第十二話 余韻が形を持つ
朝のニュースは、いつも通りだった。
天気、交通、芸能。
どれも平穏で、特別な異変は報じられていない。
けれど、画面の端に流れるテロップの文字が、ほんの一瞬だけ重なって見えた。
気のせいだ、と言い聞かせるには、回数が多すぎる。
登校途中、信号待ちの群れの中で、急に立ち止まる人がいた。
中年の男性だ。
青に変わった信号を前に、彼は一歩も動かず、困惑した表情で周囲を見回した。
「……あれ?」
小さな声。
次の瞬間、彼は何事もなかったかのように歩き出す。
周囲は気に留めない。
誰も、違和感を言葉にしない。
俺は、その背中を見送りながら確信していた。
余韻は、もう“個人の内側”に留まっていない。
現実の動作として、表に出始めている。
学校に着くと、空気がざわついていた。
騒がしい、というより、落ち着かない。
誰もが理由の分からない違和感を、薄く共有しているような感覚。
「おはよう」
澪の声で、意識が戻る。
「おはよう」
彼女はいつも通りだった。
顔色も、歩き方も、声の調子も。
それでも、近くに来た瞬間、胸の奥が僅かに疼く。
彼女の周囲に、見えない“空気の層”がある。
「……昨日の夜、どうだった?」
「普通、かな」
澪は首を傾げる。
「でも、夢は見なかった。
珍しいくらい、すっと寝た」
それは良い兆候でもあり、同時に警戒すべき兆候でもある。
夢は、余剰記録の排出口でもあるからだ。
教室に入ると、担任が慌ただしく準備をしていた。
いつもより、落ち着きがない。
「えー……連絡事項が一つある」
出席を取り終えた後、担任が咳払いをする。
「今日の午後、体育館の使用は中止だ。
理由は……設備点検」
ざわり、と小さな波が立つ。
「点検?」
「昨日まで普通だったよな」
理由を深く追及する空気はない。
だが、俺は“設備点検”という言葉に、嫌な既視感を覚えた。
事故が起きる前触れとして、よく使われる方便。
休み時間。
総士が、いつになく真剣な顔で近づいてきた。
「神永。
今朝、部活の後輩がさ……」
「何かあったか」
「ロッカーで、誰かに名前呼ばれたらしい」
胸が、ひやりとする。
「誰に?」
「分からない。
でも、声だけは“知ってる気がする”って」
それは、最も厄介なタイプの現象だ。
記録にあった存在が消えたあと、声だけが残る。
「後輩は、何て?」
「最初は冗談だと思ってたけど、
二回目に呼ばれたとき、ロッカーの中が……」
総士は、言葉を選ぶ。
「空っぽだったって。
最初から、何も入ってなかったみたいに」
空白。
物理的な欠落。
俺は息を整えた。
「……それ、他に誰かに話したか」
「いや。
俺にだけ」
「正解だ」
こういう話は、広まるほど現実として固定される。
余韻は、観測されることで形を強める。
昼休み、俺は一人で校内を歩いていた。
目的は、保健室。
篁朧は、すでに気づいているはずだ。
この段階に入ったことを。
廊下の角を曲がった瞬間、視界の端で誰かが立っているのが見えた。
白衣。
だが、篁ではない。
一瞬で、消えた。
足を止める。
廊下には、誰もいない。
(……錯覚じゃない)
確かに、そこに“いた”。
保健室の扉を開けると、篁がベッド脇で書類を確認していた。
「早かったわね」
振り返らずに言う。
「もう、始まってます」
「ええ。
だから呼ぶ前に来た、でしょ」
図星だった。
「……体育館の点検、俺には方便にしか見えません」
「正しい判断よ」
篁は、ファイルを閉じる。
「今朝、体育の授業中に小さな事象が起きた」
「事象?」
「跳び箱の上に立っていた生徒が、
一瞬だけ“別の高さ”にいた」
背中に、冷たい汗が走る。
「着地は?」
「問題なし。
本人も、違和感を言語化できていない」
篁は、静かに続ける。
「でもね。
“落ちるはずだった未来”が、確かにそこにあった」
余韻が、事故の輪郭を描き始めている。
「……もう、兆候じゃない」
「ええ。
これからは、“事件”になる」
篁は、真っ直ぐ俺を見た。
「第十二話は、分岐点よ」
「……物語みたいに言いますね」
「実際、そうだから」
その言葉に、笑えなかった。
「神永くん。
今日は放課後、必ず体育館に来なさい」
「……立ち入り禁止じゃ」
「それでも」
篁の声は、揺るがない。
「“最初の形”は、そこに現れる」
保健室を出たとき、廊下の空気が重く感じられた。
まるで、天井が低くなったみたいに。
教室に戻る途中、澪と目が合う。
「……哉くん?」
彼女は、俺の表情を見て、すぐに察した。
「何か、来てる?」
「……ああ」
正直に答える。
「今日は、放課後……」
「体育館?」
心臓が、跳ねた。
「……どうして」
澪は、困ったように笑った。
「分からない。
でも、そこに“行かないといけない”気がする」
それは、偶然じゃない。
彼女の中の空白が、次の形を呼んでいる。
「澪」
「うん」
「今日だけは、俺のそばを離れるな」
「最初から、そのつもり」
そう言って、彼女は小さく笑った。
午後の授業は、さらに不安定だった。
教師が同じ説明を二度繰り返す。
ノートに書いた文字が、後から違う形に見える。
誰も叫ばない。
誰も騒がない。
それが、逆に不気味だった。
放課後のチャイムが鳴ったとき、
俺ははっきりと感じた。
今日、何かが起きる。
余韻が、初めて“形”になる。
体育館の扉の向こうで。
放課後の校舎は、異様に静かだった。
部活へ向かう生徒の足音はある。
笑い声も、遠くには聞こえる。
それでも、空気の芯が張り詰めている。
体育館へ向かう渡り廊下を歩きながら、俺は何度も床を見た。
影が、正しい位置にあるかを確かめるためだ。
澪は、俺の半歩後ろを歩いている。
その距離を、意識的に保っていた。
「……ねえ」
澪が、小さな声で言う。
「ここ、前にも通ったよね」
「何度もな」
「でも……今日は、少し違う」
俺は頷いた。
「世界が、ここを“意識してる”」
「……怖い言い方」
「怖い状況だからな」
体育館の前には、簡易的な立ち入り禁止のテープが張られていた。
黄色と黒の縞模様が、やけに目立つ。
テープの向こうに、人影。
「遅かったわね」
篁朧だった。
白衣の上に、ジャージを羽織っている。
明らかに、職務外の対応だ。
「……本気ですね」
「ええ」
篁は、テープを外しながら言った。
「ここから先は、“観測者”が必要」
体育館の中は、照明が半分だけ落とされていた。
天井の高い空間に、靴音が反響する。
中央には、何もない。
バスケットゴールも、マットも、器具も。
それなのに。
床の一角だけが、妙に“深い”。
目で見ても分からない。
だが、感覚が告げている。
そこだけ、現実が薄い。
「……あそこ」
澪が、息を詰めて言う。
「立たないで」
篁が、即座に制した。
「まだ、固定されていない」
「固定?」
「ええ。
今は、“可能性”の状態」
篁は俺を見る。
「神永くん。
感じる?」
「……はい」
床の奥で、何かが揺れている。
落下。
衝突。
悲鳴。
起きなかったはずの事故が、ここに“溜まっている”。
「これが、余韻の正体」
篁が低く言う。
「起きなかった出来事の残留」
総士も、遅れて体育館に入ってきた。
「……空気、やばくね」
「来たのね」
篁は、振り返らない。
「総士くん、ここから先は、感覚に任せないで」
「……どういう意味だ」
「見えるものだけを信じなさい」
その瞬間。
床の一角が、僅かに沈んだ。
――ギシ。
音は小さい。
だが、確かに“現実の音”だった。
「……!」
澪が、一歩踏み出そうとする。
「澪、止まれ!」
俺は、反射的に彼女の腕を掴んだ。
その瞬間、視界が歪む。
床に、別の体育館が重なって見えた。
人が走っている。
ボールが弾む。
誰かが、足を滑らせる。
「……あ」
澪の声。
彼女の視線の先で、“落ちるはずだった誰か”が存在している。
「澪、見るな!」
だが、遅かった。
澪の呼吸が、止まる。
「……私、知ってる」
「何を」
「この人」
彼女は、床の一点を見つめたまま言った。
「この子、夢に出てきた」
篁が、歯を食いしばる。
「……やっぱり」
「先生?」
「澪ちゃんは、“起きなかった側”に近すぎる」
床が、再び沈む。
今度は、はっきりと。
体育館全体が、わずかに傾いたように感じた。
総士が叫ぶ。
「おい!
これ、まずくねえか!」
「神永くん!」
篁が、俺を呼ぶ。
「今、選択しなさい!」
「……何を!」
「この場を、どうするか!」
頭の奥で、空白のページが震える。
書くな。
まだ早い。
だが、このままでは。
床の“可能性”が、現実に滑り込む。
誰かが、落ちる。
怪我をする。
あるいは――。
澪が、小さく呟いた。
「……私が、行けばいい?」
その言葉に、血の気が引く。
「澪、何言って」
「分かるの。
ここ、私を“呼んでる”」
それは真実だった。
澪の空白が、この余韻と共鳴している。
「……ダメだ」
俺は、歯を食いしばる。
「澪は、餌じゃない」
「でも……」
「俺がやる」
その言葉は、自然に出ていた。
篁が、目を見開く。
「神永くん、それは――」
「分かってます」
俺は、床の“深い場所”へ一歩踏み出した。
足裏に、嫌な感触。
沈むようで、沈まない。
視界が、完全に二重になる。
現実の体育館と、起きなかった体育館。
その境界に、俺は立っていた。
「……記録を、読むな」
自分に言い聞かせる。
「場を、固定しろ」
深呼吸。
心臓の音を数える。
俺は、ただ“今”を選ぶ。
「ここでは、何も起きない」
声に出して言った。
「誰も落ちない。
誰も傷つかない」
床が、激しく揺れた。
拒絶。
反発。
世界が、選択を嫌がっている。
それでも。
「……笑うって、決めたんだ」
俺は、歯を見せて笑った。
怖くて、震えて、それでも。
「だから――ここは、日常だ」
次の瞬間。
床の揺れが、止まった。
体育館の空気が、一気に現実へ戻る。
照明が、正しい明るさに落ち着く。
誰も、落ちていない。
何も、壊れていない。
俺は、その場に膝をついた。
息が、荒い。
「哉くん!」
澪が、駆け寄ってくる。
総士も、言葉を失ったまま立っている。
篁は、深く息を吐いた。
「……今のが、“固定”」
「成功……ですか」
「ええ」
篁は、静かに言った。
「でも、代償はある」
胸が、嫌な音を立てる。
「……何ですか」
「あなたの中に、確実に“余韻”が残った」
頭の奥が、じんと痛む。
「これからは」
篁は、俺を真っ直ぐ見た。
「あなた自身が、“歪みを引き受ける側”になる」
体育館の床は、もう何も語らない。
だが俺は、分かっていた。
今日、初めて。
余韻は、確かに“事件”になった。
そしてそれを、俺は力でねじ伏せた。
このやり方が、正しいかどうかは分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
もう、後戻りはできない。
体育館を出たとき、夕方の空気がやけに重く感じられた。
空は晴れている。
雲も、風も、匂いも、昨日までと変わらない。
それでも、世界が一段“下がった”ような感覚が残っている。
俺の中に、何かが沈んでいた。
「……大丈夫?」
澪が、俺の顔を覗き込む。
「立てる」
そう答えたが、足は少しだけ震えていた。
固定は成功した。
けれど、その代償を、身体が理解するのに時間がかかっている。
総士は、体育館の床を振り返りながら言った。
「……何も、起きてねえよな」
「ああ」
篁朧が、最後に扉を閉める。
「表面上は、ね」
その言い方が、嫌に静かだった。
「今日の件は、“小規模事象”として処理される」
「処理?」
「ええ。
事故未満、異常未満。
報告書の隅に残る程度」
篁は、俺を見る。
「でも、あなたの身体には残る」
言われなくても、分かっていた。
胸の奥に、冷たい塊がある。
「……これが、歪みを引き受けるってことですか」
「そう」
篁は、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「本来なら、番人が引き受ける役目よ」
「でも、俺が踏み込みました」
「ええ。
それが、あなたの選択」
帰り道、三人はしばらく無言だった。
靴音だけが、夕暮れの道に響く。
澪は、俺の袖を掴んだまま離れない。
「……ねえ、哉くん」
「どうした」
「私ね、さっきの体育館で……」
一度、言葉を切る。
「“落ちなかった未来”を、ちゃんと見た」
心臓が、静かに縮む。
「怖かった?」
「うん。
でも、それ以上に……」
澪は、少しだけ笑った。
「あなたが、そこに立ってるのが見えて、安心した」
その言葉が、胸に深く刺さる。
同時に、逃げ場を塞ぐ。
彼女は、俺が“立つ側”になることを受け入れてしまった。
「……澪」
「大丈夫。
全部、哉くんに任せるって意味じゃないから」
そう言って、彼女は手を離した。
「私も、ちゃんと現実に立つ」
それは、強さでもあり、危うさでもある宣言だった。
別れ際、総士が俺を呼び止めた。
「神永」
「ん?」
「……今日のアレ、見てて思った」
総士は、少しだけ言葉を探す。
「俺、何もできなかった」
「そんなことは」
「ある」
きっぱりと言った。
「前は、隣にいるだけで良かった。
でも、今日は違った」
総士は、拳を握る。
「俺も……何か、背負う側に行く」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
止める資格も、背負わせる資格もない。
夜。
部屋に戻ると、身体の重さが一気に押し寄せた。
シャワーを浴びても、寒気が抜けない。
鏡に映る自分の目は、少し疲れて見えた。
ベッドに腰を下ろし、目を閉じる。
すると、すぐに“あの感覚”が来た。
体育館の床。
沈む現実。
拒絶する世界。
そして、俺の中に残った余韻。
(……これが、積み重なるのか)
一回なら耐えられる。
二回、三回……。
どこかで、必ず限界が来る。
そのとき、空白のページが、静かに浮かび上がった。
記録層ではない。
もっと近い。
意識の裏側。
白い余白。
最後まで見て頂きありがとうございますm(_ _)m
引き続き宜しくお願いします!!




