第十一話 鳴らなかった余韻
翌朝、世界は何事もなかったかのように動いていた。
目覚ましの音。カーテン越しの光。朝食の匂い。
昨日までと何一つ変わらないはずのそれらが、どこか薄い膜を一枚挟んだように感じられる。
悪夢から目覚めた後の朝に似ていた。
夢は確かに終わっているのに、身体の奥だけが現実に追いついていない。
俺は歯磨きをしながら、鏡に映る自分の顔を見つめた。
目の下の影はいつも通り。表情も普通だ。
けれど、その「普通」が信用できない。
昨夜、鐘は鳴らなかった。
世界は壊れなかった。
澪は消えず、俺たちは日常へ戻った。
それでも、胸の奥で何かが微かに振動している。
鳴らなかったはずの余韻。
それだけが、確かに残っていた。
登校途中の道も、いつもと変わらない。
自転車のベルの音、犬の散歩をする老人、交差点の信号。
すべてが正しい位置にある。
だが、正しすぎる。
世界が、こちらの顔色を窺っている。
そんな感覚が、離れなかった。
校門をくぐると、総士が先に来ていた。
「よっ」
軽く手を上げるその動きは、昨日までと同じ。
けれど、目が笑っていない。
「……眠れたか?」
「まあな。そっちは?」
「俺も。たぶん」
たぶん、という言葉に引っかかりを覚えたのは、俺だけじゃなかったはずだ。
二人とも、それ以上踏み込まない。
昇降口で靴を履き替えながら、澪の姿を探す。
彼女は、少し遅れて校門をくぐってきた。
「おはよう」
声をかけると、澪は一瞬だけこちらを見て、すぐに微笑んだ。
「おはよう、哉くん」
その笑顔は、確かに彼女のものだった。
昨夜の涙も、震えも、ちゃんと越えた顔。
なのに。
その笑顔の奥に、ほんのわずかな空白が見えた気がした。
教室に入ると、いつもの騒がしさが戻ってきた。
テストの話、部活の愚痴、スマホの画面。
誰も、世界が一度壊れかけたことなんて知らない。
それでいい。
それが、俺の選んだ結果だ。
席に着くと、隣は空いていた。
天城零の席。
担任が入ってきて、出席を取り始める。
いつもの流れ。いつもの声。
「……天城」
一瞬の間。
「欠席です」
クラスの誰かがそう答え、担任は特に気に留める様子もなく次へ進んだ。
俺は、無意識のうちに拳を握っていた。
零は、もういない。
それは分かっている。
分かっているはずなのに、「欠席」という言葉が、妙に引っかかる。
最初から存在しなかったのなら、「転入生」という記録ごと消えているはずだ。
けれど、彼は欠席扱いになっている。
存在していた痕跡が、曖昧な形で残っている。
記録は、完全には閉じていない。
授業中、黒板の文字を追いながら、俺は何度も意識を逸らした。
頭の中で、昨夜の出来事が繰り返される。
記録起動。
空白のページ。
笑う者たちを肯定するという上書き。
あれは確かに、俺の意志だった。
けれど、その代償がどこに出るのかは、まだ分からない。
休み時間。
澪が、ふいに俺の机の横に立った。
「ねえ、哉くん」
「どうした?」
「……変なこと、聞いていい?」
声が、少しだけ低い。
「昨日の夜のこと、どこまで覚えてる?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……全部、とは言えない」
「私も」
澪は困ったように笑った。
「夢みたいに、ところどころ抜けてる。
でもね、ひとつだけ確かなことがあるの」
「何だ?」
「私は、生きてていいって思えた」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「ああ」
「それだけで、十分だよね」
澪はそう言って、席に戻っていった。
十分なはずだった。
なのに、心のどこかで、別の声が囁く。
――本当に、それだけで済むと思っているのか。
昼休み。
屋上へ向かう階段を上りながら、総士がぼそりと言った。
「なあ、神永」
「ん?」
「……俺さ、朝から変なんだ」
「変?」
「知らない記憶が、混じってる」
足が止まる。
「どういうことだ」
「分かんねえ。
でも、俺、昨日の夜……誰かと喧嘩した気がする」
「誰と?」
「それが分からない。
顔も声も、思い出せないのに、感情だけが残ってる」
屋上の扉を開けると、風が吹き抜けた。
その冷たさが、やけに現実的だった。
知らない記憶。
感情だけが残る欠落。
それは、記録が書き換えられたときに起きる典型的な副作用だ。
だが、今までそれを受けるのは、ほとんどが俺だった。
総士にまで影響が出ているということは。
「……範囲が、広がってるな」
「何だって?」
「いや」
まだ、言えない。
言葉にした瞬間、現実として固定されてしまう気がした。
屋上のフェンス越しに空を見上げる。
雲一つない青。
昨日まで、この空の下で鐘が鳴るはずだった。
鳴らなかったことで、世界は延命された。
だが、延命と治癒は違う。
総士が、フェンスにもたれながら言った。
「なあ。
俺たち、ちゃんと前に進めてるよな?」
その問いに、即答はできなかった。
前に進んでいる。
だが、足元には見えない亀裂が走っている。
「……進んでる」
それでも、俺はそう答えた。
進むと決めたのは、俺だ。
なら、その言葉から逃げるわけにはいかない。
昼休みが終わり、教室へ戻る途中。
廊下の端で、ふと視線を感じた。
振り向く。
誰もいない。
だが、確かに“見られていた”。
ガラスに映る自分の姿が、一瞬だけ遅れて動いた気がした。
心臓が、嫌な音を立てる。
世界は静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
鳴らなかった鐘の余韻は、
確実に、日常の中へ染み込んでいた。
それが何を壊すのか。
それとも、誰を試すのか。
答えは、まだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしている。
俺が選んだこの世界は、
もう「何も起きない場所」ではない。
始まりを繰り返す者の物語は、
静かな歪みとともに、次の段階へ進み始めていた。
午後の授業は、静かに進んでいった。
教師の声は淡々としていて、黒板の文字も規則正しい。
けれど、俺の意識は何度も引き戻される。
視線の端で、何かが遅れて動く。
誰かの言葉が、ほんの一瞬だけ違う意味を帯びて聞こえる。
それは錯覚に近い。
だが、錯覚にしては回数が多すぎた。
五時間目の終わり、チャイムが鳴る直前。
教室の後方で、誰かが椅子を引く音がした。
振り向くと、クラスメイトの一人が、ぽかんと立ち尽くしている。
「……あれ?」
その声は、驚きよりも困惑に近かった。
「俺、なんで立ってたんだっけ」
周囲が笑う。
冗談だと思ったのだろう。
「寝ぼけてんじゃねーの?」
「早く座れよ」
本人も、曖昧に笑って席に戻った。
それで終わるはずだった。
だが、俺は見てしまった。
彼の足元。
一瞬だけ、影が二重になったのを。
重なりきらない輪郭。
現実と、現実でなかった何かが、噛み合わずに擦れた痕。
(……出始めてる)
鳴らなかった鐘の余韻が、個人単位の“ズレ”として表に出始めている。
放課後。
部活に向かう生徒たちで廊下が賑わう中、俺は澪を呼び止めた。
「澪、少し話せるか」
「うん」
昇降口の脇、人の流れから外れた場所。
澪は鞄を胸に抱え、少し考えるように視線を落とした。
「……最近ね」
先に口を開いたのは、彼女だった。
「時々、自分が二人いる気がする」
胸が、静かに沈む。
「一人は、ちゃんと今を生きてる私。
もう一人は……どこかで、ずっと立ち止まってる私」
「立ち止まってる?」
「うん。
何かを待ってる感じ。
でも、何を待ってるのか分からない」
それは、削除されかけた未来の残滓だ。
完全に消えなかった選択肢の影。
「怖いか」
「……少し」
澪は正直に答えた。
「でも、前みたいな怖さじゃない。
哉くんがいるから、現実に戻ってこられる」
その言葉に、安堵と責任が同時に押し寄せる。
彼女は、俺を“錨”にしている。
それは支えでもあり、同時に危うさでもある。
「澪。
もし、また空白が広がる感じがしたら、すぐ言ってくれ」
「うん」
その返事は、迷いがなかった。
校舎を出ると、夕方の風が肌を撫でる。
空は昨日と同じ色をしているのに、どこか重い。
校門近くで、総士が待っていた。
「神永。
さっきの話の続き、いいか」
「ああ」
二人で歩き出す。
「俺さ、昼のこと、もう一つ思い出した」
総士は、眉を寄せた。
「喧嘩じゃない。
誰かに、めちゃくちゃ怒鳴られた」
「怒鳴られた?」
「うん。
『お前は、見ないふりができる』って」
喉が、ひくりと鳴る。
「……それ、声は覚えてるか」
「いや。
でも、妙に懐かしかった」
零だ。
あるいは、零になるはずだった誰か。
総士の中に、余剰記録の断片が混じり始めている。
「神永」
総士が足を止めた。
「俺、聞いていいか」
「何だ」
「……お前、俺たちに隠してることあるだろ」
視線が、真っ直ぐだった。
冗談で誤魔化せる雰囲気じゃない。
「……ある」
短く答える。
「でも、今は全部は言えない」
総士は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「分かった。
でもな」
顔を上げ、苦笑する。
「一人で抱え込むな。
前も、それで失敗しただろ」
胸の奥を、的確に突かれた。
「ああ」
それだけ返す。
その夜、家に戻っても、落ち着かなかった。
夕食の味が、少し薄い。
テレビの音が、遠い。
自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。
机の上には、何もない。
それなのに、確かに“ある”感覚。
空白のページ。
記録層で渡された、書き込まれていない可能性。
(……まだ、使う時じゃない)
だが、確実に近づいている。
余韻は、もう“気配”の段階を越えつつある。
そのとき、スマホが震えた。
着信ではない。
通知でもない。
ただ、一瞬だけ画面が点いた。
そこに表示された文字。
《確認完了》
送り主は、表示されていなかった。
背中に、冷たいものが走る。
次の瞬間、今度ははっきりと着信音が鳴った。
番号非通知。
出るべきか、一瞬迷う。
だが、迷っている時間は与えられなかった。
「……もしもし」
『神永哉』
低く、落ち着いた声。
聞き覚えがある。
「……篁、先生」
『余韻が、想定より早く表に出ている』
「……やっぱりか」
『ええ。
保持者ではない生徒にも、微細なズレが出始めている』
想像していた最悪の一歩手前。
「俺の、せいですか」
少し間が空いた。
『あなたの選択の“結果”ではある。
でも、責任とは違う』
篁の声は、いつもより柔らかかった。
『神永くん。
第一章の後半は、穏やかでは済まない』
「……分かってます」
『近いうちに、会いましょう』
「どこで」
『保健室。
“番人として”ではなく、一人の大人として話す』
通話は、それで切れた。
スマホの画面が暗くなる。
部屋の静けさが、急に重く感じられた。
窓の外を見る。
夜の街は、いつも通りだ。
それでも、俺は確信していた。
鳴らなかった鐘の余韻は、
もう“気配”ではない。
静かに、しかし確実に、
次の歪みを形作り始めている。
そしてその中心に、
俺たちが立っていることも。
翌日、保健室の前で立ち止まったとき、俺は一度だけ深呼吸をした。
白い扉。
消毒液の匂い。
ここは、これまで何度も救われてきた場所だ。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
篁朧は、机に向かって書類を整理していた。
白衣姿はいつもと変わらないのに、今日は妙に“現実的”に見える。
「来てくれてありがとう、神永くん」
「……俺から呼ばれたみたいなもんですから」
椅子に腰を下ろすと、保健室の静けさが身体に染み込んでくる。
「単刀直入に聞くわ」
篁はペンを置き、俺を見た。
「余韻を、感じているわね」
「はい」
「どの程度?」
「……俺だけじゃない。
澪にも、総士にも、他の生徒にも」
篁は、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりね。
鳴らなかった鐘は、“無音”じゃなかった」
彼女は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
窓の外、校庭では体育の授業が行われている。
「世界は修正された。
でも、修復は未完了」
「……傷跡が残ってる」
「ええ」
篁は振り返り、静かに言った。
「あなたは、世界を肯定した。
それは正しい。
でも、肯定は“固定”じゃない」
その言葉が、胸に落ちる。
「肯定は、維持し続けなきゃいけない」
「そう」
篁は、俺の目を見据えた。
「これから第一章の後半は、
あなたの選択が“試される期間”になる」
「試される……?」
「笑えているかどうか。
日常を、ちゃんと信じられているかどうか」
その瞬間、保健室の空気が揺れた。
キィ……と、ベッドの金属が微かに鳴る。
俺は反射的に視線を向けた。
「……今の、聞こえました?」
「ええ」
篁は、顔色一つ変えない。
「これが“事件の芽”」
「芽?」
「余韻が、現象になる直前の状態よ」
篁は、引き出しから一冊の薄いファイルを取り出した。
「すでに、いくつか報告が上がっている」
中には、簡単なメモが挟まっていた。
・保健室で、誰もいないベッドのカーテンが開く
・授業中、同じ問題を二度“初めて見る”感覚
・夢と現実の境界が曖昧になる生徒
「……思ったより多いですね」
「ええ。
でも、まだ小さい」
篁はファイルを閉じる。
「小さいうちに対処できるかどうかが、分かれ道」
「俺が、やるんですか」
「あなたしかいない」
即答だった。
「あなたは、記録を“読む側”から“触れる側”に移行している。
それはもう、元には戻らない」
喉が乾く。
「……空白のページのことですよね」
篁の視線が、僅かに鋭くなった。
「やっぱり、受け取っていたのね」
「まだ、使ってません」
「それでいい」
彼女は、珍しく少しだけ微笑んだ。
「空白は、切り札じゃない。
“責任”よ」
保健室を出ると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
廊下を歩きながら、俺は自分の足音を数えていた。
一歩、一歩。
現実を確かめるみたいに。
教室に戻ると、総士が振り返った。
「どうだった」
「……やっぱり、平和じゃ済まない」
「だよな」
総士は苦笑したが、目は真剣だった。
「でもさ」
「ん?」
「それでも、前よりマシだ」
その言葉に、少し救われた気がした。
放課後。
澪と並んで帰る道。
夕暮れが、街を柔らかく包んでいる。
「哉くん」
「どうした?」
「今日ね、変な夢を見た」
心臓が跳ねる。
「……どんな」
「私が、何もない部屋に立ってて。
白いページが、床一面に散らばってた」
息を呑む。
「でもね」
澪は、立ち止まり、俺を見た。
「その中に、一枚だけ文字が書いてあったの」
「……何て?」
澪は、少し照れたように笑った。
「『ここにいていい』って」
胸の奥が、熱くなる。
「それで、目が覚めた」
俺は、静かに頷いた。
「……それなら、大丈夫だ」
「うん」
二人で歩き出す。
空は、少しずつ夜に変わっていく。
その夜、俺は机に向かっていた。
何も書かれていないはずの場所に、
確かに“余白”を感じる。
まだ、触れない。
だが、逃げもしない。
鳴らなかった鐘の余韻は、
世界を壊すためにあるんじゃない。
選び続けるために、そこにある。
そう、思えた。
第一章は、まだ終わらない。
だが、この日。
確かに俺は、次の段階へ足を踏み入れた。
始まりを繰り返す者としてではなく、
始まりを“保ち続ける者”として。
静かな夜が、街に降りてくる。
余韻は、まだ消次いない。
だが、今はそれでいい。
世界は揺れている。
それでも、俺たちは歩いている。
それが、選んだ答えだ。
今回も読んで頂きありがとうございますm(_ _)m




