第十四話 名を持たぬ来訪者
その朝、校内に妙な噂が流れていた。
「昨日さ、誰もいない教室で人影見たらしいぞ」
「いや、体育館の裏だって」
「先生が廊下で立ち止まってたの、見た?」
どれも曖昧で、どれも決定打に欠ける。
けれど共通しているのは一つだけ。
誰も“確信”を持っていない。
違和感が、共有され始めている。
俺は、朝のホームルームが始まる前から分かっていた。
これはもう、偶然じゃない。
問いが、歩き始めている。
「……哉くん」
澪が、声を落として呼ぶ。
「聞こえてる?」
「ああ」
彼女が言わなくても分かる。
教室の外、廊下の向こう。
誰かが、立っている。
担任が入ってきて、ホームルームが始まる。
出席。連絡事項。いつも通りの流れ。
だが、廊下側の窓ガラスに映る影が、一人分多い。
誰も気づかない。
だが俺と澪は、同時に視線を逸らした。
見てはいけない。
だが、見逃してもいけない。
その矛盾が、胸を締め付ける。
授業中、ノートを取っていると、文字が一瞬だけ変形した。
――問い。
そう読めた。
次の瞬間、元に戻る。
教師も、生徒も、誰一人気づいていない。
昼休み、総士が珍しく黙り込んでいた。
「……なあ」
「どうした」
「さっき、俺の後ろにさ」
言葉を選んでいる。
「“誰か”がいた」
俺は、静かに頷いた。
「顔は?」
「見えない。
でも……」
「でも?」
「俺のこと、知ってた」
その一言で十分だった。
午後の授業が終わり、放課後。
校舎は、いつもより人が少なく感じられた。
帰宅部の生徒が減ったわけじゃない。
空間そのものが、広がっている。
篁朧が、昇降口で俺を待っていた。
「来たわね」
「……もう、隠す段階じゃないですね」
「ええ」
彼女は、珍しく即答した。
「“来訪者”が、校内に入った」
その言葉に、澪が息を呑む。
「来訪者……?」
「記録の外から来た存在よ」
篁は続ける。
「余韻が意思を持った、
でも、まだ“敵”と呼ぶには早い存在」
「……名前は」
「ない」
その答えは、逆に重かった。
「名を持たないものは、定義されていない。
定義されていない存在は、何にでもなれる」
校舎の奥から、かすかな足音が響いた。
一歩。
また一歩。
こちらに近づいてくる。
「神永くん」
篁が、低く言う。
「これは、あなた宛てよ」
廊下の曲がり角から、誰かが姿を現した。
制服ではない。
教師でも、生徒でもない。
それなのに、違和感なく“ここにいる”。
顔ははっきりしない。
だが、視線だけは真っ直ぐこちらを向いている。
胸の奥が、静かに軋んだ。
――見つけた。
言葉ではない声が、確かに届いた。
俺は、一歩前に出る。
「……用件は」
来訪者は、ほんの少し首を傾げた。
そして、初めて“言葉”を発した。
「確認に来た」
低く、落ち着いた声。
「君が、引き受け続けるに値するかどうかを」
世界が、はっきりと問いを突きつけてきた。
ここから先は、
もう“偶然”ではない。
来訪者は、校舎の廊下に立ったまま動かなかった。
距離は、十歩ほど。
近すぎず、遠すぎない。
逃げることも、踏み込むこともできる距離。
だが、そのどちらも選ばせない、曖昧な間合いだった。
「確認、って言ったな」
俺が言う。
「何を確認する」
来訪者は、ゆっくりと首を傾けた。
その動きは、人間とまったく同じだ。
だが、中身が伴っていない。
「単純なことだ」
低い声。感情はない。
「君が、どこまで引き受けるか」
澪が、俺の隣で一歩踏み出しかける。
「澪、止まれ」
小さく制すると、彼女は唇を噛んで踏みとどまった。
来訪者の視線が、一瞬だけ澪に向く。
それだけで、空気が沈んだ。
「……彼女は」
来訪者が言葉を続ける。
「留め具だな」
その一言で、背中を冷たいものが走った。
「錨、支点、どちらでもいい。
だが役割を自覚している」
澪が、静かに息を吸う。
「……それが、何か問題?」
来訪者は否定も肯定もしない。
「問題ではない。
条件だ」
「条件?」
「彼女が留まるなら、
誰かが前に出る必要がある」
視線が、俺に戻る。
「君だ」
篁朧が、一歩前に出た。
「ここは学内よ」
静かな、しかしはっきりとした声。
「あなたは、許可なく介入している」
来訪者は、初めて篁を認識したように首を向けた。
「番人」
「そう」
「……興味深い」
その言葉は、評価だった。
「だが、今は君の役割ではない」
篁は表情を変えない。
「なら、誰の役割?」
「世界の役割だ」
その瞬間、廊下の照明が一斉に明滅した。
ぱち、ぱち、と不規則な音。
誰かが遠くで叫んだ気がしたが、すぐに消える。
空間が、切り取られる。
廊下の先も、背後も、急に遠くなった。
「……閉じたな」
総士が、歯を食いしばる。
「局所的な観測領域」
篁が即座に判断する。
「生徒には、後で“何もなかった”として処理される」
来訪者は、ゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。
近づくたびに、圧が増す。
「君は、すでに一度答えた」
来訪者が言う。
「体育館で」
記憶が、鮮明に蘇る。
「起きなかった事故を、固定した」
「……それが、何だ」
「世界は、その選択を“承認”した」
来訪者の声は淡々としている。
「だが、承認は無期限ではない」
立ち止まる。
距離は、五歩。
「更新が必要だ」
「……更新?」
「そう」
来訪者は、初めて“笑ったように見えた”。
「引き受け続ける意志があるかどうか」
澪が、強く言った。
「そんなの、本人が決めることでしょ」
「その通りだ」
来訪者は即答する。
「だから、選択肢を提示する」
床が、軋んだ。
廊下の床に、薄い影が浮かび上がる。
人の形。
複数。
子ども。
大人。
どれも、見覚えのない顔。
「……何だ、これは」
「可能性」
来訪者が言う。
「今後、起きる事故。
未然に防げるもの。
防げないもの」
影の一つが、濃くなる。
階段から落ちる少女。
もう一つは、交差点で立ち止まる老人。
胸が、苦しくなる。
「君が介入すれば、救える」
来訪者は続ける。
「だが、その分、歪みは君に蓄積される」
「……介入しなければ」
「世界が処理する」
つまり、起きる。
死なないかもしれない。
だが、確実に“傷”は残る。
総士が、低く唸る。
「……クソだな」
俺は、歯を食いしばった。
これは、試験だ。
救うか。
見送るか。
どちらを選んでも、代償がある。
「……お前」
俺は来訪者を見る。
「俺が全部引き受けたら、どうなる」
来訪者は、少しだけ間を置いた。
「君は、いずれ壊れる」
「だろうな」
「だが、その間に多くが救われる」
澪が、震える声で言った。
「……それは、間違ってる」
来訪者は、澪を見る。
「なぜ」
「一人が壊れる前提で、
他を救うのは……」
言葉に詰まる。
俺が、代わりに続けた。
「それは、世界が楽をするだけだ」
空気が、ぴたりと止まった。
来訪者の視線が、俺に固定される。
「……続けろ」
「世界は、俺を使って均衡を保とうとしてる」
胸の奥が、熱くなる。
「でも、それは“選択”じゃない。
押し付けだ」
来訪者は、初めて沈黙した。
「俺は、全部は引き受けない」
はっきり言う。
「でも、見捨てもしない」
「矛盾している」
「そうだ」
俺は、笑った。
「だから、やり方を変える」
篁が、息を呑む。
「神永くん……」
「支点も、錨も、俺一人じゃない」
澪を見る。
総士を見る。
「分散させる」
来訪者の影が、僅かに揺れた。
――想定外。
そんな感覚が、確かに伝わってくる。
「……それは」
「世界にとって、不都合か?」
来訪者は、答えなかった。
だが、沈黙そのものが答えだった。
不都合なのだ。
世界は、単一の引き受け手を望む。
管理しやすいからだ。
「……次は、後編だな」
総士が、半ば冗談めかして呟く。
だが、誰も笑わなかった。
来訪者は、ゆっくりと後退する。
「結論は、まだ出ていない」
「そうだな」
俺は答える。
「でも、逃げない」
「……確認は続く」
来訪者の輪郭が、薄くなる。
「次は、より具体的な形で来る」
そして、消えた。
照明が、元に戻る。
廊下の奥から、生活音が戻ってくる。
世界が、何事もなかったかのように再接続される。
だが、俺たちは分かっていた。
今日、はっきりした。
問いは、人格を持った。
そして、交渉が始まった。
来訪者が消えた廊下は、あまりにも普通だった。
遠くで部活の掛け声が聞こえ、階段を駆け下りる生徒の足音が反響する。
数分前まで、世界が切り取られていた痕跡はどこにもない。
だが、確実に“話は終わっていなかった”。
「……名を持たない、か」
総士が、低く呟く。
「一番厄介なやつだな」
「ええ」
篁朧が頷く。
「名を持たない存在は、まだ役割が固定されていない。
つまり――これから“決まる”」
澪が、静かに問いかけた。
「……誰が、決めるの?」
篁は、迷いなく答える。
「あなたたちよ」
その言葉が、重く落ちた。
来訪者は、ただ確認に来たのではない。
世界が用意した“型”に、俺を嵌められるかどうかを測りに来た。
そして俺は、そこから外れる選択をした。
「……反動は来ますよね」
俺が言う。
「ええ」
篁は視線を逸らさず答えた。
「しかも、かなり分かりやすい形で」
その予感は、すぐに現実になった。
校舎を出て、三人で歩いている途中。
前方で、急に人の流れが止まった。
「……?」
通行人の視線が、一点に集まっている。
横断歩道の真ん中。
一人の小学生が、立ち尽くしていた。
信号は赤。
車が、すぐそこまで来ている。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
だが、子どもは動かない。
まるで、時間が止まっているかのように。
俺の視界が、揺れた。
重なる未来。
轢かれる未来。
誰かが助ける未来。
そして、そのすべての“分岐点”が、俺に向いている。
――選べ。
はっきりと、来た。
「……哉くん」
澪が、俺を見る。
その目には、覚悟があった。
俺は、深く息を吸った。
「……一人じゃやらない」
そう決めたはずだ。
「澪」
「うん」
「今だ」
澪が、一歩踏み出す。
彼女が近づくと、世界の揺れが一瞬だけ落ち着いた。
総士が、迷わず走り出す。
「おい! 動け!」
子どもの肩を掴み、歩道側へ引き戻す。
次の瞬間、車が通り過ぎる。
何事もなかったかのように。
周囲から、安堵の声が上がる。
「よかった……」
「びっくりした……」
だが、俺には分かっていた。
これは“偶然”じゃない。
来訪者の、最初の反動だ。
世界は、俺に直接引き受けさせなかった。
その代わり、分散させた。
澪が“留め”、
総士が“動かし”、
俺が“選択を束ねた”。
来訪者の影が、視界の端に浮かぶ。
誰にも見えない位置で。
――なるほど。
そんな感情が、確かに伝わってくる。
――それが、君の答えか。
俺は、心の中で返した。
(ああ。これが答えだ)
影は、ゆっくりと薄れていく。
だが、完全には消えない。
――次は、もっと複雑だ。
――そして、その時は……名を持つ。
その感覚が消えたとき、俺は膝の震えに気づいた。
「……大丈夫?」
澪が、そっと声をかける。
「ああ」
息を整える。
「今回は、うまくいった」
「今回は、な」
総士が、苦笑する。
「でもさ」
「ん?」
「俺、分かった」
彼は、真剣な目をしていた。
「逃げないって決めるのは、
一人で立つことじゃないんだな」
その言葉に、澪が小さく頷く。
「うん。
留まる人も、必要だよ」
篁は、少しだけ微笑んだ。
「……あなたたち、やっと“戦い方”を見つけたわね」
戦い方。
それは、壊さないための方法。
夜、自室で机に向かう。
空白のページが、静かに開いている。
そこに、初めて“確定した文字”が浮かんだ。
『単独引き受け:却下』
俺は、思わず笑った。
「……上等だ」
名を持たぬ来訪者は、まだ戻ってくる。
次は、名を持って。
それでも、もう怖くはない。
世界が問い続けるなら、
俺たちは答え続ける。
一人じゃないやり方で。
笑うことを、忘れないままで。
第一章は、終わりへ向かって進んでいる。
だがそれは、
破滅ではない。
選び続ける覚悟が、形になっただけだ。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございますm(_ _)m




