泥
『人生で印象に残っている出来事は?』
そう聞かれたら、あなたは何と答えますか?
旅行やイベントなどのような、何か普段とは違う特別な日のことをまず上げる人が多いかと思います。
私の場合。
たとえば、七つの頃に投げたプロ野球公式戦の始球式。
たとえば、中学二年の体育祭実行委員での初恋。
たとえば、標高三千メートルで見た満天の星空。
パッと思い浮かぶのはこの辺りです。
皆さんも、良いものも悪いものも含めて、印象深い思い出というのは何かとおありでしょう。
そういった記憶たちの中に、『何の変哲もない日常に、突然なにか一石が投じられた』ようなものはありませんか?
身も蓋もない言い方をすれば『ツイートしたらいつもよりいいねがつきそう』とか、『ラジオに投稿したら採用されるかも』とか、そういう思い出です。
エッセイをよく書かれる方はこのテの引き出しが特に多いのでしょうが、私は受験戦争というもので情緒が留守にする時期というものが長らくあり、そういう機微に今ひとつ鈍いところがあるためか、ほんの数えるほどしかありません。
それでもゼロということはないわけでして。
そのわずかな中でも群を抜いて、いまだに心に刺さったままのものがあります。
それは高校三年の夏、ふとした時に学友が口にした『甘い疲労感』という言葉。
どんな話の流れだったか、多分話半分に聞き流していた所為なのでしょうが、その辺りは曖昧として覚えていないのです。
しかし彼が発したその言葉は、当時の鉄のように凝り固まっていた私の頭と心を熱く溶かす何かがありました。
彼曰く。
プールの授業後のアレは、甘い疲労感としか言葉が見つからないと。
あれは、会話の中の何気ないワンシーンだったように思います。
それでも、彼の言葉を聞いた私の中には、その様がありありと浮かびました。
体育、特にプールの時間の後の座学に付き纏う、あの何ともいえない疲労と眠気。
吐く息はどこか重く粘り気を帯びていて、まるで吸ったこともないタバコの煙かのようで、自分と世界との境目があやふやになる。
それが一人や二人などではなく、教室の過半が似たような感覚を覚え、机に肘をつき、船を漕いでいる。
自らの経験に基づくノスタルジーであり。
自らにない視点によるアプローチであり。
自らではとても辿り着けない発想であり。
とにかく、衝撃でした。
あの時ほど『ああ、きっと私は文字書きには向かないな』という無力感に苛まれたこともありません。
しかし、私はそこで頭を打ったおかげで、留守にしていた情緒に『キトク』の一報を出すことが出来たのです。
中学の終わりから高校三年まで無味乾燥としていた人生が、僅かながら色合いを取り戻した瞬間でした。
恐らくあれがあったお陰で、そして恐らくあれのせいで、私は企業戦士の道から脱線して、芸術学部に進みました。
もちろん、文字以外の表現手法をとりましたが。
十年経つ今でも、あの言葉はまだ私の胸に深々と突き刺さっています。
もし、泥のように眠る人を啜ることができたのなら。
彼あるいは彼女はきっと、途轍もなく甘い味がするのだろうと、今でも強く思います。
グラブジャムンを浸けてるシロップといい勝負だと思います。