第九話 真実の裏側
(グレアム視点)
教室の扉を開けた瞬間、妙な静けさが肌にまとわりついた。
私が姿を見せると同時に、それまで続いていた小さな会話が一斉に止まる。こちらと目が合うなり慌てて目を逸らす者、ちらりと様子を伺いながらひそひそと会話する者。その様子は、どれも普段とは違っていた。
「何かあったのか?」と思って視線を巡らせるが、理由は分からない。思い当たる節がないわけではなかったが、それはほんの二日前のことだ。学院で噂されるには、まだ早すぎる。
席に向かおうとしたところで、背後から私を呼び止める声がかかる。振り向くと、友人が気まずそうな顔で立っていた。私を手招きし、周囲に聞かれぬような小さな声で言った。
「……なあ、フェイランス伯爵令嬢と婚約解消したって……本当なのか?」
私の眉がぴくりと動いた。「なぜ、その話を知っている?」と問いかけるよりも早く、彼はさらに声を低くして続けた。
「しかも、その原因が……聖女リズに嫉妬して、事件を起こしたとか……そういう噂まで広がっているぞ」
ひときわ大きな音を立てて心臓が早鐘を打つ。婚約解消の話が噂になるのは分かる。いずれ噂が広まることは理解していた。
だが、事件の話は別だ。内々に処理されたはずのその話が、広まるはずがない。
当事者と、ごく限られた関係者しか知らないはずの出来事が、なぜ?
ざわつく教室。盗み見るような視線。そこに漂うのは、うっすらとした憶測と好奇心。
婚約解消の噂も事件の噂も、あまりに早く、あまりに具体的すぎる。教室の空気に気圧されるように、私の背筋にゾクリとしたものが駆け抜けた。
まるで、誰かが意図的に流したような――そんな考えが脳裏をかすめた。
昼休み、食堂へ向かおうと廊下を進んでいた時、食堂に着くよりもずっと手前の人目を避ける場所で、リズがひっそりと立っているのが目に入った。落ち着きなく周囲を見渡し、誰かを探すような仕草をしていたリズは、私に気づくとほっとした表情を浮かべた。
私がリズの方に進みを変えると、リズも私の方へと駆けてくる。だが、その顔は青ざめ、目元には焦りと不安が色濃く滲んでいた。
「……ネヴィア様との婚約を解消したと聞いたのですが、あの噂は……本当なんですか? しかも、その理由が私への傷害容疑だって聞いて……私……」
その問いかけに言葉が詰まる。リズの様子からして、おそらく噂を耳にしたのだと予想はしていたが、やはりか……。
ネヴィアが事件に関与していたことをリズに伝えるつもりはなかったが、噂を耳にした以上、黙っているわけにもいかない。
「噂を聞いたんだな。……少し、別の場所で話をしよう」
いずれにせよ、ここは人目がある。リズを落ち着かせるように静かに言うと、私たちは庭園へと歩を進めた。
胸中にあるものとは正反対に、晩春の空気は穏やかだった。
人気の少ない所にある白いベンチに並んで腰掛けると、少しの沈黙を置いたのち、私は口を開いた。
「……あの噂は、事実だ。君を襲った事件の首謀者はネヴィアであり、ネヴィアとの婚約解消の話もまた、本当だ」
リズの肩がびくりと揺れ、細い声が漏れる。
「そんな……ネヴィア様が……?」
目を見開いたままの彼女が何かを言いかけたが、それ以上言葉は続かない。リズの震える手を見ながら、どれほど言葉を選んでも、結局彼女を傷つける他にないことを痛感し、胸が苦しくなる。
私は静かに視線を前に向け、あらためて言った。
「婚約解消については、以前から出ていた話なんだ。ネヴィアの健康面やフェイランス家の後継者問題もあって、いずれそうなる可能性が高いと言われていたんだが、事件のことがあって、話が早まった」
リズは、かすかな息を吐く。信じたくないのか、顔を伏せて頭を左右に振った。
「でも……それでも……ネヴィア様が、そんなことをするなんて……」
私は否定も肯定もせず、ただ沈黙をもって言葉を飲み込む。その気持ちは、私にも痛いほどよく分かっていた。
「信じたくないのは、私も同じだ。だが……証拠が、揃っていた」
静かにリズに告げながら、私は何もかもが崩れていったあの日の夜を思い返していた。
あの夜、父に呼び出されたのは夕食後の遅い時間のことだった。父の執務室へ入り、厳しい表情の父の姿を見た瞬間、ただ事ではないことを察した。
最初に聞かされたのは、二日前に聖女――リズが襲われたという報せだった。幸い、すぐに警邏隊が駆けつけたため大事には至らず、大きな怪我もなく無事だという言葉に、緊張で強張った身体が緩んでいくのを感じた。
今日、学院を休んだリズを不思議に思っていたが、まさかそんなことに巻き込まれていたなんて……。
ほっとしたのも束の間、その安堵は長くは続かなかった。
襲撃事件の詳細を話す父が、事件の首謀者として、フェイランス伯爵令嬢――つまりネヴィアの名が挙がっていると告げたからだ。
思考が一瞬、白く染まった。
「何かの間違いでは? あのネヴィアが、そんなことをするはずがありません」
私は反射的に反論を口にした。だが、そんな私の言葉を予想していたのか、父は一冊の書類綴りを取り出し、ばさりと机の上に置いた。
「これを読めば、お前も納得するだろう」
それは、父が特別に持ち帰った事件の捜査資料だった。まさかという不安を胸に資料を手に取り、頁を捲る。そして、その中に並ぶ事実に、私は言葉を失った。
金で依頼されたという襲撃犯の自供。聖女であるリズが襲撃されたという事の重大さから、証言には偽証を看破する魔法が用いられたと記されていた。
つまり、そこに綴られている内容はすべて真実で、偽りはないということだ。
――青銀の髪に青い瞳の、気品ある令嬢から依頼を受けた。
――標的の人相、通る道、時間帯など、細かな説明があった。
――髪を切り、顔に傷をつけるように明確な指示を受けたが、さすがにそれは気の毒に思い、服を切り裂くにとどめた。
最後の一文にひどく心を揺さぶられ、書類を持つ手に力がこもる。
報酬は金貨だったという。金貨は入っていた袋ごと差し押さえられており、その布地には香水と思われる香りが付着していたと記録されていた。
調査の結果、付着していた香水と、それを扱っていた商会が特定され、購入記録からはネヴィアの名が浮上していた。
そして、資料の最後には、証言と証拠、状況から判断し、依頼者はフェイランス・ネヴィア嬢であると思われる、と締めくくられていた。動かぬ事実が、冷たい鉄のように突きつけられる。
資料には、依頼者が「泥棒猫」などの罵りの言葉も使っていたとの証言もあった。
(あのネヴィアに限って、嫉妬心が動機だというのか?)
私は呆然としたまま資料を閉じる。納得したくない、だが、暴かれた真実は、その信念を打ち砕くには十分だった。
胸の奥に、飲み込むことのできない苦く重いものが沈んでいくのを感じた。
「リズ嬢が傷を負わなかったことは、不幸中の幸いだったな」
父の言葉に、沈んでいた意識が浮上する。父は前置きした上で「今回のことは、未遂ということで事件は内々に処理されることになった」と告げた。
実行犯の供述と証拠をもとに、ネヴィアの関与は明白と判断された。王家はそれを受け、混乱を避けるためにも即座に事態の収拾に動いたそうだ。
フェイランス伯爵家は建国からの名家であり、王家との繋がりも深い。フェイランス伯爵家の令嬢が事件に関わったと公になれば、貴族社会に与える影響は計り知れないだろう。
そして、動機が“嫉妬”とされれば、リズはもちろん、ウィンステッド家にとっても醜聞となる。
様々なことを踏まえ、事件は内密に処理されることが決まったようだ。
目の前がぐらりと大きく揺れた気がした。ネヴィアが首謀者ということを前提に、どんどんと話が進んでいく。
「事件は公にはされぬが、それ相応の沙汰は追ってフェイランス家に伝えられるだろう」
「沙汰……ですか?」
「処罰というほどではない。だが、貴族社会の秩序を守るために何らかの沙汰は下るだろう。事件を公にしない代わりにな」
たとえ裁かれずとも、何らかの責を負うということだ。ネヴィアにとって、それはどれほどの重しとなるのだろうか……。
「それと、王家から打診されていた聖女の後ろ盾だが、当家はこれを正式に受けることにした。近日中に本人にもその旨を伝えておくように」
父の言葉の一つ一つが、現実を突きつけてくる。
「婚約解消の申立書は、明日、フェイランス家に送る予定だ。もしネヴィア嬢と話す機会があれば、直接伝えておけ」
何もかもが速すぎて、心が追いつかない。
「瑕疵のある令嬢をそのままお前の婚約者としておくことはできない。結果的に婚約解消が早まったが、タイミングとしてはちょうどよかったのかもしれん」
父の言葉が頭を素通りしていく。
ネヴィアとの婚約がこのような形で終わることが、あまりに無念だった……。
次回もグレアム視点になります。