、
この中から役割が固定されていく」
「固定、って……」
「逃げられなくなる」
総士が、奥歯を噛みしめる。
「……俺も、入ってるな」
名簿の中に、総士の名前があった。
澪の名前も。
そして、俺の名前は、赤いペンで丸が付けられている。
「これは?」
「“基準点”」
篁の声が、わずかに低くなる。
「観測者は、あなたを中心に見ている」
それは、覚悟していた答えだ。
「……で、どうなる」
「段階的に、試される」
篁は、窓の方を見る。
「軽い異変。
個人的な選択。
集団の中での役割」
「体育館は、その第一段階」
「そう」
澪が、静かに口を開く。
「……私たち、危険視されてる?」
「ええ」
篁は、否定しなかった。
「世界にとって、あなたたちは“不確定要素”よ」
沈黙が落ちる。
その重さを破ったのは、総士だった。
「……じゃあさ」
彼は、真っ直ぐ篁を見る。
「俺が、名を持ったらどうなる」
一瞬、篁の表情が揺れた。
「……総士くん」
「冗談じゃねえ」
彼は続ける。
「俺、昨日からずっと感じてる。
“動かなきゃいけない”って」
それは、名を得る直前の感覚だ。
「名を持つってことは」
総士は、俺を見る。
「逃げられなくなるってことだろ」
「ああ」
「……それでも」
拳を握る。
「逃げねえ」
澪が、そっと総士の袖を掴む。
「総士……」
「分かってる」
彼は、少しだけ笑った。
「一人で背負うつもりはねえよ」
その言葉が、俺の胸に深く刺さる。
分散。
それは、正しい。
だが、楽な道じゃない。
「……神永くん」
篁が、俺を見た。
「あなたは、どうする」
問いは、重い。
俺は、少しだけ考えてから答えた。
「選別を、拒否する」
「……完全に?」
「完全には無理だ」
正直に言う。
「でも、“名を与える権利”を世界に独占させない」
篁の目が、わずかに見開かれる。
「……それは」
「俺たち自身で、役割を選ぶ」
澪を見る。
「留まる人」
総士を見る。
「動く人」
そして、自分。
「束ねる人」
その瞬間、空気が揺れた。
保健室のカーテンが、風もないのに揺れる。
「……来たわね」
篁が、低く言う。
影が、壁に浮かび上がる。
さっきよりも、はっきりとした輪郭。
観測者だ。
今度は、逃げない。
「確認を続行する」
静かな声。
「総士」
名前を、呼ばれた。
総士の背中が、僅かに強張る。
「君は、動く可能性を持つ」
「……ああ」
「名を与えれば、固定される」
観測者の視線が、澪に移る。
「澪。
君は、留める」
そして、俺。
「神永哉。
君は、中心だ」
胸が、静かに鳴る。
観測者は、淡々と告げた。
「次の段階で、
いずれか一人に“名”が与えられる」
それは、宣告だった。
選択は、近い。
逃げ道は、もうない。
世界は、はっきりと牙を剥いた。
保健室の空気が、わずかに沈んだ。
観測者の影は、壁から床へと滑り落ち、そこに“立っている”かのような輪郭を得る。
光は遮られていないのに、影だけが濃い。
「次の段階で、名が与えられる」
淡々とした声。
感情はない。だが、ためらいもない。
篁朧が一歩前に出た。
「段階を進める権限は、あなたにない」
「権限は、世界にある」
観測者は即答する。
「そして今、世界は不安定だ」
澪が、静かに問い返した。
「……不安定なのは、私たちのせい?」
「原因の一部だ」
観測者は否定しない。
「だが、主要因ではない」
「じゃあ、何?」
総士の声に、苛立ちはない。
ただ、覚悟が滲んでいる。
「“単独引き受け”が破棄された」
観測者は俺を見る。
「君が、選んだからだ」
胸の奥が、静かに鳴った。
「世界は、単純な解を好む。
一点に集約し、管理し、修復する」
「……だから俺を使おうとした」
「そうだ」
観測者は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「だが、君は分散を選んだ。
世界は、それを否定しきれなかった」
否定しきれなかった。
それが、今の状況を生んでいる。
「だから」
観測者は続ける。
「“名”が必要になった」
「名を与えて、固定する」
俺が言う。
「分散を、再び管理下に置くために」
観測者は、何も言わない。
沈黙が、肯定だった。
澪が、深く息を吸う。
「……最初の名は、誰に?」
その問いに、空気が張り詰める。
観測者の視線が、三人を順に辿る。
総士。
澪。
そして、俺。
「最初は」
低い声。
「“動く者”だ」
総士の名前は、呼ばれなかった。
だが、意味は明白だった。
「……俺か」
総士が、短く言う。
声は落ち着いている。
「与えられる名は、仮だ」
観測者は告げる。
「だが、仮でも名は名だ。
一度呼ばれれば、役割は戻らない」
澪が、総士の袖を強く掴む。
「待って。
それって……」
「逃げられなくなる」
観測者が、淡々と補足する。
総士は、澪の手をそっと外した。
「……大丈夫だ」
その言葉は、誰かを安心させるためじゃない。
自分に言い聞かせるための声だった。
俺は、一歩前に出る。
「条件がある」
観測者の視線が、俺に向く。
「名は、世界が一方的に与えるものじゃない」
「……続けろ」
「本人の選択がなければ、成立しない」
観測者は、しばらく黙った。
そして、静かに言う。
「正しい」
その一言に、篁が目を細めた。
「……つまり」
「選択の場を、設ける」
観測者の影が、僅かに広がる。
「今夜。
校外で」
胸が、強く打った。
「条件は、三つ」
観測者は指を立てる。
「一。
総士が、自ら前に出ること」
「二。
澪が、留まり続けること」
「三。
神永哉が、束ね続けること」
それは、分散の構造そのものだ。
「成立すれば、名は“確定”する」
「成立しなければ?」
「世界が、より単純な解を選ぶ」
――単独引き受け。
それが、脅しであることは明白だった。
総士が、静かに笑った。
「……分かりやすいな」
「選びやすいだろう」
「いや」
総士は、首を振る。
「逃げ道が、ないだけだ」
澪が、俺を見る。
「……哉くん」
「ああ」
短く答える。
「今夜だ」
観測者の影が、薄くなり始める。
「確認は、続行中だ」
最後に、はっきりと告げる。
「名は、役割を完成させる。
そして役割は、世界を変える」
影が消え、保健室は元の静けさを取り戻した。
だが、誰も動けなかった。
「……行くの?」
澪が、静かに言う。
「行く」
総士が即答する。
「逃げねえって、決めた」
俺は、二人を見る。
「一人じゃ、やらせない」
それだけで、十分だった。
夜。
帰り道の空は、やけに低く感じられた。
街灯の光が、足元を照らす。
その影が、三人分、重なって伸びている。
今夜、最初の“名”が生まれる。
それは、祝福じゃない。
呪いでもない。
選び続ける覚悟が、形を持つだけだ。
第一章は、終盤に入った。
世界は、もう後戻りを許さない。
それでも、俺たちは歩く。
一人じゃないやり方で。
最後まで読んで頂きありがとうございますm(_ _)m




