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王妃の独白1

 

 最初に名乗っておきましょうか。

 わたくしの名はソフィア・インウィディア。バルトライヤに嫁いでからはソフィア・バルトライヤ、もしくはソフィア王妃と呼ばれておりました。

 けれど王妃と呼ばれていたのも最早過去の話。息子が即位してからは王太后としてそれまでと変わらず、けれどそれまでよりも心穏やかに何不自由ない生活を謳歌していたわたくしですが、まさかその息子がわたくしより先に逝くとは思ってもみませんでした。

 息子は、良い王だったと思います。

 親の欲目と笑ってもらっても構いません。常に公明正大、有能で、慈悲と冷徹さを同居させた稀有な王だったと言い切るのに、なんの躊躇がありましょう。

 わたくしには過ぎた息子でした。

 だから神に愛されて、若くして天に召されたのでしょう。それにこんなわたくしが、同じく神に愛されたクリスティーネを死に追いやったわたくしが母であることを、神は許されなかったに違いありません。

 ――少し、昔話をしましょう。

 わたくしには弟がおりました。わたくしより二つ下の、美しく、生まれながらに全てを手にした弟が。

 全て、とは文字通りの意味です。

 インウィディア国王の長男として生まれた弟は、何もしなくてもいずれ国王となる身分です。それに生来、利発で健康、容姿にも非常に恵まれておりましたし、愛想がよく人好きのする性格でしたから、両親はもとより、周囲の人間全てに愛されておりました――このわたくしを、除いては。

 わたくしは、弟を愛することがどうしてもできませんでした。いえ、少しは愛していたのかもしれません。弟が華やかな笑みをわたくしに向けるたび、舌足らずな口調で「姉上」と呼びかけてくるたび、本心から笑い返したことも確かにあったのです。

 けれどそれ以上に、わたくしは弟を憎んでおりました。

 それは弟が何もかもに優れ、全てにおいてわたくしを超越した人間だったからに他ありません。

 弟はおよそ完璧なほどに整った容貌をしておりました。わたくしとて醜かったわけではありません。それでも女でありながら、異性である弟よりも明らかに劣っていたのです。わたくしは自分の顔を厭いました。

 弟は著名な学者に賞賛されるほどに頭がよく、将軍に太鼓判を押されるほどに軍才に優れておりました。

 わたくしが一を理解する間に、弟は十どころか百も理解してしまうのです。それも、大した努力もせず、授業をすっぽかすこともあるのに、です。弟と接する時は目を輝かせる教師が、わたくしには何の期待もしていないことはすぐにわかりました。

 弟は、何をしても人を引き付ける人間でした。

 けして品行方正だったわけではありません。むしろ我侭で、口が悪く、やりたいと思ったことは多少の問題があっても我慢せずにやってしまう方でした。なのに、それで人に嫌われたり憎まれたりといったことがなかったのです。苦言を呈する者もおりましたが、最後には「あの方だから仕方ない」と楽しそうに笑うのです。 

 王女として、常に自分を戒め、それに相応しい行動をとろうと努めるわたくしの前では、誰もが丁寧ですが緊張していて、何より無関心でした。両親でさえ、弟がいる時にわたくしが口を開くと、つまらなそうな顔をしたものです。

 おわかりでしょうか。

 わたくしの自尊心は、ずたずたでした。

 弟に非があったわけではありません。そもそも弟にとっては、わたくしなど眼中になかったでしょう。殊更わたくしを貶めなくとも、誰もが弟を愛し肯定することは、死が等しく人間に訪れることと同じくらい絶対でした。

 それゆえにわたくしはますます弟を憎み、劣等感と自己嫌悪で窒息しそうな少女時代を過ごしておりました。

 転機が訪れたのは、わたくしが十八歳になった春のことでした。

 西の王国バルトライヤの王妃として、わたくしが選ばれたのです。表には出しませんでしたが、わたくしは狂喜しました。人生で初めて、弟ではなくわたくしが望まれたのです。それが政治的判断による妥協であったとしても、望まれたのがわたくし自身ではなくインウィディア王女の肩書であったとしても、王妃として立つのはこのわたくしだけです。

 バルトライヤ王妃として敬われ、将来の国王を生む権利はわたくしだけのもの。夫となる人が十二も年上で、女嫌いと噂されていることもこの事実の前には瑣末なことでした。

 程なくして、わたくしはバルトライヤに嫁ぎました。

 出国する前、両親は涙ながらにわたくしとの別れを惜しんでくれました。弟は「虐められたら私が仕返ししてさしあげますよ、姉上」と子供のようなことを言っていました。けれどもわたくしの心は冷めていました。両親にも弟にも、特にこれといって酷いことをされたわけではなく、それでもわたくしの中に彼らへの愛情は欠片も存在しておりませんでした。身の内に巣食った憎悪から解放されることへの安堵があっただけです。

 その証拠に、十年後に父がこの世を去った時もわたくしは泣きませんでした。

 ……聞き苦しいことを言いました。

 バルトライヤ国王は、見るからに軍人という印象の偉丈夫な方でした。女嫌いという噂は本当らしく、わたくしに対しても素っ気ない態度ではありましたが、もともと愛情など期待していなかったわたくしにとってはどうでもいいことでした。

 結果的に、媚びることも縋ることもなかったわたくしが扱いやすかったのでしょう。王は、義務を果たすために必要な程度には、わたくしのもとに通ってきました。

 それが仲睦まじい証に見えたのでしょうか、周囲の、特に王妃を巡る争いに負けた女性たちは、おそらく嫉妬からでしょうが、わたくしに王が女嫌いである理由を事細かに教えてくれました。

 なんでも王の母君は不貞を働いたという噂が絶えない女性だったらしく、王も正統な世継ぎではないのではないか、玉座を継ぐ資格はないのではないか、と随分疑われたそうです。いえ、今も疑われているのでしょう。

 後で本人に訊ねたところ、「私は女嫌いではなく、人嫌いなのだ」と自嘲気味に言われました。

「母がどれほどだらしない人だったのか、私が一番よく知っている。だが、それを認めては私が惨めにすぎる。つまらない自尊心を捨てきれないから、のうのうと玉座に座っているのさ。たとえそれが別の意味で苦痛であっても」

 思えばこの時、わたくしは王の心に触れていたのでしょう。

 自らの弱味を、弟から離れた今もわたくしを蝕む劣等感をさらけ出せていれば、何かが変わったのかもしれません。けれどわたくしにはできませんでした。なぜかはわかりません。王を信用していなかった、矜持が邪魔をしたと言うのは簡単ですし、全くの間違いでもありませんが、おそらくわたくしの心は既に自分でさえ開けることができないほどに、重く錆びついていたのでしょう。

 それでも表面上は、穏やかに過ぎて行きました。

 二年後にわたくしは王の子を産みました。世継ぎの子です。

 王は、血筋のはっきりしない自分の子供を次代の王にしていいのか、迷っていたようですが、わたくしは嬉しかった。この子は、わたくしが命をかけてこの世に生みだした、唯一無二の生命です。子供の誕生は、こんなわたくしでもこの子のために生きることは許されるのではないか、という天啓にすら思えました。かつてなくわたくしの精神は安らかでした。初めて、自分のことを愛せたような気がするほどには。

 その三年後です。

 あの女が、クリスティーネが現れたのは。

 クリスティーネ・アラベラは下級貴族の一人娘でした。貴族とは言っても、成功した商人の方がよほど裕福だったでしょう。そんな娘が王の主催する夜会に紛れ込めたのは、もって生まれた美貌と運のおかげと言うしかありません。

 明らかに周りから数段劣る衣装を身に纏っていても、クリスティーネの美しさは疑いようもないものでした。

 わたくしは今でも、あの夜のクリスティーネをはっきりと思い出すことができます。

 あの黄金のような髪も、白磁のような肌も、彫刻よりも柔らかく彫刻よりも完璧な容貌も、全てが息を呑むほど美しかった。彼女こそ、およそ神が創り出せる最高の造形美を体現する人間でした。

 されどわたくしが本当に戦慄したのは、その美しさに対してではありません。

 あまりに完璧で、あまりに美しいその容姿は王の目にも止まりました。王とて、女嫌いではありますが不能ではありません。御前にお召しになりました。この時は、おそらく素晴らしい芸術品に対する感嘆のような気持ちからだったのでしょう。

 クリスティーネは、礼儀正しく控え目でした。これほどの容姿を持っていれば、これが王に取り入る好機であることはわかっていてもよさそうなものですが、傍目から見ても明らかにそんな素振りはありませんでした。

 もっとも、それは逆に王にとって好印象だったようですが。

 短い言葉のやり取りの後、辞去を許され、クリスティーネはにこりと笑いました。

 その笑みが、わたくしを戦慄させたのです。まるで子供のような、無邪気な笑みでした。周囲を圧倒するほどの美を持ちながら、それを利用することなど考えもしないような、ただ緊張から解放されたことが嬉しいと言いたげな……そう、見ようによっては傲慢とも言えるかもしれません。傲慢であり、純粋であり、それゆえ人を引き付ける。そういう笑い方でした。

 もし、わたくしが自分の動揺にとらわれず、王がそれをどう受け止めたかに注意を払っていたら……いえ、今更言っても仕方のないことです。

 王は、クリスティーネをしばしば王宮に呼び寄せるようになりました。

 彼女のことをよく知るにつれ、わたくしはその邪気のなさ、欲のなさに驚かされたものです。捻くれたわたくしの目から見ても、クリスティーネは愛すべき少女に思えました。今でも、考えることがあります。あれは演技だったのだろうか、と。そしてその度にこう思うのです。演技などではなかった、と。

 クリスティーネは、真実、純粋無垢な少女でした。

 神に愛されし者とは彼女のような者を指すのでしょう。言葉にも態度にも嘘偽りはなく、それでいて他人を惹きつけてやまない魅力がありました。時として、特別な何かを持って生まれる人間はいるものです。弟も、クリスティーネも、そういう人間でした。

 王は、そういうクリスティーネに癒され、他の大多数の人間と同じように惹かれていたのでしょう。実際は王の一方通行だったのですが。なぜならクリスティーネには既に婚約者がいました。ラウルという、これも下級貴族で、幼馴染の関係だったそうです。彼女の話から察するに、クリスティーネの両親はこの結婚にあまり乗り気ではなかったのでしょう。確かに彼女ほど美しければ、もっと身分の高い男性との結婚も夢ではありません。あわよくば上等な獲物を釣り上げて、ラウルとの婚約は破棄してしまえ。そんな思惑が透けて見えるようでした。

 クリスティーネ本人は、ラウル以外は眼中になかったようです。

 でなければ、王があそこまで思い詰めたはずがありません。少しでもなびく素振りがあれば、ラウルなど王の敵ではないのですから。それをあのような暴挙に出たということは、クリスティーネが王に全く興味を示さなかったという証拠ではありませんか。

 ある日、王はわたくしを私室にお呼びになりました。

 そしてこう言ったのです。

「クリスティーネを私のものにした」

 と。

 わたくしは咄嗟に言葉が出てきませんでした。何を言えというのでしょう。悲しめばいいのか、怒ればいいのか、正妻らしく余裕を見せればいいのか。おそらく最後の対応が王にとって一番都合のいい対応だったのでしょうが、実のところ何を感じたのか、もう覚えておりません。案外、何も感じていなかったのかもしれません。

 王は、クリスティーネを愛している、とか何とか言っておりました。自分には彼女が必要だから、愛人として遇することを許して欲しい、とも。まあ、王なりに誠実だったのでしょう。

 数日後、わたくしはクリスティーネに事の次第を問いただしました。

 可哀想に、彼女は憔悴しきっておりました。合意の上でなかったのは、一目瞭然です。王の言葉を伝えると、真っ青になって泣き出し、わたくしに縋りました。ラウルに顔向けできない、家に帰してほしい、と子供のように泣く姿は、この世のものとは思えぬ美しさでした。

 その姿を見て、わたくしの胸にどんな感情が湧き上がったか、想像できるでしょうか。

 かつてない憎しみです。

 彼女が王を奪ったから、女として到底敵わない美貌を持っていたから、ではありません。それならばどれだけよかったことか。わたくしが真に憎かったのは、彼女の曇りのない清廉さでした。外見のみならず、内面にも歪みや後ろ暗いところなど一つもない、非の打ちどころのない彼女の存在そのものが、憎くてたまらなくなったのです。

 それは、八つ当たりだったのかもしれません。

 先にお話したとおり、クリスティーネはわたくしの弟に極めて似ておりました。どこがどうということではなく、他者の愛や関心を自然に集めることができるという一点において、二人ともわたくしなど足元にも及ばない高みにいたのです。

 弟もクリスティーネも、わたくしを見下したりなどしませんでした。彼らにとっては、当たり前のことなのです。わたくしが欲しくてたまらなかった親愛も興味も、両手にあまるほど抱えて、その価値に気づこうともしない無邪気な生き物。周囲に守られた彼らの魂に実体があるとしたら、それはそれは美しく光り輝いていたことでしょう。

 そう、わたくしはクリスティーネという人間に嫉妬していたのです。少女時代、弟に嫉妬したように。憎む理由すら与えてくれない、その理不尽なまでの善良さを、わたくしの醜悪な劣等感を甚振ってやまない、内なる光を憎悪しました。

 全く心のこもらない慰めの言葉を吐きながらも、わたくしの心は煮えたぎっておりました。

 それでいて酷く冷静でもあったのです。

 どうする当てがあったわけでもありませんが、何をするにしてもクリスティーネの信頼を得ておく方がやりやすいと計算するだけの余裕はありました。

 わたくしは言葉を尽くして、クリスティーネを丸めこみました。仮にも外国の宮廷で王妃として生きてきたわたくしと、田舎で平和に育った小娘では役者が違います。貴女が言うことを聞かなければ両親やラウルが苦しむことになるかもしれない、と脅しつければ、もう何も返せません。

 そうしてクリスティーネは、名実ともに王のものになりました。

 王は、わたくしがあまりにもあっさりと愛人の存在を認めたことを訝しんでいましたが、初恋の成就に舞い上がっていたのか、そもそもわたくしの王への愛情を信じていなかったのか、すぐに手に入れた宝に夢中になりました。

 大変、結構なことです。

 王が心からの愛を捧げれば捧げるほど、クリスティーネは不幸になるでしょう。

 あの娘のことに関しては、王などよりわたくしの方が余程わかっていました。純粋なだけに、自分の気持ちに嘘がつけないのです。あわよくば息子を国王にしてみせる、と野心でも抱く器用さがあれば、王も興ざめして解放したかもしれませんが、おそらくそんなことは考えもしなかったでしょう。

 そういう意味では、白痴と言ってもいいような娘でした。

 家臣たちは、わたくしが愛人に夫を盗まれた負け犬だと信じ切っていたようです。わたくしは気になりませんでした。進んで嫉妬するふりさえしたものです。

 恋人とは引き裂かれ、二十も年上の男に体を暴かれ、味方のない王宮で呼吸することが栄誉だと、言いたいならば言っていればいいのです。

 誰がわからなくとも、わたくしだけはわかっておりました。

 この生活が、クリスティーネの精神を痛めつけ、傷だらけにしていくものに他ならないことは。

 全て承知の上で、彼女を王に投げ与えたのです。

 わたくしのように惨めな思いをすればいい。わたくしのところまで落ちればいい。誰もがお前を愛するわけではないと、思い知ればいい。

 そんなおぞましい欲望を、クリスティーネはそれなりに満たしてくれました。

 けれど終わりは突然にやって来ました。

 クリスティーネが、妊娠したのです。


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