あんな奴のことより世のため人のためになる事を考えたい
「領民の皆を綺麗にしたいの」
「唐突です、姉様」
「いえ、ずっと考えていたことよ。あんなに不衛生だと病気になりやすいと思うの。貴方の知恵を貸してくれる?」
「話のフリが唐突だと…まあ、良いですけれど」
領民たちにとって医療費は大きな出費。払えずに病を抱えたまま、短い余生になってしまうことも珍しく無かった。
そこで、体を清潔にすることを領民たちの習慣にして、そもそもの病にかからないようにできないかと優秀な弟に話した結果、領民たち一般層が購入できる衛生用品を扱う事業を始めることになった。
「しかし、なぜ領民について考えるようになったのですか?」
「暇してると奴の対策について考えていて嫌になったのよ。最近は、茶会に毒でも仕込めたらなんて発想が出てきて…。私の心がさらに汚れていくわ」
「ああ、それで考える時間を領民のために使うよう切り替えたと。頑張りましたね」
「ありがとう…」
領地を視察してわかったことが、領民たちは手を洗う習慣が無い。水で手を濯ぐのは見るが、石鹸は使用しない。彼らにとって石鹸は、体の臭いが気になってきた時に使用するもので、手を洗うことに一々使うのは贅沢らしい。
石鹸の材料になる油は我が領地で採れる菜種油が豊富にあるので、石灰と草木灰さえ調達すれば領民たちに行き渡る量の石鹸を作れた。初め私は領民たちに無償提供しようと考えたが、弟が待ったをかけた。
「領民たちに使用する意欲を持たせることが大切です。興味を惹き、自ら手に取らせるほうが、意欲が沸くのではないでしょうか」
という話から、花の柄が描かれた大きな石鹸を希望する大きさに切り出して売る屋台で出すことにした。
「どこを切っても同じ模様になるのね。売り方といい、切り出した石鹸の包み方といい、お菓子の屋台みたいね」
「飴細工を参考にしましたから。食べてはいけませんよ」
「私、そんな卑しい人間に見えるかしら」
「冗談です」
飴細工の様に切り出されていく石鹸は、子供を中心に人気を博した。弟が設定した値段は領民が普段使いできるよう安価だが、石鹸の製造費を引いてもお釣りが出る金額だった。もっと安くしてもいいのでは無いかと提案したが、あまり安すぎると品質に疑いが出るし、物価の基準に悪影響を出さないためだ。
結果、私たち…といっても主に弟が考案した石鹸事業は少しばかりの利益を産み、いつの間にか他領にまで評判が広がった。
製造日で柄を変えているので、下位貴族の間では様々な柄を集める収集家が出始めていると言う話を聞いてはいた。
だが、ある時とんでもなく貴い家にまで事業の話が届き、我が家に1通の手紙が来たと弟が持ってきた。
「ティモール公爵家から手紙が?」
「要約すると私たちの石鹸事業を支援する代わりに、儲けの2割が欲しいという内容でした」
「支援内容は?」
「材料の石灰と草木灰の無償提供、生産工場の造設、他国販売時の税を無償化、必要であれば他国での販売実績豊富な商人の用意など可能な範囲で要求に応えていただけるそうです」
「そこまでしてくれるなら少なくても4割は要求しそうだけど」
「どうしましょうか、姉様」
「侯爵家の縁談すら断れない我が家に断る選択肢は無いわ。あの人たちよりは倫理観と道理はあると信じて会いましょう」
この時、私は公爵家に弟と同い年の令息がいらっしゃることを知っていた。この事業が弟中心に動いている事を知れば、弟が貴族学園に入学する際に彼のご学友になれると期待していた。
いたのだが。
「事業支援の承諾、感謝します。支援者のシュメル・ティモールです」
「ティモール公爵令息…!」
支援者との顔合わせで、まさかのご本人が登場された。
姉馬鹿ではあるが、弟は賢く美しい。そんな弟に劣らず、ティモール公爵令息は麗しく知性を感じさせる面持ちだった。
この方の前にしたら、私の婚約者を騙る奴など塵だ。
吹けば飛んでいくほどの存在だ。
霞むどころか見えないだろう。
比べることすら烏滸がましい。
「ご支援いただける内容を拝見しました。あの、本当に支援の配当は2割でお間違いないでしょうか?」
「ええ。しかし、ひとつだけ条件があるのです」
「それは…?」
「あなた方の事業に貴族向けの石鹸製造部門の追加です。貴族向けラインの儲けを折半いただけるなら、一般向けの石鹸の儲けは1割で構いません」
下位貴族で石鹸が流行していると知ったティモール公爵令息は、高級感も加えた商品も加えてはどうかと考えて提案書まで持参して私たちに会いに来た。
提案書に描かれた石鹸は、元来の切り出し石鹸とは大きく変わるが、透明な石鹸の中に、石鹸で作られた花があるデザインだった。
中の花は月ごとに変えて、今の私たちが作る物のように収集家が楽しめる仕様にしたいとのこと。
貴族向け石鹸は既に売られており、それらは香りや美容効果が良い商品だ。私たちの事業の目的は儲けでは無い。細々と領民のために今の石鹸を売り続けるつもりなので、貴族向けといった目的から離れた事業の拡大は望んでいない。
しかし、まるで宝石の中に生けられた花のような石鹸は、きっと美しいだろう。この案が形になったところを見たいと思った。
「素敵です。私、この石鹸をぜひ手に取ってみたいですわ」
「そう、そうなんです!
これもあの何度でも手に取りたくなる様々なデザインを参考にしました!
あなた方が事業の拡大を望んでいない事は重々承知ですが、あの石鹸が貴族用にあれば、それもきっと…いえ、絶対人気が出ます!
香りや美容効果なども大切ですが、それらは既に市場にある保湿剤で代用できます。むしろ、肌を刺激せずに汚れを落とす。そんな美容用品ではなく衛生用品である、あなた方のシンプルな性能の石鹸を貴族にも……」
私の言葉に突如立ち上がった公爵令息は熱く語った。私たちが呆然としていると、温度差に気づいた彼は徐々に勢いを無くして、語りの熱を顔に留めて、静かに着席した。
「すみません。突然はしたない姿を…」
「いえ、商品の意図をそこまで読み取っていただけて光栄です。実は開発当初、あの石鹸に柄は無かったんです。しかし、姉が使用する意欲を持たせるなら他とは違う物にしようと提案して今の石鹸になりました」
「なるほど。アガーレ伯爵令嬢からいただいた手紙では、販売方法や価格設定など事業のほとんどの功績はアガーレ伯爵令息のものと書かれておりましたが、紛れも無くご姉弟2人の事業なのですね」
「そもそも姉が領民の衛生面を良くしたいと願って発足した事業ですから、姉無くしては存在しませんでした」
弟がひたすら私を褒めちぎる。私の提案は、折角なら自分が欲しいと思った物を作りたくなっただけだ。褒めるところではない。
普段、奴を中心とした人間に貶されるので、珍しく褒められるとむず痒い気持ちになる。
「わたくしの話は、もういいでしょう?これからについて話しましょう…」
「おや。アガーレ伯爵令嬢は、褒められる事に慣れていらっしゃらないのですか?こんなに優秀でお美しいのに」
「もう、お戯れはよしてください…」
「しつこいと嫌われてしまいますね。話を進めましょうか」
そうして始まった石鹸事業の新たなステップは円滑に進められていった。石鹸だけに。
結果を言うと、ティモール公爵令息発案の貴族向け石鹸はティモール公爵夫人を筆頭に評判が広まり、爆発的に売れた。
敏感肌の方でも使えるようにした石鹸は、美容成分や香料が使用された洗剤で洗うと肌荒れしてしまう令嬢たちの定番になった。
また、花粉が苦手な令嬢に対して、様々な花の石鹸を贈った令息の話が広まり、愛する人への贈り物にするため男性客も増えて、さらに話題を呼び、花束に並ぶ贈答品にまで上り詰めた。
最近では、侯爵夫人が「事業が成功しているのだから結納金は無くてもいいわよね?」だの「爵位が上の家に嫁ぐんだから持参金は沢山必要よ。もっと事業で稼いでおいてね」だの、なかなか生々しいことを言ってくる。
爵位では我が家が下だが、侯爵家の資金に関する噂が本当なら、財力は我が家が上回っている。
この際、金の力で解決できれば良いのだが、そんな力技をすれば悪評が広まる可能性がある。奴に貶されまくり、評判が地の底な私はまだしも、家族を巻き込むわけにはいかない。
いっそ奴が何かしら事件を起こしてくれればいいのに。