王妃の独白2
クリスティーネの妊娠は典医の口から知らされました。
彼によると、母体は極めて精神不安定であり体も丈夫ではないため、出産は困難なものになるかもしれないということでした。
わたくしは考えました。
放っておいても、クリスティーネは死ぬかもしれません。それならそれで結構なことです。
では、死ななかったら?
今は生きる屍のような生活を送っていても、子供が産まれたら気力を取り戻すかもしれません。自分の経験から言っても、我が子は可愛いものです。父親がどうであろうとも。
そんなことは許せるものではありません。
生まれてくるのが男児であればわたくしの息子を脅かす可能性もありましたが、そのことは思いつきませんでした。ただただクリスティーネを幸福にしたくない、救いを与えたくないということだけで、わたくしの頭は一杯でした。
都合のいいことに、クリスティーネは出産を王宮で迎えたくないと言い出しました。
それはそうでしょう。ただでさえ、好きでもない男と毎日のように顔を合わせなければならない上に、周囲から好奇と軽蔑の目で見られていれば、気の休まる時もないはずです。
わたくしはそれにつけこんで、実家にクリスティーネを送り返しました。
王には、出産を心おきなく待つには実家の方がいいでしょうと言っておきました。
家臣たちは、それが目障りな女を追い払うための口実だと思ったようですが。
そして忘れもしません、あの冬がやって来たのです。
そろそろ子供が生まれるだろうと予想していたわたくしは、典医を呼びつけて、クリスティーネのところに行くようにと申しつけました。
当然のことながら、すこやかな子供を期待してのことではありません。
わたくしは、クリスティーネを殺すように――勿論、こんな直接的な言い方ではありませんでしたが――「要請」しました。
典医は恐慌をきたしました。
自分は人を助けるのが仕事だ、王妃の命令だろうと聞けることと聞けないことがある、と威勢だけはよかったものです。わたくしは鼻で笑いました。立派なことを言ってはいても、この男はわたくしと同類だとわかっていたからです。
「イネル・ヴォーンを覚えていて?」
わたくしの言葉に、典医は青褪めました。
その名は、彼と王宮典医の座を争った医師の名前でした。患者を不手際で死なせてしまい、王宮典医はおろか医師としての信用も失って、失意のうちに逝去した、今では誰も覚えていない名前です。
彼の弟子を見つけることができなければ、わたくしとて真実を知ることはなかったでしょう。
「お前は彼の患者を殺すように、弟子に頼んだそうね。死ななくてもいい患者を殺し、罪のない同僚を蹴落とし、お前がのうのうと名誉と財を手に入れたことはわかっています。人を助けるのが仕事だ、なんてどの口が言うのやら。医師の心を捨ててでもその椅子が欲しかったのでしょう。守りたいのでしょう。ならばどうすればいいのかはわかるはずです」
典医はいともたやすく屈しました。
所詮、典医は典医であり、クリスティーネのような清廉さなど期待するべき存在ではないのです。
わたくしはさりげなく、王が典医をクリスティーネの実家へ遣わすように仕向けました。表面に出していなくとも、王が愛しい女の一大事に気を揉んでいたことぐらい察しておりましたから、それはすんなり決まりました。
その後は、何もかも上手くいきました。
典医はわたくしの命に背くことなく、粛々とことを実行したようです。
本当に、人の命とは呆気なく摘み取られるものです。それも、本来ならばそれを助ける者の手によって。あれ以来、わたくしは医師というものを信用しておりません。
王は一気に老けこんだようでした。
もともとそれほど若くはなかったのです。精神的な打撃が、肉体の老化を早めてしまったのでしょう。葬儀は、派手ではありませんが王の想いの深さを感じさせるものでした。クリスティーネの遺体の入った棺を王がどんな思いで見つめていたのか、わたくしが知ったのは葬儀から一月ほど経ってからのことでした。
「お前がやったのか」
唐突にわたくしの部屋にお渡りになった王は、こちらを見もせずにそう言いました。
あまりにもさりげなく言われたので、一瞬、聞き流してしまいそうになったほどです。怒りも悲しみも、その言葉には込められていませんでした。おそらく、わたくしの答えなど聞くまでもなく、真相を察していたのでしょう。ならばどうしてそんな質問をしたのか、王の心を推し量ることはできませんでしたが。
わたくしは平然と答えました。
王のご想像どおりです、と。
わたくしの行為が表沙汰になれば断罪は免れなかったでしょうが、それならそれでどうにでもすればいい、と思っておりました。自分の罪が、同情されるような理由から行われたものでないことは、よくわかっていました。わかっていても止められなかったのです。そして、ことここに至っても、後悔は少しも感じませんでした。何も感じていない人間に、どのような罰も無意味です。ですからわたくしは、王の反応など気にせずに言ったのです。聞くまでもないことでしょう、と。
王はそこで初めて、わたくしを見ました。
「何故だ」
「何故とは、不思議なことを。夫を奪った女が憎いのに、貴賎が関係ありましょうか」
「お前は私を愛していない」
正直、この返答には驚きました。けれど考えてみれば、王は愚かではありません。クリスティーネへの執着は人並みはずれたものがありましたが、それ以外では冷静で捻くれた物言いが目立つ方でした。
わたくしは微笑しました。
男女の愛ではありませんが、同士としての連帯感ならば抱いていたのです。王にもわたくしにも、自分でもどうにもできない歪みがありました。ある意味で似たもの同士というのでしょうか。それをこの時、確信したのです。
ですから、正直に答えました。
「貴方が惹かれた部分が、わたくしにとっては憎しみの対象だった、それだけのことです――それに、貴方のことも」
「私が?」
「貴方だけが救われるのは許せなかった。貴方を救うのが、クリスティーネだなんて許せなかった。そういう愚かでつまらない人間なのです、わたくしは」
王は、長い間、沈黙していました。
クリスティーネを葬ったわたくしを憎む気持ちは、勿論あったでしょう。一方で、わたくしが王に対して連帯感を抱いていたように、王もこの時、わたくしに対して哀れみを感じていたに違いありません。でなければ、いくら公にすることが叶わないからといって、一言の罵倒もなかったことに説明がつきません。
あるいは何を言っても無駄と諦めていたのでしょうか。クリスティーネが死んだことは、王ですら覆せない事実だったのですから。
いずれにしても、王はわたくしをいかなる形でも罰しませんでした。
ただ黙って扉を開け――この扉が、その前から少しばかり開いていたのをわたくしは今でも覚えています。つまらないことほどよく覚えているものです――出て行きました。
そして終生、二度と入ってくることはなかったのです。
これが、わたくしの昔話の顛末です。
あれから十九年が経ちました。王が逝き、息子が即位したのが五年前です。たった五年であの子が死んでしまうなんて、戴冠式の堂々とした姿からは想像もできませんでした。幼いころは多少、内気なところがあったものの、成長するにつれて誰に恥じることもない、心身ともに立派な青年になったあの子は、わたくしの全てでした。
だからあの子があっさりと神に召された時、これは罰なのだと、どこかで納得したものです。
クリスティーネをあのように貶めたわたくしに、あの子の親である資格はないと、全能なる何かに突きつけられたような気がしたのです。
息子が死んだ後、王を継いだのはクリスティーネの息子でした。
クリスティーネに生き写しの、神々しい美貌を持つ若者です。クリスティーネの持ち得なかった権力すら手に入れ、まさに並ぶものなき至高の存在と言えるでしょうが、わたくしはもう憎悪を感じはしませんでした。
理由は二つあります。
一つには、他ならぬ息子が彼を非常に愛していたからです。彼の方も、息子を慕っているように見えました。であれば、その気持ちだけはわたくしと同じものであるはずです。息子が愛していた相手を、息子を愛していた相手を、心底嫌うことはできません。
そしてもう一つには、あの青年がクリスティーネに酷似していながらも、内面的には全く似ていなかったからです。
おそらくクリスティーネの両親は、娘の忘れ形見を持て余したか、自分たちから栄達の機会を奪った疎ましい対象として見たかしたのでしょう。出産で弱ったせいで落命したのだと、典医は説明したはずです。残された赤子を憎むとまではいかなくとも、厄介な存在と認識したかもしれません。
事実、わたくしの目に映る彼は、クリスティーネというよりも王やわたくしと同じ種類の人間に見えました。
王弟時代、彼の奔放な振る舞いは時に宮廷で問題になりましたが、わたくしに言わせればあれは一種の病気です。
悪戯心などという可愛いものではなく、単にそれをすることによって周りを試していたにすぎません。傍目にはそう見えなくとも、彼は頭のいい少年でした。反抗したり媚びるよりも効果的に敵味方を判別する方法を、知っていたのです。息子が、一貫して彼を庇い続けていたのも、そのことを察していたからでしょう。
わたくしが自分の観察眼を確かなものと信じたのは、先日、彼と二人きりで話す機会を設けた時のことです。
会見を申し込んできたのは、彼の方でした。
彼は、いつものように微かな笑みを口元に湛え、大股に部屋に入ってきました。そして椅子に優雅に腰掛けると、こう言ったのです。貴女が私の母を殺したそうですね。
「――誰に聞いたのです」
「誰だと思いますか」
「ふざけないでちょうだい」
「ふざけているつもりはありませんけどね――兄上ですよ」
心臓が止まるかと思いました。まさかそんな、という思いと、あるいは知っていたかもしれない、という思い、その双方がぶつかり合って、結局まともな思考など何一つ浮かんではきませんでした。彼が虚言を吐いている、という考えも一瞬、脳裏をよぎりましたが、息子の死からまもないのにこんな嘘をつくとも思えませんでした。誰を裏切ろうと、彼は息子のことだけは裏切らないでしょう。
わたくしは観念しました。
「ええ、そのとおりね……それで、どうしたいのです。わたくしを裁きたいのですか。貴方ならできるでしょうが」
「裁判、という意味なら、そんなことはしません。貴女は兄上の母親ですからね。不名誉を背負わせるのは忍びないし、兄上も望んではいない」
「では、何が目的ですか。貴方はわたくしを恨んでいるでしょう。だからわざわざ、こんな場を設けたのでしょう?」
「恨んでいる、というよりも……想像することがあります。貴女が母を殺さなかったら……母が生きていたら、俺が得られたかもしれないものについて」
「何が言いたいのです」
「別に。大体、私が貴女を恨んでいて罵詈雑言の限りを尽くして罵ったとしても、貴女のやったことがなかったことになるわけじゃない。少なくとも、私の中では。そもそも私は貴女を許すつもりはないし、貴女だって私の許しなんて求めるつもりはないでしょう」
「……」
「貴女にとっての罰は、兄上が貴女の罪を私に告白した、そのことで十分では?」
そのとおりです。
わたくしは息子の前でだけは、綺麗な人間でいたいと思っておりました。それが身勝手な望みだとはわかっていましたが、息子を見る時だけは、本当にわたくしの心中には温かく優しい感情だけがありました。だから知られたくなかった。わたくしがいかに醜く愚かな人間なのか、知られたくはなかったのです。
けれどこれが罰と言うなら、わたくしは受け取らなければならないのでしょう。
滑稽なものです。
息子は死に、他ならぬクリスティーネの息子が全てを手に入れている。わたくしごときに変えられるものなど、何も無いということでしょうか。分を弁えず、神の寵愛を受けし者を妬んだ報いが、これなのでしょうか。
かつてない疲労感に襲われるわたくしを、彼は黙って眺めていました。
時間にすれば、二、三分でしょうか。その間に何を思い、何を考えたのか、わたくしには見当もつきません。何故あんなことを言い出したのかも――きっと永遠にわかることはないのでしょう。
「そんなに落ち込むことはありませんよ」
沈黙の後、彼は不気味なほど穏やかにそう言いました。
わたくしは顔を上げました。その穏やかさに内包された何かを、感じ取ったのです。
彼は一見、くつろいだ様子でした。無邪気とさえ言えそうな微笑を湛えて、けれど注意深い者ならば苛立っているのがわかったでしょう。
彼は椅子から立ち上がり、わたくしを見下ろして、言い聞かせるように、こう言いました。
「貴女が思っているほど、兄上は打撃を受けていないかもしれませんよ。兄上だって、そこまで澄み切った人間じゃありませんからね」
今度こそ、わたくしは絶句しました。
息子をあれだけ慕っていた彼が、こんなことを口にするとは思ってもみなかったのです。王位継承権とて、捨てようとしたのをわたくしは知っています。寵愛を得るために媚びていたようには、見えませんでした。内容そのものより、忌々しげなその口調が感情の激しさを表しているようで、余計に混乱を誘われました。彼は行動はともかく、感情の起伏は極めて平坦な人間だと思っていただけに、どうとらえるべきかを測りかねたのです。
「貴方が……貴方が、そんなことを言うのですか。息子をあれだけ敬愛していた貴方が、どうしてそんなことを」
「理由を教える義務があるとでも?」
わたくしの精一杯の言葉を、彼は見事に切って捨てました。
「貴女は考えるべきです。貴女が兄上の何を見ていたか、何を見ていなかったか――知らなくても、いいことなのかもしれませんけどね」
彼の言うことは、わたくしには何一つ理解できませんでした。
訊ねようにも彼はさっさと背を向け、出て行ってしまったのですから。その拒絶を覆すことは、わたくしには無理でした。
それから何度もあの言葉の意味を考えましたが、思い当たることは何もありませんでした。
息子は本当に優しい人間で、彼が突然あのように言い出す理由など一つもないように思えるのです。けれども彼はわたくしに答えを教えるつもりはないでしょう。考えろ、と言っていました。彼は、わたくしを試しているのです。答えに辿りつけるか、否か。それが彼にとってどんな意味を持つのかはわかりませんが。
――でも、わたくしは怖いのです。
わたくしの知らない息子を知ることが、とても恐ろしい。
自分のように惨めでつまらない人間だったら、どうすればいいのでしょう。息子はわたくしの誇りでした。わたくしのような人間からは所詮わたくしのような人間しか生まれないのだと、そう突きつけられて受け入れる自信などありません。
考えたくない。
もう何も、考えたくないのです。