第十話 零の名を持つ者
その日、教室の空気は、ほんのわずかに“重かった”。
朝のホームルームが始まる直前。
窓際の席に差し込む光はいつもと変わらないはずなのに、机の表面に落ちる影が、やけに濃く見えた。
──理由は、分かっている。
教室の前方、黒板の横。
担任の隣に立つ、見慣れない少年。
「転入生を紹介する。
天城零。海外からの帰国だ」
その名前が口にされた瞬間。
胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。
澪の肩が、わずかに跳ねる。
俺と目が合い、すぐに逸らされた視線。
総士は――何も言わなかった。
だが、笑顔が一瞬だけ固まったのを、俺は見逃さなかった。
「天城です。よろしくお願いします」
淡々とした声。
低すぎず、高すぎず。感情の起伏がほとんど感じられない。
だが。
彼の瞳は、確かに“真っ黒”だった。
比喩じゃない。
光を反射しない、底の見えない黒。
俺の脳裏に、嫌な感覚が走る。
(……こいつ、見てる)
俺たちを、じゃない。
この“教室そのもの”を。
「席は……神永の隣だな」
担任のその一言で、教室がざわめいた。
「え、神永の横?」
「なんでそこ?」
「偶然だろ」
偶然なわけがない。
零は静かに歩き、俺の隣の席に腰を下ろした。
椅子が床に触れる音が、やけに大きく響いた。
「……よろしく」
俺がそう言うと、零はほんの一瞬だけこちらを見た。
「こちらこそ。神永哉」
呼び捨て。
初対面で。
名簿を見たとしても、普通は苗字で呼ぶはずだ。
「……なんで名前」
「記録に書いてあった」
小さな声。
周囲には聞こえない。
だが、俺の背筋を、氷がなぞった。
(記録……?)
授業が始まっても、俺はほとんど内容が頭に入らなかった。
黒板の文字。
教師の声。
それらが、薄い膜を通して聞こえてくる。
代わりに意識を占めていたのは、隣に座る“異物”。
零はノートを取っていなかった。
教科書も開かず、ただ、教室全体を眺めている。
視線は動くが、焦点が定まらない。
まるで、目に見えない“層”を一枚ずつ確認しているかのようだった。
「……なあ」
小声で呼びかける。
「何」
「海外って、どこにいたんだ」
一拍。
零は少し考えるような間を置いてから答えた。
「正確には、“ここじゃない場所”」
答えになっていない。
だが、冗談の響きもなかった。
「……ふざけてるのか?」
「ふざけてない。
でも、今はそれ以上言えない」
俺の胸の奥で、警鐘が鳴り続ける。
昼休み。
総士がパンを片手に近づいてきた。
「おい神永。
あいつ、やばくね?」
「……ああ」
澪は少し離れた席で、窓の外を見ている。
呼びかけても、返事が遅れる。
「澪」
「……え? あ、ごめん」
明らかに、様子がおかしい。
「大丈夫か?」
「うん……でも」
澪は自分の胸元を押さえた。
「ここが、ざわざわする。
懐かしいのに、怖い感じ」
俺と総士は、同時に息を飲んだ。
「……零、だよな」
「うん。たぶん」
その瞬間。
「やっぱり、気づくよね」
いつの間にか、零がすぐ後ろに立っていた。
足音はしなかった。
気配もなかった。
「……聞いてたのか」
「聞こえちゃった。
記録が、少しだけ騒いだから」
澪が、はっきりと怯えた表情を見せる。
「……あなた、何者?」
零は澪を見つめた。
その視線は、驚くほど静かだった。
「天城零。
そして――」
そこで、言葉を切る。
「君たちと同じ、“繰り返してきた側”」
空気が、凍った。
「……冗談だよな?」
総士が笑おうとする。
だが、その笑いは途中で消えた。
「冗談ならいいね。
でも、君たちの“笑い方”は、本物だ」
零は小さく目を細める。
「だから、今回は間に合うかもしれない」
「……何にだ」
俺は問い返した。
零は、窓の外――校舎の向こうを見た。
「七月」
その一言で、心臓が跳ね上がる。
「鐘が鳴る前に、だよ」
その瞬間。
澪が、小さく声を上げた。
「……あ」
彼女の足元。
床に、見えない“亀裂”が走ったような感覚。
もちろん、実際には何も割れていない。
だが、確かに世界が“ズレた”。
俺の視界が、一瞬だけ歪む。
耳鳴り。
遠くで、金属が擦れるような音。
(記録が……動いてる)
零が、静かに言った。
「始まったね。
君たちが“笑う”ことを選んだから」
総士が歯を食いしばる。
「……なあ。
笑うのが、そんなに悪いことかよ」
零は首を振った。
「悪くない。
だからこそ、代償が大きい」
そのとき――
校内放送のスピーカーが、突然ノイズを吐いた。
『……テスト……記録……確認……』
断片的な音声。
誰の声か、分からない。
澪が、俺の袖を掴む。
「哉くん……これ、夢で見た」
俺は彼女の手を握り返した。
「大丈夫だ。
今度は、現実で止める」
零が、ゆっくりと笑った。
「その言葉を聞きに来た。
じゃあ――放課後、鐘楼で」
「……来なかったら?」
総士が問う。
「その場合は」
零は、ほんの少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「君たちの“次の周回”で、また会おう」
そう言って、零は人混みに紛れ、消えた。
残された俺たちは、しばらく動けなかった。
澪が、小さく息を吐く。
「ねぇ……
私、ちゃんと笑えてる?」
俺は、迷わず答えた。
「笑えてる。
だから――守る」
世界は、確実に軋み始めていた。
だがまだ、壊れてはいない。
この“日常”を、選び取るためなら――
俺は、何度でも始まりを繰り返す。
放課後の校舎は、昼とは別の顔を持っている。
人の気配が薄れ、音が遠くなる。
窓の外では、夕焼けが校庭をゆっくりと塗り替えていた。
俺、澪、総士。
三人は言葉少なに、西校舎の奥へ向かっていた。
――鐘楼。
零が指定した場所。
「……なあ、本当に行くのか」
総士が、いつもの軽い調子を抑えた声で言う。
「行かない理由がない」
俺は前を向いたまま答えた。
「行かない=次の周回、だろ」
総士は舌打ちし、苦笑する。
「ほんと、お前……覚悟決まりすぎだろ」
澪は黙っていた。
その手は、ぎゅっと握り締められている。
「澪」
「……うん。大丈夫」
そう言いながらも、彼女の声は少し震えていた。
西校舎の旧棟。
廃部になった放送部のフロアを抜け、さらに奥。
普段は立ち入り禁止になっている階段を上がると、空気が変わった。
――冷たい。
季節のせいじゃない。
まるで、時間そのものが止まっているような冷え。
「……ここ、前も来たことある」
澪が呟く。
「夢の中で、だけど」
階段の踊り場。
埃を被った扉の向こうに、鐘楼がある。
「待ってたよ」
扉の前に立っていたのは、天城零だった。
放課後の光を背にして立つ姿は、どこか現実味が薄い。
「早かったね」
「……本当に待ってたんだな」
「来るって、記録にあったから」
零はそう言って、扉に手をかける。
「でも――ここから先は、君たちの“選択”になる」
ギィ……と、重い音を立てて扉が開いた。
鐘楼の中は、思ったよりも狭かった。
古い木材の匂い。
梁に吊るされた、大きな鐘。
長い年月、鳴らされていないはずなのに――
なぜか、今にも鳴りそうな“圧”があった。
「……これが」
総士が、喉を鳴らす。
「七月の鐘」
零が静かに言った。
「正確には、“鳴るはずだった鐘”だよ」
「どういう意味だ」
俺は一歩前に出た。
「君たちが経験してきた世界線では、
この鐘は必ず鳴っている」
零は梁を見上げる。
「七月。
学園の事故。
その裏で起きる、最初の“歪み”」
澪が、はっと息を飲む。
「……事故」
「うん。
君が、最初に消える世界線だ」
その言葉に、時間が止まった。
「……は?」
総士が低い声を出す。
「消えるって……澪が?」
零は頷いた。
「正確には、“記録から削除される”」
澪の身体が、わずかに揺れる。
俺は反射的に彼女の前に立った。
「……ふざけるな」
「ふざけてない」
零の声は淡々としていた。
「だから、君は繰り返してきた。
彼女を失う世界を、何度も」
頭の奥が、軋む。
断片的な記憶。
泣いている澪。
崩れる校舎。
何もない教室。
(……ああ、そうか)
「……だから俺は」
声が、震えた。
「笑えなくなっていったんだ」
零は、ゆっくりと頷く。
「そう。
でも今回は違う」
彼は澪を見た。
「君が、笑っているから」
「……それが、どう関係あるの?」
澪が問い返す。
「笑う、という行為はね」
零は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「“世界に納得している”という意思表示なんだ」
「納得……?」
「不完全でも、怖くても、
それでも今を肯定する、という意思」
零は鐘を軽く指で弾いた。
――カン、と乾いた音。
「世界は、“否定された現実”を修正しようとする。
それが、記録の修復反応」
総士が眉をひそめる。
「つまり……?」
「哉が、笑えなくなるほど否定した世界では、
澪の存在が“誤差”として処理される」
澪が、唇を噛んだ。
「……じゃあ、私が消えるのは」
「哉が世界を憎んだ結果だ」
言葉は残酷だった。
だが、否定できない重さがあった。
「だから今回は」
零は、俺を見る。
「君が“笑いながら戦う”必要がある」
「……そんな簡単な話じゃない」
「分かってる」
零は初めて、少しだけ苦しそうな顔をした。
「僕も、それで失敗したから」
「……零?」
「僕は、“笑えない側”を選んだ」
その瞬間。
鐘楼の空気が、さらに冷えた。
「未来で、君と同じ役割だった」
零は静かに続ける。
「誰かを守るために、世界を拒絶した。
結果、全部壊した」
総士が息を呑む。
「じゃあ、お前は……」
「残骸」
零は、淡く笑った。
「失敗した未来から、
ここに流れ着いた“余剰記録”だ」
澪が、震える声で言う。
「……そんなの、ずるい」
「そうだね」
零はあっさり認めた。
「だから僕は、君たちに賭けてる」
そのとき――
ギィ……と、背後の扉が軋んだ。
「……やっぱり、ここだった」
現れたのは、白衣姿の篁朧だった。
「先生……」
「番人として、見逃せるわけがないでしょ」
篁は、鐘を見上げ、深く息を吐く。
「零。
あなた、第一層を超えかけてる」
「分かってる」
「分かってるなら、下がりなさい」
篁は俺を見る。
「神永哉。
あなたが“選択”をしない限り、この鐘は止まらない」
「選択……?」
「澪を、守るか。
それとも、“世界の整合性”を守るか」
総士が叫ぶ。
「そんなの、選ぶ必要あるかよ!」
篁は、首を横に振った。
「ある。
世界は、常に取引を要求する」
澪が、一歩前に出た。
「……私が、消えればいい?」
「違う!」
俺は即座に否定した。
「澪は……」
言葉が詰まる。
守る、と言うのは簡単だ。
だが、その裏で何が壊れるのか、俺は知っている。
零が、低く言った。
「哉。
君が笑っていれば、彼女は消えない」
「……それでも?」
「それでも、戦いは避けられない」
鐘が、わずかに揺れた。
――カラン。
音にならない音。
だが、確実に“始まりの合図”。
篁が、鋭く言う。
「時間がない」
俺は、澪の手を取った。
彼女の手は、冷たかったが、確かに生きていた。
「澪」
「……うん」
「怖いか」
「……怖い。でも」
澪は、俺を見て、笑った。
「今は、ちゃんと笑えてる」
その瞬間。
胸の奥で、何かが“決まった”。
「……俺が選ぶ」
俺は、鐘を見据えた。
「この世界も、澪も、
どっちも捨てない」
篁が、目を細める。
「……愚かな選択ね」
「知ってます」
零が、静かに息を吐いた。
「それでこそ、だ」
鐘が、再び揺れた。
だが――鳴らない。
世界は、まだ踏みとどまっている。
その代償が、何になるのかも知らずに。
鐘が、揺れていた。
誰も触れていない。
それでも確かに、世界の奥で何かが軋む音がする。
「……来る」
篁朧が低く呟いた。
次の瞬間。
鐘楼の空気が、一気に“裏返った”。
視界が白く染まり、音が遠ざかる。
足元の感覚が薄れ、身体の輪郭が曖昧になる。
(……またか)
何度も経験した感覚。
“世界から弾かれる直前”の、あの感触。
「哉!」
澪の声が聞こえた。
俺は必死に意識を繋ぎ止める。
「……大丈夫だ。
今度は、逃げない」
その瞬間。
――パキリ。
何かが、割れた音がした。
鐘ではない。
“記録”だ。
視界が反転し、俺は“そこ”に立っていた。
無数の文字列。
重なり合う映像。
選ばれなかった未来、失敗した世界、消えた時間。
ここは――
記録層。
「……久しぶりだな」
背後から声。
振り向くと、そこにいたのは――
未来の俺だった。
疲れ切った顔。
笑わない目。
何かを守りきれなかった人間の表情。
「また、ここまで来たか」
「……お前が、零の正体か?」
未来の俺は、首を横に振った。
「違う。
あいつは、“俺が選ばなかった可能性”だ」
理解した。
天城零。
彼は、俺が“笑わない未来”を選び続けた末に生まれた、
分岐の残骸。
「俺は、守るために壊した」
未来の俺が言う。
「笑う余裕なんてなかった。
結果、世界は俺を拒絶した」
「……だから澪は」
「そうだ。
澪は“世界を肯定させる存在”だった」
胸が締めつけられる。
「お前は、彼女が笑う世界を選べなかった」
「選べなかった」
未来の俺は、淡く笑った。
「だから、今のお前がいる」
視界が揺れる。
記録層が、崩れ始めていた。
「時間がない」
未来の俺が言う。
「今ここで、決めろ。
世界を肯定するか、否定するか」
「……肯定する」
俺は即答した。
「不完全でも、怖くても、
それでも俺は――この日常を選ぶ」
未来の俺は、初めて安堵したように息を吐いた。
「なら、これを持っていけ」
彼が差し出したのは、
“空白のページ”。
「書け。
初めて、“自分の意志”で」
その瞬間。
――ドクン。
心臓が、強く脈打った。
現実へ引き戻される感覚。
鐘楼。
揺れる鐘。
澪の震える手。
零の必死な表情。
篁の鋭い視線。
「……記録起動」
俺は、はっきりと口にした。
「識別名――神永哉」
空気が、震えた。
「干渉対象――現在」
世界が、静止する。
「上書き条件――
笑う者たちの存在を、肯定する」
――書き込まれていく。
鐘が、止まった。
完全に、静かに。
澪が、膝から崩れ落ちる。
「……あれ?」
俺は彼女を抱き留めた。
「……生きてる?」
「生きてる」
澪は、ぽろぽろと涙を零しながら笑った。
「……よかった」
その瞬間。
零が、苦しそうに膝をついた。
「……これで、いい」
「零!」
「僕は……役目を終えた」
彼の身体が、少しずつ透けていく。
「哉」
零は、最後に微笑んだ。
「君は、僕がなれなかった“答え”だ」
「……消えるのか?」
「うん。
でも――後悔はない」
零は、空を見上げた。
「君たちが笑ってる世界なら、
きっと、大丈夫だ」
そう言って――
天城零は、光の粒となって消えた。
篁朧が、静かに息を吐く。
「……第一章、終了ね」
「先生……」
「神永哉。
あなたはもう、“繰り返す者”じゃない」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「始まりを、選び直す者よ」
帰り道。
夕焼けが、街をやさしく包んでいた。
「……なあ」
総士が言う。
「全部終わったのか?」
「いいや」
俺は首を振る。
「始まっただけだ」
澪が、俺の隣で歩きながら言った。
「でも……
これからは、ちゃんと笑おうね」
「ああ」
俺は空を見上げる。
──生きているうちに、ちゃんと笑っておけ。
その言葉はもう、呪いじゃない。
選び取った未来への、合言葉だ。
世界はまだ、不完全だ。
それでも――
俺たちは、ここにいる。
明けましておめでとうございます。
久しぶりの投稿ですが最後まで楽しんで貰えたら嬉しいです。
今年も宜しくお願いしますm(_ _)m




