喜劇の婚約破棄
魔の婚約を結ばされたあの日から10年が経った。
今日は秋に貴族の学園へ入学する子ども達が初めて参加する夜会の日。弟の夜会デビューなので、パーティ嫌いの私も参加することになった。
何故私がパーティ嫌いかというと、奴にエスコートされて参加しなければならないこと。そして…
「おい、豚。今日の夜会で無様な姿を晒すなよ。躾がなっていない豚を婚約者にしていると俺や俺の家にまで醜聞に塗れるからな」
奴が発した言葉が私の右耳から左耳を走り去っていった。そう、こうして人前でも私を蔑ろに扱い、飲食すら禁じて会場の隅に追いやられるからだ。ちなみに奴は、友人や奴を慕う令嬢たちに囲まれて楽しく過ごしている。
たまに心配してくれた方が私に声をかけてくれるが、即座に奴が飛んできて「大人しくしていろ!!」と私に喚き散らすので誰も近づかなくなった。
奴を無視して可愛い弟に視線を戻すと、慣れない夜会にソワソワしていたが、ティモール公爵令息と話す内に落ち着いてきた様子。公爵家は我が家にとって貴く縁のない方だったが、事業をきっかけに今では家ぐるみで親しくなった。
公爵令息は幼いが慧眼をお持ちだ。将来は素晴らしい男性になるだろう。
しかし、弟よ。友情もいいが、素敵な令嬢とロマンスを始めてもいいんだよ。君たちを慕う同世代の可愛い令嬢たちが、会話に割り込んだら悪いと思って遠慮がちに遠くから見ているぞ。
返事をしない私に、何を思ったか奴は鼻息を吹きかけてきて、弟を見守る時間を邪魔された。自慢の鼻を拳で潰してやろうかと睨みつけると満足げな顔をした奴は1人でホールへと進む。すると、まだ婚約者が決まっていない令嬢たちが奴に群がった。令嬢たちからすると、あれは見目麗しく家柄も素晴らしいお方なんだそうで。
私に高圧的な態度で発言する様を見ていて、素晴らしいという評価は謎である。あの倫理観の無さでも生きていける過保護な親がいて素晴らしいという意味か、自分と同レベルの醜悪さで素晴らしいという意味か…。
まあ、先の発言がワインを私の顔面にぶち撒けながらしたものだと思い出せば後者の意味だろう。
「姉様!」
「まあ、今日の主役たちがこんな壁際に来て」
くだらないことを思い出していると、弟とティモール公爵令息が私の方にやってきた。2人とも心なしか、怒った顔をしている。
「噂には聞いていましたが、アレがまさかここまで姉様を虐げていたなんて…」
「もう慣れたわ」
「慣れたなんて、そんな…許せません……」
私の言葉にティモール公爵令息は、拳を作って震わせた。
いけない。代わりに怒ってもらえることが嬉しくて、少し涙が出そうになった。虐げられる事に慣れた分、優しさに弱くなってしまった。
「その様子だと、なにも口にされてないのでは?」
「ええ…。ここから動くな、はしたない姿を晒すなと言われて、飲食も移動も禁じられておりますの」
「水を飲む事も禁ずるなんて!残暑で倒れてしまいます!待っていてください、私なにか取ってきます!」
そう言うとティモール公爵令息は、会場の人の海の中に消えていった。今は飲食できない私だが、同じく会場にいる両親が挨拶回りを終え次第、何かしらの差し入れを持って来てくれる手筈だったので心配ご無用だったのだが。
お優しい方だ。彼と婚約した令嬢は、さぞ大切にされて、幸せな人生を謳歌するだろう。
比べて私は……。
「姉様……」
「おい、豚風情が何故俺以外の男と話している!穢らわしい!」
出たよ。
もう少し感傷に浸らせろ。
「事業を支援いただいている方と歓談しておりましたが、問題があるでしょうか?」
「ありまくりだ!不貞だ、不貞!」
ここにティモール公爵令息がいなくて良かった。こんな面倒な奴に絡まれるなどあってはならない。
いや、彼は有名なお方だ。相手が公爵令息と分かっていて、いない隙を狙って来たのかもしれない。だとしたら、非常に格好悪いなコイツ。
「フン!そうだな、今なら土下座で許してやる!不貞で婚約破棄されたく無ければ、土下座で俺に謝れ!!」
そう言うと奴は偉そうな笑みを浮かべながら、床を指差し始めた。こんな大勢の前で土下座を要求するとは、どれだけ私を辱めたいのだろうか。
いや、待て。奴にしては珍しく良い事を言ってくれた。ここは奴の提案に乗ることにしよう。
土下座では無い方の提案に。
「私には皆様の前で土下座なんてできません。どうぞ婚約破棄してくださいな」
「え…、婚約破棄だぞ…?さっきの公爵令息とお前に慰謝料を請求するんだぞ!?」
「喜んでお支払いしますわ。ただティモール公爵令息は私が一方的に巻き込んでしまった方ですので、彼の分の慰謝料も私がお支払いいたします」
「は?」
「きっと皆様が婚約破棄の証人になってくださいますわ。優しく励ましてくれる若き紳士のティモール公爵令息に、心が傷だらけの女が婚約者がいる身でありながら懸想したと!」
両手を広げて高々と宣言した私に対して、周囲の反応は凡そ予想通りだった。
「あ、そんなに嫌だったんだ…」と。
そうだよ。
婚約者への罵倒を、侯爵夫婦と同類の人は愛情表現と捉えていたかもしれない。
心のまま愛を詠うことも、言葉では一切語らずに長い文で愛を綴ることも、突然集団で踊り出して締めに愛を告白するも、いきなり殴った直後に抱きしめることも、愛情表現は人それぞれだ。犯罪に近かろうが好意から行われるため、受け取る側が拒絶すると非難する者が少なくとも出る。ただの拒絶だけなら。
なので、私は自ら進んで慰謝料の支払いを申し出た。裁判の結果、人に言われて支払うのであれば、謝罪する気持ちが無くても強制される罪人の義務だ。しかし、罪を言い渡される前に自らお金を包んで渡すのは、気持ちがこもっていなくても誠意による謝罪になる。義務に比べると善意的だ。
すなわち私は周囲の貴族に、奴に対して拒絶ではなく善意を返すアピールした。
婚約破棄される身になり、慰謝料まで払わされた女となれば醜聞もいいところだが、奴から豚と言われ続けて、蔑ろにされて、散々名誉毀損された私にとって、これ以上落ちる方が難しい。
奴の目的はどうあれ、私との結婚を押し進めようとするために慰謝料の受け取りと婚約破棄を拒否すれば、謝罪しながら自由を乞う女の願いを拒絶することになる。
奴を拒絶した私に対して「照れているだけだ。彼なりの愛情と思って受け入れろ」と温かい目で見ていた連中も掌を返すだろう。「気持ちの不貞を認めて謝罪までしているから、その誠意は受け取るべきだ」と。まあ、そこから「君の愛で彼女の心を取り戻して、また婚約を結べばいいじゃないか」とか余計なことも言いそうだが。
「これ以上、愛しい人を矢面に立たせては男が廃りますね」
「ティモール公爵令息?」
私に水を取りに行ってくれていたティモール公爵令息が傍に来ていた。代わりに、弟が両親と共に観衆に溶け込んでいる。いつの間に…。
彼は小さく呟くと、私の前に傅き、告げる。
「アガーレ伯爵令嬢。領民を思う美しき心と、彼らのために事業を起こす叡智を持つ貴女に、私は叶わぬ想いを馳せておりました」
「え…。それは本当…でしょうか?」
「ええ。ですから、巻き込んだなどと他人行儀な事は仰らないでください。貴女のためならば、私ができる事はなんだっていたしましょう。どうか私の手を取っていただけないでしょうか?」
「喜んで…」
私は恐る恐る彼の手を取った。
なんだか真実の愛について語る喜劇を演じているような様に、照れ臭くなり笑いが込み上げてくる。彼も同じように笑っているので、同じ事を考えているのかもしれない。
周囲の目がある中で愛の語らいをすることには抵抗があるのだが、慕う相手にされると案外どうでもよくなるものだと思った。
さて、私たちの真実の愛劇場に会場は大盛り上がり。私たちが真剣にやっていたら公衆の面前での非常識な行動や発言に非難の目が向いただろうが、婚約破棄のために演っていると理解して、面白がって協力してくれている様子。
もしかしたら、奴を含む一部の人は本気だと思っているかもしれないが。
「というわけです。彼女を妻にできるなら喜んで慰謝料をお支払いします。なので、どうか彼女を解放してあげてください」
「なっ…まるで俺が悪者のように言うな!」
人前で豚呼ばわりしておいて、自分が善人だと思っているのか。
折角ティモール公爵令息が加勢いただいているが、なかなか話に決着がつきそうに無いので、奴には婚約を続けている現状が可笑しいことに気づいてもらおうか。
「ですが私たち、お互いの名前も知らないまま婚約させられている程度の関係なのです。あなたにとっても喜ばしいことではないでしょうか」
「はあ!?何を言ってるんだ、このブ…」
そう、私たちは会話はもちろん、義務でやり取りしていた手紙でもお互いの名前を呼んだことが無い。
奴は私を豚と呼び、私は基本「あの」などの呼びかけや二人称呼びが基本だった。
奴は手紙の宛名も豚にする程の徹底ぶりなので本当に知らないのだろう。
「あ、その…知らないわけじゃ…」
「しかし呼ぶことすら嫌悪させていたのでしょう?あなたの幸せを願っている侯爵ご夫婦なら仕事に使えるものではなく、あなたと愛し合える女性を妻にするほうがお喜びになると思いますわ」
「……っ」
顔を青褪めて黙り込む奴の姿に、私の言葉の裏も理解したようだ。
お前は私を物扱い…いや、平均より痩せ型よりの私に対して豚と言っていたから家畜か…取り敢えず、愛する女性としては扱っていないだろう。そして、私もお前を愛していない。だから、いつも言い寄ってくる令嬢たちに乗り換えておけ。という意味で言ってやった。
紳士的なティモール公爵令息に心を傾けている私を形だけでも取り戻すには、奴は嘘でも愛を示さなければならない。この観衆の中なら、暴力で捻れた愛情表現を示しても、今さら世間一般的な愛の言葉を述べて縋っても、奴の評判は下落する。
絆されやすい被害者が掌を返した愛の言葉に靡いて元鞘に収まり、相手を本当は心から愛していたと加害者の評判が上がる愛の物語があるが、私はそのパターンには決してさせない。例え、奴と侯爵夫婦の力技で婚約破棄出来なかったとしても、侯爵家の悪評にティモール公爵令息を思い続ける女を阻む悪の一家という話を追加させるつもりだ。
さあ、どうする?
自身の評判をとるか。
稼げる道具を取るか。
「俺は……ずっと」
「なにか仰いました?」
「ぃゃ…………だ」
「気の所為でしたか。私たちが気薄な関係だったとは言え、不義理は不義理。誠意を持って慰謝料は侯爵家へとお届けします。それではご機嫌よう。えーと…侯爵令息」
「ぁ……」
「私がお送りしましょう。アガーレ伯爵令嬢…いえ、ピグナ様」
「まあ、嬉しい…。私もシュメル様とお呼びしても、よろしくて?」
「もちろんです」
ティモール公爵令息と歓談しながら会場を出ても、奴が追ってくる気配は無かった。
奴が愛の言葉を述べてこなくて良かった。
もし今さら告げられていたら
私は淑女の仮面を捨てて容赦なく奴ご自慢の顔面に拳の贈り物をしてしまい、加害者が入れ替わってしまう所だった。