第三話 忍び寄る破滅の足音
ある日、ネヴィアが突然学院を休んだ。体調が悪くとも無理して登校していたネヴィアにとって、とても珍しいことだった。
最近様子がおかしいこともあり、心配になって一度見舞いに行きたい旨の手紙を送ったが、ネヴィアの直筆で「大丈夫」との返事があった。心配ではあったが、そう言われてしまうと、こちらからできることは何もない。
早い体調の回復を祈りながら、私はネヴィアが登校するようになるのを待った。
ネヴィアが休みの間、私はリズと二人で昼食をとることになった。ネヴィアがリズを気に掛けていたこともあるが、私自身もリズのことが心配だったというのもある。
リズは聖女として認定されたが、二ヵ月たった今でもリズの後ろ盾は決まっていない。これは、誰も手を挙げないからではなく、複数の有力者から後ろ盾の打診がきているため、かえって決まっていないらしい。
そのこともあり、ネヴィアはリズに近づいてくる者を警戒しているのだろう。大抵の者を退けることができる私の立場は、ネヴィアが休みの間、そういう輩を近付けないための壁役として、ある意味最適だった。
その後、ネヴィアが登校したのは休み始めて三日後のことだった。しかし、昼食時間になっても登校しているはずのネヴィアの姿は食堂になく、顔を出したのは何故かリズひとりだけだった。
リズに事情を聞くと、ネヴィアは調べ物があるから後から来るということらしい。病み上がりなのに体調は大丈夫だろうか、と心配していたが、結局、ネヴィアが食堂に姿を見せたのは、昼食終了ぎりぎりの時間だった。
だが、姿を見せたネヴィアの顔色は悪く、どこか影を落としたように無表情だった。いつものように柔らかく微笑みかけることもなく、どこかよそよそしい態度のまま、挨拶と遅れたことへの謝罪を一言交わしただけで静かに席に着いた。
何度かリズは声をかけていたが、ネヴィアの空気はどこか遠く、その反応に戸惑っているうちに食事の時間は終わってしまった。
体調が悪いだけとは思えないその態度に、胸の奥に言葉にならない不安が灯った。
翌日も昼食時間ぎりぎりに食堂に姿を見せたネヴィアだったが、私とリズに向ける態度も昨日と変わらないままだった。そして、その次の日、ネヴィアはついに食堂に来なかった。その翌日も同様で、昼食時間が終わりに差し掛かっても、ネヴィアが食堂へ姿を現すことはなかった。
ネヴィアのことが気になるのか、リズは顔を曇らせ、何度もちらちらと食堂の入り口に視線を向ける。
「ネヴィア様、今日もいらっしゃらないのでしょうか」
「せっかく元気になったというのに、何をそんなに根を詰めて調べているのだか」
ここ数日の違和感に蓋をして、リズを心配させないように平静に返す。
「……もしかしたら、私がネヴィア様を不快にさせてしまったせいで、避けられているのかもしれません」
「リズがネヴィアに?」
リズの話によると、ネヴィアが休み始めた前日、ネヴィアとリズが放課後会話をしていたが、リズの一言をきっかけにネヴィアの様子がおかしくなったらしい。
そして、その翌日からネヴィアが学院を休み、登校するようになってからも、顔こそ合わせるものの、ネヴィアとまともに会話ができていない状態だという。
説明するリズの声には、怯えにも似た揺らぎが混じっていた。自分が何かしてしまったのではないかという思いが、胸の内で膨らんでいるのだろう。
「ネヴィアにはきっと何か事情があるんだろう。それに、リズのせいとは限らないから、あまり気に病まないように」
不安に顔を曇らせるリズを少しでも和らげられるよう、私はできるだけ優しく声をかけた。
そうリズには言ったが、普段の思慮深いネヴィアであれば、リズに余計な心配をかけるようなことはしなかったはずだ。それなのに、今回は明らかに避けるような行動をしている……。
登校してからのネヴィアの変化は、あまりにも急だ。会話内容や表情、距離を取るような態度――まるで別人のようなネヴィアの行動に、私は深い違和感を覚えた。
その夜、私は父の執務室に呼ばれ、驚くべき話を告げられた。
「当家に、聖女リズの後ろ盾を引き受けてほしいという打診がきた」
「それは本当ですか? 既にいくつかの申し立てが出ていたと思うのですが……。王家が後ろ盾をされないのですか?」
「王家が直接後ろ盾を務めるには少々問題があってな。神殿や他の貴族も後ろ盾を希望しているが、リズ嬢が乗り気ではないようだ。だからこそ、調整役として当家に白羽の矢が立った、というわけだ」
リズの後ろ盾決めが難航している話は聞いていたが、王家から直々に打診が来るということは、よほどの事情があるのだろう。
この場合の後ろ盾とは、単なる後援者ではない。おそらく養子縁組を行い、リズが貴族として認められるよう取り計らうということだ。
「王家が後ろ盾にならないのは、リズが当家と養子縁組を結んだ後に、王家に輿入れする予定だからでしょうか?」
「いや、その予定はない」
「では、いずれかの有力貴族と婚姻を結ぶのですか?」
貴族として生まれた以上、家のために政略結婚の道具となることを、私は幼い頃から理解していた。だが、リズは違う。平民の生まれであるリズに、いずれ気持ちの伴わない婚姻を強いることになるかもしれない――そう思うと、胸がずきりと痛んだ。
「それは難しいだろうな。リズ嬢が聖女としてどれほど力を成長させるか次第ではあるが、今後、大きな影響力を持つことは間違いない。当然、輿入れする家門はその影響力を手にすることになる上、神殿への影響力も加わることになる。下手に力を与えると、今の貴族派閥のバランスが崩れ、王家や当家と対立する可能性も出てくる。王家としては、宰相家に庇護させておいた方が、いざという時に聖女の力を扱いやすいという思惑もあるだろう。ゆえに、当家が後ろ盾になるのであれば、リズ嬢は当家の庇護下のままでいてもらう必要がある」
「それは……」
父の言葉に、思わず感情が昂る。「婚姻もさせず、一生飼い殺しにするつもりですか?」と問いかけそうになった瞬間――それよりも早く、父が続けた言葉に思考が停止した。
「その場合、リズ嬢にはウィンステッド家の傍系と養子縁組してもらう。そして、リズ嬢の希望にもよるが、おまえと婚姻を結んでもらうことが一番だろう」
「……は? 突然何を言われるんですか!? 私はネヴィアと婚約しているんですよ」
私はあまりの驚きに目を見開いた。まったく想像していなかった父の言葉に、思考がうまくついていかない。
「ネヴィア嬢は、健康面に問題がある。内々の話だが、このままいけば後継者の座を退く可能性が高いそうだ。おまえとネヴィア嬢が婚約した当時、ネヴィア嬢の妹はまだ赤子で、無事に成長する保証がない状態だったゆえ、ネヴィア嬢が後継者に決まったのだ。しかし、妹御のエリーゼ嬢は今年で九歳。いつ後継者変更の話が出てもおかしくはないだろう」
私は今度こそ頭から血の気が引いた。目の前に現実を突きつけられたような衝撃だった。
恋愛感情はなくともネヴィアとは幼い頃からの付き合いだ。後継者として、ネヴィアが努力を重ねていたことを誰よりも知っている。
それなのに、今になって突然、ネヴィアが後継者の座を降ろされることになるのか……?
「必要があったからおまえが婚約者となったのだ。だが、それが失われるのなら、解消されるのもまた筋というものだ。ネヴィア嬢もそのことは重々理解しているだろう」
父がこう言うということは、フェイランス伯爵から内々に話が来ているのだろう。ここ最近、ネヴィアの様子がおかしいのは、もしかして後継者の話を聞いたからか?
もしそうであれば、ネヴィアはどんな気持ちでその話を聞いたのだろうか……。
貴族の結婚であれば、父の判断は当然のことだ。だが、理性と感情は違う。
ネヴィアは後継者を退かされ、婚約が解消される。そして、その元婚約者であった私は、今度は彼女の友人の婚約者となる。リズにとっても、自分が友人の婚約者を奪うことになるのだ。そのことで、二人がどれほど戸惑い、傷つくか……。
この話が本格的に進んだとして、リズが喜ぶとは到底思えない。むしろ、不誠実な男として、私を嫌うのではないだろうか……。
「申し訳ありませんが、少し気持ちを整理する時間をいただけませんか。後ろ盾の話はともかく、ネヴィアとの婚約解消も、リズとの婚約も、今のままではどちらも受け入れ難いです」
「わかった。いずれにせよ、根回しに時間がかかる。それまでの間、気持ちの整理をつけると共に、リズ嬢と親交を深めておけ」
父の最後の言葉に、私は鉛を飲み込んだように気持ちが重くなる。
リズとの仲を深めるということに、否はない。だがその行動が、いずれリズと婚約するための下心によるものだと思うと、途端に胸の奥が薄汚れていくように感じた……。
今の三人の関係のままなら、ネヴィアとリズの友情を、二人の私への信頼を裏切らずに済むのではないかと、益体もない考えが頭に浮かぶ。
気持ちを整理する時間が欲しいとは言ったが、実際のところ、父の考えが急に変わることはないだろう。だがそれでも、ネヴィアを切り捨てる決断が、今の私には到底できなかった……。
「隣、いいだろうか?」
図書室の奥、一人静かに本を読んでいたネヴィアに、私は声を掛けた。ページをめくる手を止め、私を見上げたネヴィアは、どうして来たのかと言わんばかりの表情を浮かべる。
「何故、グレアムがこちらへ?」
「昼食時間がそろそろ終わるというのに、一向に食堂に姿を現さない婚約者を心配して様子を見に来ることは、不思議ではないだろう?」
「……」
困ったように眉を下げるネヴィアの返答を待たずに、私はネヴィアの隣へと腰を下ろした。人影は少ないとはいえ、ここは図書室。周囲を気にしつつ、私は小声でネヴィアに話しかける。
「昼食は食べたのか?」
「軽くではありますが、食べております」
「そうか、それならよかった。何があったのかは知らないが、そろそろちゃんとリズと会話したらどうだ? ネヴィアを不快にさせてしまったのではないかと、リズが心配していたぞ」
「別に、リズに対して怒っているわけでは……」
そう言いながら、ネヴィアは私の目を避けるように視線をそらした。その態度が、どこか後ろ暗さを感じさせる。
「では何故、食堂に来ない?」
「お伝えしたように、調べ物があるからです」
「食事や友人、婚約者を疎かにしてでも優先するべきことなのか?」
「今の私には必要なことです。時間が、ありませんから」
視線を落としたネヴィアの横顔を眺め、私はちらりと彼女の手元に目を向ける。閉じられた本の表紙には、薬草学の学術書のタイトルが書かれていた。
ネヴィアの「時間がない」という言葉の意味を、どう受け取るべきか。深読みするのであれば、ネヴィア自身も自分の体調を不安に思っているのだろうか……。
「何をそこまで調べる必要があるんだ? 相談してくれれば、私でよければ力になるが」
「ごめんなさい、一人で調べたいことだから。それに、今はあまり人と顔を合わせたくないの」
いつものネヴィアらしくない、冷たく突き放すような口調に、私は昨日の父の話を思い出す。やはりネヴィアの態度の変化は、婚約解消するかもしれない話を耳にしたからだろうか……。
だが、それなら何故リズを避けるのか。あれほど親しくしていたリズと顔を合わせないようにするなんて、一体二人の間に何があったんだ?
何が原因だったかについては、リズも話すことを拒んでいた。ネヴィアに聞いても答えてはもらえないだろう……。
私は一瞬迷った末、あえて何気ないふうを装って「そういえば」と話題を切り替える。ネヴィアの反応を探るため、そして、こちらから情報を出しておくことで、いずれ訪れるその時に、彼女の心の負担が少しでも軽くなることを願って……。
「王家から、ウィンステッド家にリズの後ろ盾の打診がきた」
「――!」
ネヴィアがはっとした表情で顔を上げる。青い瞳には明らかな動揺が浮かんでいた。
「……宰相閣下は、どのようなご判断を?」
「まだ検討段階の話だ。決定はもう少し先になると思う」
「そう……ですか」
ネヴィアはそう答えながら、深く考え込むように俯いた。私の言った「後ろ盾」の意味を、彼女はどのように受け取っただろうか。
先日の父の様子からして、当家がこの件を受けるのは時間の問題だろう。そして、リズがもし当家を後ろ盾に望めば、ネヴィアとの婚約解消の話も進む可能性が高い。
それはすなわち、ネヴィアが後継者の座を降ろされることを意味していた。
婚約解消の話をネヴィアに伝えるとき、どうすれば彼女の傷を浅くできるか……。正解のない答えを探しながら、私はネヴィアの曇った横顔をただ見つめていた。
――この二日後、思いもよらない最悪の事件が起こることを、この時の私は予想もしていなかった。