【まどすぱif】冬雪夏生と平井零火をあの部屋に閉じ込めてみた。
ダブルベッドの上で先に目を覚ましたのは、平井零火の方だった。
僅かに痛む頭を抑え、やたら寝心地のいいベッドの感触を確かめる。なぜ自分がこんな場所で眠っていたのかを思い出せないが、動いていいものだろうか。頭全体が煤煙に覆われたかのように、思考が働かない。
丸まって寝ていた身体を解すように、軽く身動ぎしてみる。すると、背中に何か固いものが触れる感触があった。自分以外の寝息も聞こえる。誰かの身体にぶつかったらしい。
振り返ってみて、元々上手く働いていなかった思考が停止した。そこに寝ていたのは冬雪夏生──零火が想いを寄せる青年である。
実はこれまで、零火は冬雪の眠る姿を──彼が古い名だった頃から含めて──見たことがない。零火が寝顔を見られたことはあるが、冬雪は眠そうにしていても、少なくとも零火には眠る姿を見せたことはない。
それが今、無防備にも寝姿を晒している。驚くな、という方が無理だった。
寝姿を初めて見たことについてもだが、彼が零火を連れてきて寝たにしろ何者かに連れ去られてきたにしろ、その実力を知っていれば、いずれにせよ驚くことになるのは決まりきっている。
とにかく冬雪を起こさなくては、と思い立ち、零火は身体をようやく起こすと、冬雪の肩を揺すり声をかけ始めた。
「先輩、先輩! 起きてください、先輩!」
起こしながら、ふと気付いた。自分は今、どこに寝ていたのか。そう、冬雪の隣なのだ。背を向けた状態だったとはいえ、好きな男の横で寝ていた、という事実に思い至り、零火は一人、赤面した。
そんなことを考えている場合ではない、と分かってはいるのだが、一度気付いてしまうと脳裏から追い払うのは容易ではない。それでもどうにか抑え込み、呑気に眠ったままの冬雪を強く揺さぶる。
「先輩!」
語気は強いが、一応声量は抑えている。自分たちをここへ連れ込んだ何者かがいるのであれば、目を覚ましたことに気付かれない方が良いのではないか、と考えてのことだ。
三分ほど必死で起こしてようやく、冬雪が目を開けた。その視界に映った顔を認識すると、ぼやぼやとした声を発する。恐らく、この声で話されて内容を理解できる者は、零火を含め五名もいないだろう。
「零火か……そろそろ交代の時間か?」
「どんな夢見てたんですか……おはようございます、先輩」
冬雪は、首だけを動かして周囲を見た。
「見覚えのない部屋だ、これは一体どういうことだ?」
「私が知りたいですよ。一応聞きますけど、先輩が私を連れ込んだ、っていうことではないんですね?」
「するわけがないだろう。こう見えても、最低限の倫理観は身につけているつもりだ」
「そうは思えない職業ですけど……まあ、それは協力者も同じことか」
どうやら妙な事態になっていると理解したらしい冬雪は、その場で身体を起こし、
「盗聴されているな、これは。そしてここは共和国ではなく日本か」
「盗聴!? なんでそんなことが分かるんです?」
「ただの勘だが……いや、違和感の正体はあれだな」
冬雪が指さす方向には、壁のコンセントに挿された電源タップがあった。他にも空いているのに、わざわざコンセントが増やされている。
「あからさますぎて逆に怪しいが、よくある盗聴器の一つだろう」
「そういえば、電源タップに偽装した盗聴器はよくあるって言いますね」
ストーカーなどの報道で、時折紹介される盗聴器に多いものだ。現物を見るのは、冬雪も零火も初めてだ。
「まあ、どうやらボクたち以外の人間は近くにいないようだし、室内を調べてみることにしよう」
冬雪は、億劫そうにベッドから降りて立ち上がった。
どうやらホテルか何かの一室に近い構造の部屋らしい、ということが、調査の結果判明した。その割に、壁の向こうに他の部屋は見当たらない。どうやら地下室のようだ。
冬雪たちが始めに目を覚ました部屋は寝室だったようで、ダブルベッドとテーブル、時計が置かれており、調査終了時点で二時頃を指していた。午前か午後かは分からない。
隣の部屋はテーブルと椅子、水道場、戸棚が置かれており、戸棚の中には数日は生き延びられるであろう量の水と食料が入っていた。
テーブルの部屋からは二手に別れており、片方に進むと脱衣所がある。乾燥機付き洗濯機には洗濯ネットが四枚(同じ色が二枚ずつ)とバスローブが二着、ドライヤーが一台置いてあり、脱衣所の先にはトイレと浴室がそれぞれ別にあった。
テーブルの部屋から別れたもう一方に進むと、玄関らしき空間がある。冬雪と零火の靴が置かれており、下駄箱には靴べらが置かれているだけで、他には何もない。一応ドアノブは回してみたが、鍵がかかっており、軟禁されたようだ、というらしきことは理解できた。
「つまり……」
ダブルベッドが広々としているのをいいことに、大の字になって転がった冬雪が言った。
「この部屋の持ち主は、ボクたちに休暇をくれたわけだ」
「そうはなりませんよね!?」
テーブルの上にあった一枚の紙をひったくるようにして掴み、零火が言う。
「ここに書いてあることが事実だとしたら、私たちは、その……」
「火遊びをしないと出られないわけだ。いやあ、困った困った。こいつは大変なことだなあ」
全く困ったようには見えない冬雪の態度に呆れ、零火は紙に書かれた文章を黙読した。さすがに声に出すのは羞恥心が勝る。
「ここはセックスをしないと出られない部屋です。あなた方は監視されており、鍵は遠隔で管理されています。誤魔化しは一切通用しません」
「随分とストレートに書くものだねーぇ、それ」
「ストレートすぎますよ! しかも先輩、見つけた盗聴器っぽいもの全部壊しちゃうし」
調査の過程で、電源タップの他にも怪しいものは大量に発見されている。どんな行為を想定したのか、盗聴器らしきものは寝室以外にも、テーブルの部屋や脱衣所、浴室、トイレに廊下に玄関に至るまで、各所に執拗なほど設置されていた。
二〇にも上るそれらの全てを、冬雪は時に力尽くで取り外し一切の躊躇なく分解すると、ひとつ残らず踏み潰したのだ。通気口の中にまで腕を突っ込み、取り出せたレコーダーを叩き割るほどの徹底ぶりである。
「これじゃあ監視手段がなくなって、出るに出られないんじゃ……」
「落ち着け、ここは日本だぞ。抜け道なんていくらでもある。共和国だとしても、特に変わらんがな」
「抜け道って……あ」
「気付いたか? いつでも出られるだろう、こんな場所」
「そういえば私たちの力なら、どうにでもなりますね」
ことここに至り、零火はようやく自分が何なのかを思い出したようだった。彼女は雪女、冬雪は魔術師その他、とにかく二人とも超自然力を操る能力を持つ。ただの壁や扉など敵ではない。
「共和国なら結界が使われている可能性も一応考慮したかもしれないがな。日本ならその心配もない」
「陰陽道とかの結界で出られないかもしれませんよ」
「ないだろう、そんなもの」
「確かにないみたいですけど」
零火は紙を置くと、ベッドの端に腰掛けた。
「つまりこの状況は、ボクたちがいつでも無条件に部屋から出られる身でありながら、そこから出られないことにしてこの部屋でのんびり過ごす、という大義名分を与えてくれているわけだ。ありがたい話じゃないか、しばらく厄介になるとしよう」
絶対にそういうことではないだろう、と言いたいところだったが、零火は何も言わず、ただ呆れたように笑った。
好きな男に女として見られていないような気がして、それだけはやや釈然としなかったが。
「しかしそれにしても、妙だとは思わないか」
「先輩の盗聴器に対する仕打ちがですか」
「仕打ちとはなんだ、マゾヒストならともかく、真っ当な人間は盗聴されることに、いい気分はしないだろうが」
どの口が言っているんだと零火は言いたくなったが、とりあえずそれは自制した。
「そうじゃなくて、発見できた監視手段が盗聴器だけだったことだよ」
そこでようやく、零火も冬雪と同じ違和感に気付いた。
「もしかして、視覚的な監視手段がない……?」
「まさか超音波センサで動きを見るつもりでいたわけではないと思うが……音だけで、火遊びをしているかどうか分かるのかな」
「じゃあもしかして、他にサーモカメラとか赤外線カメラとかが設置されていたり?」
「ないとは言い切れないな。もう一度確認してみるか」
冬雪は大の字になって寝ていたベッドの上に立つと、天井に取り付けられた照明器具のカバーを取り外した。光源はLEDのようだ。
「明らかに要らないものが付いているじゃないか。グロウランプが必要なのは蛍光灯だ、よくもまあこんな小さなカメラを仕込んだものだな」
呆れも尽きてむしろ感心していると、零火が余計なことに気が付いた。
「あの、この時計の文字盤を照らすライト、よく見たらレンズみたいに見えるんですけど……」
「もうその時計は破壊してしまえ。時間は多分、魔術でも計れる。そんなに難しくはないはずだ」
グロウランプと時計の破壊される音が、寝室でほぼ同時に響いた。木製の床は僅かに凹んだ。
「どうせこの分だと、もっと巧妙なカメラと盗聴器が、どこかに仕掛けてあるんだろうなあ。どれもこれもが盗聴器に見えて辟易してくるよ。その無駄な技術力を、別のことに役立てればいいのに」
「先輩こそ、日本にいたときはよく才能の無駄遣いして、屋敷で変なもの作ってましたけどね。大砲みたいなのとか」
「あれは……まあ、今は別のところに応用してるから。しかし監視手段の底が見えないのが厄介だな、いっそ電子回路を全てショートさせて破壊するか?」
「水周りと衛生周りが困りますよ」
「プライバシー的には、一番監視を排除したいところだな……武力で叩き潰せばいいわけじゃないと、どうにも面倒だ」
冬雪は、電子機器の分野に明るいわけではない。ソフトウェアの扱いは多少の心得があるが、ハードウェアの構造などはからっきしだ。魔法とは勝手が違いすぎて、太刀打ちができない。
彼はエネルギーを探知することで、周囲にある物質を調べる魔術を独自に獲得している。理屈だけでいえば、これを使用してレンズを探せばカメラは排除できるし、磁石を探して盗聴器を排除することもできるのだ。
だが、それほどの繊細な作業になると、どうしても時間と労力が結果に見合わない。当面の生活拠点にするのであれば検討するが、長時間滞在しないであろう部屋のプライバシーを確保するためだけに行うには、少々気力が足りないものである。
冬雪は、再度ベッドに倒れ込んだ。
「まったく、ただ休暇を獲得するのにどれだけ手間がかかるんだ」
「この部屋を作るのに、どれだけの手間をかけたんですかね……」
零火もおずおずとベッドに腰掛け、冬雪に同意する。部屋をコンセプトと違う方向に使用するのが決定されている点については、今更指摘しない。
「やれやれ、無駄に疲れたよ」
その一言を最後に冬雪が眠ったのを確認すると、零火の思考には僅かな空白が生まれた。
ここまでは別のことに意識を使っていたので良かったが、冷静になってみると、想いを寄せる相手と二人きりの状況にあるのだ。しかも、余計な横槍が入る可能性の極めて低い状況である。
それに加え、これまで見ることのなかった冬雪の寝顔を、この短時間で二度も見ている事実にも遅れて気付いた。顔が熱い。この男は、なぜこうも平然と居眠りができるのだろう。
「ねえ、先輩」
顔を近付け、そっと囁いてみる。普段の彼ならば、「先輩は止めろ」とでも返してくるところだ。分かっていても呼びたくなってしまうのは、自分が元々好きになったのは、まだ彼を先輩と呼んでいたときだから。
今日に限っていつもの返答が一度もないのは、恐らく盗聴している首謀者に、今の名を知られないためのささやかな抵抗措置なのだろう。その証拠に、彼は最初の一度以外、零火と名を呼んでいない。
好きな人に名前を呼ばれるのを状況が許さないのは、やや残念なところではある。だが零火は零火で冬雪の古い名を呼んだことは一度もなかったので、自分だけそれを主張するわけにもいかない。
少しずつ、この部屋に閉じ込められる前の記憶が蘇ってきた。今日は確か、日本である人物を探し出す任務を行っていたはずだ。恐らく街中を歩いている際に、何らかの方法で眠らされ、拉致されたのだろう。
若い男女で連れ立っていたために、恋人同士とでも間違われたのだろうか。それならそれでも構わない。今少し、首謀者には勘違いをさせておいてやってもいい。
目を覚ましたときに冬雪が呟いた、「零火か……そろそろ交代の時間か?」という寝言を思い出す。彼は任務の夢でも見ていたのだろうか。今後、長時間に渡る任務に同行させてくれる日が来るのだろうか。
だとしたら、それは喜ばしいことだ。今まで彼にずっと助けられてきた分、彼にはもっと頼ってほしい。彼に甘えたい願望も大きいが、恐らく恋人にはなれない代わり、頼られるパートナーでありたい。頼られるほど、強くありたい。
「そんな風に願ってしまうのは、私が欲張りだから?」
眠る冬雪の前髪を、そっと指ですくってみる。今だけは、こうしていても怒らないだろう。最初に出会ってから二年目も近いが、初めのうちは敵視してばかりで、このように愛しく想うようになるなど想像もできなかった。
随分と幼かった、と思う。あれだけ敵意をぶつけられたら、普通嫌になって放り出したくなるだろうに、よく付き合ってくれたものだ。
一年前、彼がいなくなるかと思った日には、素直になれなかったことを強く後悔した。その反動か再開した日にはひどく正直に喋ってしまった気がするが、あれから自分はどれだけ大人になれただろう。
彼に出会ってから、大きく変わったことは自覚がある。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、嫌だと思ったことはない。
「例えば、こんなところも」
冬雪の隣に寝転がってみる。胸に額を押し付けると、ゆっくりとした鼓動を感じる。
「あなたが悪いんですよ」
と呟いて、多幸感の中、零火も遅れて眠りに落ちた。
身体の正面に奇妙な温もりと不自然な冷気を同時に感じ、冬雪が目を覚ますと、横向きに寝転んだ彼の腕の中に、零火がすっぽりと収まって眠っていた。
「……これは、どういうことだ?」
状況を理解するのにやや時間をかけ、冬雪はその感触を確かめる。冷気は零火が身に付けているであろうペンダントが発生源のはずだ。雪女の特性として熱に弱い彼女のために、以前冬雪が製作したものである。
これは夏に使用することを想定した設計になっており、その目的は、日本の酷暑によって彼女が倒れないための体温調節だ。秋に使用することはないし、実際眠る前までは、ペンダントは作動していなかったはずである。
どうやら間違って起動してしまったらしい。誤作動防止のための改良が必要だろうか、などと冬雪は仕事柄考えたが、そんなことより、このままでは風邪を引いてしまう。室温の下がり具合からして、起動からそれなりの時間は経過しているのだろう。
空腹も感じ始めている。零火を起こし、食事をしたいところだ。頭一個分の身長差があるため綺麗に収まっているが、彼女が起きなければ冬雪の身動きも封じられる。というか、枕にされている腕が既に痺れて動かせない。
自由になっている右手で何度か揺り動かすことで、零火を起こしにかかる。零火が揺れる度、腕の痺れがさらに強くなる。
本当になぜこのような体勢になっているのか疑問だが、大方零火が隣に寝ているところで、自分が寝返りでも打ったのだろう、と推測した。彼女が隣に寝ていたことについては、面倒なので特に何も考えないでおく。時間の無駄だ。
ようやく薄目を開けた零火は、現在の体勢を確認すると、冬雪の右腕を抱き抱えるように己の身体に巻き付け、再度目を閉じた。
「……おい」
気のせいだろうか、幸せそうに眠る彼女を起こすのは忍びないが、そろそろ本気で腕の痺れが限界に近付いてきたので、寝直すにしてもせめて体勢を変えてもらいたい。
「その前に、ペンダントの回路を切れ。風邪を引くぞ」
「雪女は病気になりませーん」
「さては起きているな。なら腕が痺れているからどいてくれ。あと怪祖さんは、昔風邪で高熱を出したと言っていたぞ。百歩譲って君が無事でもボクが寒い」
「え、お化けって風邪引くんですか?」
零火が反応して頭を持ち上げた一瞬の隙に、冬雪は腕を引き抜いた。稲妻でも落とせそうなほど痺れているため、しばらくは動かせないだろう。
「ああっ……」
腕枕がなくなって残念そうな声を零す零火だが、冬雪としてはそろそろ本気で勘弁してもらいたいところだ。
「それはそれとして、そろそろ腹が減ってこないか? 食事にしよう」
「もうちょっとだけ一緒に……だめ、ですか?」
「来ないならボク一人で食事を済ませるが」
「そんな殺生な!」
ベッドから降り、冬雪は振り返ることなく隣室へ歩いて行ってしまう。零火はやや頬を膨らませてみせたものの、彼が見ていないと分かるとペンダントの機能を止め、いそいそとベッドを降りて後を追いかけた。
「ああ、寒かった……」
まだ痺れる腕を擦り冬雪が呟くのを聞き、零火は笑った。
「そんなに寒かったなら、先輩がペンダント止めれば良かったのに」
「いや、そういう訳にもいかんだろう」
戸棚から保存食を取り出しながら、冬雪が言う。彼は至って真面目だ。
「ペンダントがどこに着いていると思っている?」
その意味を理解し、頬を朱に染める零火に冬雪は保存食を手渡した。
「でも私は、先輩だったら、その……」
「馬鹿か。女が身体を安売りするものじゃない。そんなことより、早く食ってしまおう」
「そんなこと!?」
零火にとってはそれなりに大きな問題なのだが、顔を赤くする様子も狼狽する様子も見せない冬雪である。早く座るよう零火に促し、自身も適当に椅子を引いて席に着いた。
「君はときどき、羞恥心の基準がどこにあるのか分からなくなるな」
という彼の一言で、この話は終わることになった。
長期保存と栄養バランスと省スペースでの備蓄が最優先にされた味気ない保存食を食べ終えると、冬雪は風呂に入りたくなった。寝室の天井に描いた魔法陣が大まかな時間を知らせてくれるが、日付が変わるまでそう長くないようだ。
「君はいつも、どのタイミングで風呂に入っている?」
「私の家は夕食後に入るのが習慣ですけど、先輩は?」
「日本を離れてからだと、ボクも夕食後になることが多いな。店の仕事も任務も料理あると、食前に入る時間はないよ。ボクはこれから行くつもりだが、君も一緒に来るか?」
無論、冬雪は冗句のつもりである。
「そうしましょうか、こんな部屋ですから」
無論、冬雪は冗句として受け取った。
洗濯する服を洗濯ネットに入れ、乾燥機付き洗濯機に放り込むと、冬雪はバスローブを脱衣所に用意して浴室に入った。
至れり尽くせりなこの部屋だが、寝間着は用意されていないようだ。入浴後、洗濯が終わるまでは、バスローブのまま過ごすことになるだろう。あるいは寝心地や身体への負担などを考慮すると、バスローブでそのまま寝てしまった方が良いかもしれない。
今日の零火は比較的ゆったりとした服装なのでともかく、冬雪の普段着はかなりフォーマル寄りで、本来とても睡眠には向かないのだ。先刻は昼寝をしたが。
寝間着が用意されていないのは、ここが何のための部屋かを考えると、そもそも必要ないと思われたのだろう。
(まあ、無理もないか。まさか先方も、この部屋に投げ込んだ男の方がこんな身体だとは思わんだろうしな)
いっそ同情すら覚える。この部屋に自分を入れてしまった以上、いかなる手段を講じようとも、首謀者の本懐は果たされることはないのだ。前提からして破綻していた。ここまでひどい人選ミスは、冬雪の過去一八年でもこれが二度目である。
(愚かな神々よ、ってところだな)
身体を洗い終えると、今は封印したかつての口癖を思い出しながら、冬雪は湯船の中で欠伸をした。浴室のドアが開いたのは、そんなタイミングだ。
「さっきまであれだけ寝ていたのに、まだ眠いんですか、先輩?」
タオルを掴んで、零火が入ってきたのだ。無論、一糸纏わぬ姿で。本当に入ってきちゃったよ、と呟き、冬雪はそれとなく視線を逸らした。これで一応、配慮のつもりである。
「一緒に入るかって先に訊いてきたの、先輩ですよ?」
「冗句のつもりだったし、冗句のつもりだと思ったんだよ」
「……よくそれで今の仕事できてますね」
「心理戦は専門外だ」
同胞には心理戦を主な仕事とする者もいるが、冬雪はそうではない。元々苦手な分野でもあり、上司には端から期待などされていないのだ。場合によっては使わないこともないが、下手な鉄砲は撃たないに越したことはない。
零火は身体の前面を隠すように持っていたタオルを手すりに掛け、シャワーで身体を流し始めた。鼻歌を歌うほどの上機嫌ぶりである。冬雪はもう再度、「君はときどき、羞恥心の基準がどこにあるのか分からなくなるな」と呟いた。
「ねえ、先輩」
鼻歌とともにシャワーが止まった。
「なんだ」
「身体を洗うのを手伝ってほしいって言ったら、どうしますか?」
「何者かの巧妙な変装を疑う」
「……ちょっとは動揺するところじゃありません?」
「冗談だ。もし君が偽物だったとしたら、最初に目を覚ました時点で気付いて拷問にかけている」
「私が本当に誰かの変装だったらこの事件、先輩が目を覚ました瞬間に片付いてたんだろうな……」
おおよそ男女が入浴しているとは思えない会話だが、二人にとっては平常運転そのものだ。いっそ懐かしいほどである。それは冬雪だけでなく零火も同じだったようで、
「一年半くらい前の、あのときを思い出しますね」
と言って笑った。
「当時は私も弱くて、先輩はもっと私の扱いが雑で、でも優しかったのは変わってなくて……」
「記憶が混濁していないか? この部屋に連れて来られた時に頭でも打ったか? 君は強かったし、ボクが優しかった時期なんか一〇年も前に終わっているぞ」
「それなら、どうして私はそんな人を好きになっちゃったんでしょうね?」
そう言われてしまえば、冬雪は反論はできないのだ。なぜかといえば、未だに自分が零火に好かれている理由を、未だによく知らないためである。今できることはといえば、
「まったくだ」
と疑問に同調することくらいだ。
再度シャワーが流れ始める。今度は鼻歌はないようだ。
「これは後でベッドで訊いても良いんですけど」
シャンプーを洗い流した零火が問う。
「正直なところ、先輩は私のこと、どんな風に思ってるんですか?」
「今更なことを訊くんだな」
「それは本当にそうなんですけど……あまりこうやって、二人きりが確約された場って今までなかったじゃないですか。今なら答えてくれるかなって」
「ボクが君をどう思っているか……なるほど、言われてみれば、あまり深く考えたことはなかったな」
「偏食家として答えないでくださいね?」
零火が念を押したのは、そうしなければ何かずれた答えが返ってくる可能性を危惧したためだ。彼女は冬雪に対し、肝心な部分で鈍感な男、という評価をしているのである。困ったことに、その評価は概ね間違っていないのだ。
「偏食家としての視点を抜いて、一人の男として答えろ、か。そうだな、その視点で言うのであれば、ボクは君のことを、非常に好ましい女性だと思っているのだろうな」
シャワーヘッドがやかましく床と衝突した。
「怪我はないか?」
「はい、いえ、その、そんなに直球で来るとは思わなかったので驚いたというか」
慌てて拾い上げようとしたため、零火はシャワーヘッドをもう一度取り落とし、掴んだかと思えば出続ける湯が湯船の冬雪にかかってしまった。
「す、すみません!」
「入浴中なんだ、こんなことで怒りはしないよ」
彼女が驚くのも無理はないのだ。零火は一年前に、自身の想いの丈は冬雪にぶつけている。これを受け冬雪は零火に対し、その想いには応えられないと回答している。
これは冬雪が他者に向け、恋情を持つことができないという問題があるためだ。零火自身の女性としての魅力には無関係な理由である、という点も、冬雪は伝えていた。零火としては、一年間ずっとそのつもりでいたのだ。
まさか一年で心変わりがあり、冬雪が人間としての恋情を取り戻したのか──零火としては残念ながら、そういう話ではなかった。
「誤解のないよう付け加えておくが、これは恋愛感情とは違う話だ。より言葉に正確さを求めるのであれば、女性としてというより人間として、君がボクの好みに合致していると言うべきかもしれない」
「なんだ、そっか」
やや残念そうにしながら零火は身体を洗い、石鹸を流していく。それが済むと彼女も湯船に入り、冬雪に身体を預けるような姿勢で湯に沈んだ。
「二人で入るには狭いな」
「ちょっと熱いですね」
姿勢が定まると、二人は同時に全く違うことを呟いた。勢いよく湯が溢れ、排水溝に落ちていく。
「こうやって一緒にお風呂に入るのって、ちょっと恥ずかしいですね」
「遅いんだよその感想が出てくるのが。なぜドアを開けた時点で出てこなかったんだ」
「不思議ですよね。でも先輩と一緒だと、なんだか安心します」
「話がどこに飛んだんだ……」
それからしばらくは、二人とも静かに湯船に浸かっていた。時間にして五分程度経過しただろうか、やがて零火が冬雪の胸に耳を触れさせるように姿勢を変えると、不満そうに冬雪を見上げた。
「先輩、全然ドキドキしてない」
「……は?」
姿勢を変えたのは、冬雪の心音を聴くためだったらしい。彼としては、零火が浴室のドアを開けた時点で、既に驚きの段階は過ぎ去っているのだ。脈拍はとうに正常域に戻っている。今更それを指摘されたところでどうしようもない。
だがそんな説明では、零火は納得しなかったようだ。
「さっきから私ばっかりドキドキしてるのに……ずるい」
「ずるいとは」
「こうしたら、先輩もドキドキする?」
顔を赤くしながらも、零火が冬雪の腕を自分に巻き付けるように持ち上げる。しかしそれで冬雪の脈拍が分からないと分かると、彼女はさらに不満顔になった。
「なんでこれでも変わらないんですか」
と言うが、冬雪としてはそんなことを言われても困る。
それはそれとして、言っておかねばならないことはあった。
「さては無理をしているだろう」
「してないです」
「湯が熱いと言っていたか? 君が入ることも考えて、ややぬるめの温度に設定しておいたはずだが、ペンダントもないとまだ熱かったか」
「違います」
駄々を捏ねているようにしか聞こえない反論は無視して、冬雪は断定した。
「またのぼせたか……」
「のぼせてないです」
「普段白い肌がうっすら赤くなっているじゃないか。言い逃れは難しいぞ。屋敷に泊まりに来たときも、たまにふらふら出てくるくせに」
「のぼせてないです!」
とはいえ肌が赤くなっているのも体温が上がっているのも事実なので、冬雪としては聞き入れるわけにはいかなかった。
「上がるぞ」
「やだ」
「だめだ。勝手に連れていく」
冬雪は零火の華奢な身体を横抱きにして持ち上げると、軽く全身に湯を浴びせ、ドアを開けて浴室を出た。両手は塞がっているが、そこは魔術師の彼である。第三、第四の腕が現れ、淀みなくそれらの作業を済ませた。
身体や髪はまだ濡れているが、それも魔術魔法を使用すればタオル要らずである。余分な水を纏めあげ、集まった水は溢れないよう注意しながら排水口に流し込んだ。バスローブも飛行魔術を細かく制御すれば、手を使わず着ることができる。
「無駄に器用……」
「多才だと言ってくれ。曲がりなりにも、魔法で生計を立てているからな」
「ドライヤーしてくれるかと思ったのに」
「ここ一年半はドライヤーは使ってないな……魔術の方が楽だから」
「けち」
「なぜそうなる」
言い合いながらも零火にバスローブを着せてベッドに運び、机の上に置かれていたペンダントを作動させ着け直した。次第に冷気が溢れ始め、彼女の体温が下がり始める。
冷えすぎないよう寝かせた零火に布団をかけると、冬雪は寝室を出た。
「あんなこと言ってるけど、先輩は今でも優しいです」
そう零火が零したのは、聞こえなかったふりをして。
洗濯機を回し、冬雪が寝室に戻ると、零火はまだぐったりと力なくベッドに横たわっていた。ペンダントの効果で体温はいくらか下がったようだが、脈を計ってみると、まだ速いようだ。
「慣れないことをするからだ。沸かしたばかりの風呂に入ればのぼせて動けなくなると、いつになったら学習する?」
「だって、先輩と一緒にお風呂に入る機会はここしかないと思って……」
「……これが家電なら、叩いて正気に戻すところなんだけどなあ」
唸りながらも、冬雪は零火を寝かせた位置と反対に回り、ベッドの上に寝転んだ。
「まだしんどいかもしれないが、そろそろペンダントの回路を切らないと、風邪を引くぞ」
「じゃあ、先輩切ってください」
「さっきボクがペンダントの回路を切らなかったこと、忘れたわけではないだろうな」
「状況が違うじゃないですか。今なら私、抵抗できませんよ」
「これもさっきも言ったが、女が身体をそう安売りするものじゃない」
すると、零火は訝しげな視線を冬雪に送った。
「前から気になってたこと、今訊いても良いですか?」
「なんだ」
「……先輩って、小さい胸は好きじゃないんですか?」
「……は?」
今度は冬雪が訝る番だった。一体どこから、そんな根も葉もない推測が生まれたのだろう。仮に何者かが零火に吹き込んだのだとすれば、あまりにも迷惑な話である。
「誰だ、そんな下らん情報を作り出したのは」
「違うんですか」
「そもそも女性の胸囲がボクの好みを左右することは、まず滅多なことではない。あまりつまらん憶測でボクを貶めてくれるな」
「左右することがないわけじゃないんですね」
「……訂正しよう。それだけで左右することはない」
実際、多少好感度に影響したことはあるのだ。それは本国での出来事であって既に解決済みのものだし、零火の懐疑とは真逆の方向だったが。
いずれにせよ、零火の慎ましやかな胸囲と冬雪の彼女に対する好意との間には、一切何の関係もないのである。
「まあ今日のところは、何も心配せず眠るといい。ああ、寒いからペンダントの回路だけは切っておいてくれよ」
「本当に何も、してくれないんですか?」
「しない……というより、できないと言った方が正しいな。首謀者には同情するよ、ボクを投げ込んだばっかりに、一生本懐は果たせなくなったんだからな。悪運を呪うがいいさ」
これはこの部屋に入ってから何度も考えたことだ。あまりにも対象を間違いすぎている。
冬雪は腕を組んで枕にしながら、そんなことを言った。話題を逸らす意図があっての事だが、残念ながら零火は、その手には乗ってくれないらしい。寝物語にはやや不似合いな質問攻めが続く。
「私が歳下だから?」
「そういうわけではない」
「避妊のこととか気にしてるんですか?」
「……避妊具も避妊薬も見当たらないが、投げ込んだ女が懐妊していたら、どうする気だったんだろうな」
「じゃあなんで! これだけ整えられた状況で二人きりなのに、その全部を無駄にするようなこと!」
「よし、今の発言を覚えていろ。明日の朝まで」
やはり態度を明確にしておかねばならないようだ。
「真面目な話をするが」
などと、柄にない前置きをして冬雪は話す。
「まず一つとして、今の君に対して言いたいところはある。状況に流されるな、とは思っているよ。こんないつでも出られる休暇部屋でなくとも、邪魔の入らん密室などいくらでもあるし作れる。こんな場所に拘る必要はない」
「……」
「それとは別に、ボクが火遊びを行えない理由もちゃんと存在する。まだ盗聴器の残っている可能性のあるこの部屋では、あまり話したいことではないけどね。一つだけ言っておくならば、ボク個人の体調や意思などとは無関係だということかな」
一緒に風呂に入ったときに何も気付かなかったか、とも訊こうとしたが、これは寸前で思いとどまった。せっかく零火の体温が戻ったところなのだ、わざわざ思い出させて状態を逆戻りさせるようなことでもない。
「まあ、それについてはこの部屋を出てからだな。盗聴さえなければ、後でいくらでも話してやるさ。ボクたちに課せられた、どうしようもない欠陥について」
欠陥というより代償だな、と冬雪は考えた。完璧な生命体というものは、どうやら存在しないらしい。
零火が、冬雪のバスローブの袖を引いた。
「先輩」
「なんだ」
「どうしてもできないんですか?」
「そうだな」
「なら代わりに、眠れるまで抱き締めて、撫でていてほしいです」
「それでいいなら、そうしよう」
いつになく素直に甘えてくる零火を、冬雪はしっかりと抱き寄せ、撫で続けた。冷気の止まった布団の中で、やがて小さく寝息だけが聞こえてくるようになると、冬雪は誰に聞かせるでもなく独りごちた。
「この部屋を出ようとボクが言い出すときは惰眠に飽きたときだが……さて、それはいつになるかな」
翌朝、零火は眠る前の会話を思い出し、忘れてくれと冬雪に懇願した。ひどい羞恥心に襲われたのだ。冬雪としては、あれを忘れるなどとんでもない、などと思っているのだが。
冬雪が惰眠に飽きるのは、殊の外早かった。部屋に閉じ込められて三日目の朝である。
不味いわけではないが好みにも合わない保存食を食べ、風呂に入り、ダブルベッドに二人並んで眠る生活。これが一般的なホテルなどであれば、食事は毎度違ったものが出されるだろうし、テレビや新聞などが置いてあれば暇潰しにもなるのだ。
しかしそんな娯楽はこの部屋にない。結果としてどうしたかといえば、二日目には次のようなことが行われていた。
「机の上にあった紙の余白を複製して、何枚か紙を作ってみた」
「先輩がまた才能を無駄遣いしてる……」
「それからこれは、シャープペンシルのようなものだ」
「ようなもの?」
「素材が分からなかったからな。芯が短くなったら、複製して伸ばす必要がある」
「先輩しか使えないじゃないですか」
「そして書き心地は最悪だ」
「全然だめじゃないですか」
「シャープペンシルや鉛筆の芯には、書き心地を良くするためにダイヤモンドが含まれているらしい。だがどの程度の大きさの粒がどの程度含まれているか分からなかったので、ただの炭素棒しか作れなかったというわけだ」
「……その使いにくい炭素棒を作っていたら、もう夕方になっていた、と」
「君は随分紙で遊んだようだな」
だが冬雪は魔道具屋だ。魔道具を研究するのが日々の楽しみである。それができないこの環境は、整えられているように見えて監獄にも等しくなっていた。
「そろそろ出るか」
という冬雪の提案に、零火は反対しなかった。問題が起きたのは、その直後である。
異変は、立ったまま氷を操って遊んでいた零火に現れた。ふらついて氷を落としたかと思うと、その場に座り込んでしまったのだ。
「どうかしたか?」
「いえ、ちょっと目眩がして……」
不審に思い、冬雪は寝転がっていたベッドから降り、空気成分を魔術によって分析した。彼の得意とする魔術、物質操作魔術の応用だ。エネルギーの探知も、これと同系統の魔術である。
素早く分析を済ませると、冬雪は静かに告げた。
「零火、その場に伏せていろ。君のそれは、恐らく一酸化炭素中毒だ」
「え……」
「部屋の上部には、既に大量の一酸化炭素が溜まっている。一体どこから……いや、出処は一箇所しかないか」
それを確信すると、冬雪は強い怒りを感じた。首謀者が、目的を達成できず苛立ったのかもしれない。やはりまだ盗聴器が残っていたようだ。
「用意周到なことだ。それならこちらも、出し惜しみはしないさ」
大粒のダイヤモンドの塊が現れ、床に落下した。冬雪が物質操作魔術を使い、一酸化炭素から炭素を奪ってまとめたのだ。残った酸素は勝手に空気に混ざるだろう。
一酸化炭素中毒は、火災による死亡原因として最も多い症状だ。一酸化炭素は無色無臭のため、零火のように症状が出るまで、通常は発生に気付けない。
発生源は、寝室の天井に設置された空調設備だろう。この中に盗聴器と共に、一酸化炭素の発生装置が仕掛けられていたようだ。首謀者が痺れを切らしたり、軟禁した男女が行為に及ばなかった場合には、一酸化炭素中毒で殺害するつもりだったらしい。
「それならそれで、よく二日も待ってくれましたね……」
「まったくだな。だが、無意味だ」
そう言うと、冬雪は空調設備を氷漬けにし、完全に塞いでしまった。
「室内の一酸化炭素と二酸化炭素を分解し、酸素濃度を上昇させた。君の症状が回復次第、外に出よう」
「そろそろ大丈夫です。行きましょう」
冬雪が先行して出口に向かう。どうやら隣室の空調からも一酸化炭素が放出されているようで、二日間食事に使った部屋も一酸化炭素が充満していたが、魔術を使って分解する。床には一つ目よりも大粒のダイヤモンドが転がった。
「これ、持って帰ってもいいですかね?」
「死にかけた割には随分余裕だな……別に構わんが、どうするんだ、それ」
「情報収集を行う際、必要に応じて買収に使えるかなって」
「……ダイヤモンドくらい、必要なら都度用意してやるのに」
さすがに玄関には一酸化炭素は充満していなかったが、火災報知器は設置されている。煙ではなく、熱を検知するタイプのものだ。火災報知器なので見逃しておいたが、冬雪も零火も、多分ここにも隠しカメラは設置してあるだろうな、と推測している。
「零火、このドア、どうやって開けようか」
「普通に斬るんじゃだめなんですか?」
彼女の言う普通は普通の手段ではないが、それには言及しないでおく。なぜなら冬雪も、これを普通と捉えているからだ。
「ただ斬るのでは面白くないしなあ」
「こんなところにエンターテインメントを求めないでくださいよ……蹴り飛ばすとかくらいしか思いつきませんよ」
「まあ、分かりやすいしそれでいいか」
その後、完璧に施錠されたはずのドアが落ち葉のように吹き飛ぶ光景を観測されたとしたら、それはさぞ現実味を伴わない映像だっただろう。
ドアを出ると、一本の通路が続いていた。照明はほとんどなく、暗い通路だ。距離は大まかに二〇メートルほど、その先に階段があり、出口に続いているようだ。
「ふむ、首謀者にはこの通路では会えないか」
空の魔法陣で足元を照らしながら、冬雪が先を歩く。魔法陣は光るのだ。適当な光源が手元にない現状、安全確保のために他に方法はない。雪女でありながら暗闇が苦手な零火は、冬雪の着ているロングコートの袖を摘んでついてきていた。
階段を昇ると、雑居ビルの中に出た。現在は使われていない、空のビルである。どこでこんなものを見つけてきたのか、都合のいい物件があったものだ。
「首謀者を探しに行きますか?」
「そうだな。だがその前に、一つやっておくことがある」
冬雪は通路に向けて魔法陣を構築すると、一〇個ほどの火球を撃ち込んだ。それらは壁に接触することなく通路を進むと、破壊されたドアを通過し、二分前まで冬雪たちがいた部屋に入り、着弾と同時に強烈な爆発を引き起こす。
証拠隠滅である。冬雪としては、自分がその場にいた痕跡を、残しておくわけにはいかないのだ。指紋やDNAなどが残った部屋は、始末が面倒なので爆破して焼き尽くしてしまおう、という魂胆である。
通路から噴き出す熱風は、階段に設置されていた扉を閉め、物質操作魔術で封印することで防いでおく。部屋には空調や通気口があったのだ、あとはそちらから、高圧になった空気は逃げていくだろう。
「さて、首謀者を探すとするか」
「今ので証拠も手がかりも全部吹き飛んだ気もしますが……」
「そうでもないさ。首謀者としては、あまり遠くにボクたちを置いておきたくとないだろう。何かあったとき、処分に失敗したときに直接手を下せるような距離にいた方が安全だ。というか……既にそれらしい気配は掴んだよ」
「相変わらず手の早い……」
「偏食家だからね、任務はいつでもスピードが命だ」
塞いだのとは別の階段を昇ると、やがてビルの管理室に辿り着いた。冬雪が中のエネルギーを探ると、使われていないはずのビルであるにもかかわらず、何者かがいることが分かった。
「三人いるな」
「首謀者は複数犯だったんですね」
「そうだろうな。街中でボクたちを気絶させてあの部屋に運び込むには、一人の力では足りないだろう」
自分ならできるが、とは冬雪はわざわざ言わなかった。
「突入する」
鉄製の重い扉だったが、冬雪の前には意味を成さない。あっさりと吹き飛ばされ、易々と侵入を許した。
彼の手からは、銀色の触手のようなものが複数本伸びている。銀魔力と呼ばれる、ごく初歩的な魔術魔法の一つだ。一日目に使った第三、第四の腕の正体もこれである。
冬雪の侵入に続き、零火もまた管理室に足を踏み入れた。
「たかだか三人で、よくボクたちを連れ去ることができたものだ。素敵な休暇をどうも」
映像の乱れたモニタの前で狼狽える三人の男たちに向けた言葉は、冬雪の素直な賛辞である。別のことに警戒を向けていたとはいえ、これまで冬雪も零火も、第三者による拘束を受けたことはなかった。大抵は、その前に敵を片付けてしまうためだ。
「ボクはこいつらの記憶を全て消す。君はこの施設の記憶媒体を全て破壊しろ」
「了解」
その後三分ばかりで何があったのか、それは三人の男たちの名誉のために伏せておく。管理室だった空間は凄惨に様変わりした。機械類は目も当てられないほど無惨に破壊され、切断された銅線や割れた電子基板が剥き出しになっている。
廃墟さながらなそんな瓦礫の上に、唾液を垂れ流す男が三人、折り重なるようにして倒れているのだ。彼らは冬雪に気絶させられたのち、彼の繊細な魔術によって脳細胞を破壊され、大脳の機能の大部分を失っている。
冬雪たちを拉致、軟禁し、尊厳を奪おうと画策し、あまつさえ思い通りに事が運ばないと見るや、身勝手に処分を行おうとした者たちに対する、それが報いであった。
やりすぎにも見えるが、諸般の事情から、冬雪たちがここにいたという情報を、知られるわけにはいかないのだ。それ故の、証拠隠滅を兼ねた措置である。
「久々に暴れましたね。ちょっと鬱憤が晴れたというか」
「君にはそうかもしれないな。ボクには食傷気味だ」
「偏食家のお仕事も大変ですねえ」
最後に零火のスマートフォンを回収して現在地を確認すると、二人は荒らされた雑居ビルから脱出した。いずれ異変に気付いた警備会社や警察や消防などが現れ、中の惨状を確認することだろう。
途中だった任務に戻る前に、零火は冬雪を洋風レストランに誘った。『龍神』という名前の、どちらかというと東洋の料理店に聞こえる店だ。ここは四人まで入れる個室が複数あり、密談には適した店である。
偏食家である冬雪の同僚も、日本での活動時にはよく使用していた。零火がこの店を知っているのは、その同僚の協力者にでも接触して教えられたためだろう。
「悪くない考えだ、用意されていた保存食は、微妙に味気なかったからな」
「私も最近よく来るんですよ、ここ。任務のためだけに利用するには、少し勿体ないと思います」
「しかしまさか、あの雑居ビルがこんな慣れた土地にあったとはな……」
「『龍神』の近所だとは思いませんでしたね」
それからしばらく、二人は取り留めのない会話をして料理が運ばれて来るのを待った。保存食は味気ないだけでなく、消化にも配慮されていた。その上管理室では短時間ながら暴れたため、実は二人とも、既にかなり空腹である。
料理が運ばれて来ると、それぞれの食事に集中する時間がやや続いた。零火が気にしていた話題を持ち出したのは、その沈黙が五分ほど経った頃だろうか。
「それじゃあ先輩、そろそろ教えてくれますか。どうして先輩が、あの部屋で私に何もしなかった……いえ、できなかったのか」
「ああ、そういえば出たら話すと言ったな。なに、大したことじゃない」
その前に先輩呼びは改めろ、と前置きして、冬雪は事情を話し始めた。
「ボクが転生者の身体なのは知っているな」
「はい、一年前、元の身体を消滅させて死亡し、用意していた身体で転生した……それが今の、『冬雪夏生』ですよね」
「概ねそれで間違いない。そう、まさにその転生者の身体が問題でね。早い話が、転生者には生殖機能が備わっていないんだよ。つまり、仮に君がどれだけ望んでいたとしても、ボクはその欲求に応えることができない」
とんでもない欠陥だろう、と冬雪は自嘲する。これは彼だけの特性ではなく、他にも数万数億といる転生者全員に言えることなのだ。それも転生者のもう一つの特性の代償と考えるのであれば、大したことではないのだろうが。
「それじゃあもしかして、先輩って」
「夏生」
「夏生さんって、以前以上に恋愛に興味ないとか?」
「……ばれたか。いや、隠すような事でもないんだけどね、実際その通りなんだ。友愛やら敬愛やら家族愛やら、まあそれらにはあまり関係ないんだが、性愛に関してだけは、完全に消失しているよ。驚くほど綺麗さっぱり、とね」
生殖能力が子孫を残すためのものであれば、それがない以上、番を求める欲求も必要ない、ということなのだろう。
「なんだ、そうだったんだ。それは確かに、首謀者の人達は不運でしたね」
「そうだろう? どうせやるにしても、もう少しましな男女を放り込んでおくべきだっただろうさ。そうすれば部屋が破壊されることも、大脳が破壊されることもなかっただろうに」
ただ三人の男を憐れむだけの会話をしながら食事が終わると、二人は任務のために外に出た。
「やれやれ、捜索はまた振り出しだな。零火、どこから手を付ける?」
「その前に夏生さん、もう一つだけ訊かせてください」
零火の真剣な眼差しに、冬雪も正面から向き合う。
「私は、あなたの家族になれますか?」
その答えは、考えるまでもなかった。なんだそんなことか、と拍子抜けしたほどである。一年前、転生とともにあらゆる物事を変えたときから、決めていたことだ。そのときが来ればいつでも告げる用意はあった。
それが今なのだろう。
「君はもう、ボクの家族だよ」
本編→「魔道具屋になりたかったスパイの報告」