本能寺の変を私なりに分析した結果、黒幕が黒田官兵衛になりました。
「歴史」に「謎」はつきものですが、この「本能寺の変」ほど色々な説がある事件も珍しいですよね。
調べてみた一部をご紹介します。
〇まずは明智光秀の
・野望説。
・怨恨説。
・焦慮説。
・ノイローゼ説。
〇朝廷説。
〇足利義昭説
〇イエズス会説
〇徳川家康説
〇羽柴秀吉説
〇堺の豪商(または千利休)説
〇毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
〇朝廷と羽柴秀吉の共謀説
〇長曾我部元親説
〇島津氏関与説
などなど、非常に謎の多い事件ですが、ここで私もひとつ新説を披露しますね。
(前置き長くてスミマセン)
それは、「黒田官兵衛」説です。
黒田官兵衛と言えば羽柴秀吉の軍師として非常に能力が高かった人ですが晩年は何故か中央から遠ざけられています。
まずは動機ですが、黒田官兵衛は元々は浪人でしたが父、重隆と共に彼らの能力を認めた西播の大名小寺政職によって家臣に登用され更に親子の能力を認めた政職は彼らを家老職に引き上げてくれました。
そのうえ姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えその子「官兵衛」には自らの姪を妻とさせるなど厚遇していました。
長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価した官兵衛は主君・政職に織田家への臣従を勧め、その後「秀吉」に登用されています。
しかし天正6年(1578年)に荒木村重が摂津国有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)元の主君小寺政職も信長に反旗を翻し織田信忠によって討伐されています。
官兵衛自身も荒木村重の説得に単身有岡城に赴いた際捕縛され1年の長きに亘って投獄されていました。
投獄中に信長の下へ人質として預けてあった嫡男・松寿丸(後の黒田長政)が信長に殺されたと悲観していましたが、(事実信長は孝高の嫡男・松寿丸の殺害を秀吉に命じました)竹中半兵衛の気転により信長に偽の首を進呈させ松寿丸の命は助けられ、そのあと助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けています。
このように自分達家族を見出してくれた恩人でもある主君「小寺政職」討伐や投獄中の嫡男「松寿丸」殺害への恨み(先にも述べたように実際には殺害されておりません)信長の類まれなる残忍性を目の当たりに見てきた黒田官兵衛なら、将来への不安を感じてその機会を狙っていても不思議ではない様に思われます。
次に準備についてですが、本能寺の変が天正10年6月2日(1582年6月21日)に起こる前の黒田官兵衛の作戦、つまり秀吉の戦い方にはいささか不可解な点が無きにしも非ずです。
それは天正6年(1578年)三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した事に端を発した播磨の各大名の反乱も天正8年(1580年)に収まった後の戦い以降、天正9年(1581年)因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させ、天正10年(1582年)には毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し水攻めをしました。
水攻めと言う作戦では、味方の兵力を温存できる以外に、敵の応援部隊の進路を阻む効果も期待できます。
なにしろ城を挟んでいるものが、陸ではなく川の水なのですから。
これらの戦いは、明らかに兵力の温存と大返しした際に敵に背後から襲われないことを意図した戦い方ですよね。
もちろん対毛利氏との戦いが長丁場になるとの予測の上での事かもしれませんが、来るべき雌雄を決する戦いの前に兵力や弾薬の消耗を抑え、信長暗殺の吉報を待っていたとも考えられないでしょうか?
また黒田官兵衛が自らが言ったとされる証言も残っているそうです。
本能寺の変で織田信長が死去したとき官兵衛は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言ったそうで、これにより秀吉は落ち着きを取り戻しましたが、以後官兵衛の智謀を恐れるようになったといわれています。
天下統一後に秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と家臣たちに尋ねたとき、家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げましたが、秀吉は黒田官兵衛の名前を挙げ「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言ったそうです。
側近たちは驚き「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と返したそうです。
と、このように以前は黒田官兵衛を重用していた秀吉が「本能寺の変」以降、黒田官兵衛を恐れたのは事実の様で秀吉は何らかの事実を知っていたのではないか?とも思われます。
さて、ではどの様にして遥か京都にいる信長を、はるかに離れた岡山から暗殺できたのでしょう?
しかも実際に信長を討ったのは明智光秀ですよね?
私の推理は、こうです。
まず、明智光秀軍の中に「黒田官兵衛」直属の「織田信長暗殺部隊」を潜り込ませておきます。
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する光秀軍は1万3千人もいますから、当時の交通事情から言うとその列は長きに及んだと思われます。
列の後方で騒ぎが起きたとしても光秀本人には解る筈もなく、まして当時大都会だった京都ともなれば尚の事です。
足軽ふぜいが主君「織田信長」の宿など知る由もなく、よしんば知らされていたとしても名前だけでどの建物かは解らないはずですが、潜んでいるのは暗殺部隊なのでそのあたりは十分調査済みです。
住み慣れた京の都から離れ田舎へ戦をしに行く。
いつ帰れるかも分からない。
噂では、もう京都に戻ることはなく山陰に城を建設するとか。
こんな状況での出発ですから、足軽の中には気の立っている人も多かったはず。
そんな中で信長暗殺隊が他の足軽に「京都の思い出に立派な御屋敷の侍女目当てに夜這いをしかけよう」と持ちかけ、なんと本能寺に潜入します。
当然、本能寺側では警備が厳重に行なわれているので騒ぎになりますが、足軽だけなら警備の侍に蹴散らされて御仕舞いかも知れませんが、ここで同行していた信長暗殺部隊が応戦!
本能寺内部ではチョッとした小競り合いになります。
更にまだ参戦していない他の信長暗殺部隊が、屋敷内から攻撃があり仲間が襲われていると言う事実とは異なることを、長い列の後方にいる者たちに伝え加勢を要請します。
当然、仲間が襲われているとなれば参戦して、当事者達は知らないままクーデターの張本人に。
この場合「信長」の首を取るリスクを犯すよりも確実に「信長」を亡き者にすれば良い訳で屋敷に火を放てば確率も上がるはず。
万が一にも信長暗殺部隊が信長を討ちもらしたとしても、首謀者に祀り上げられた「光秀」が全力をあげて何とかするはず!
なにしろ実行犯は光秀の部隊から出ているのですから、申し開きも出来ないのです。
信長を討ってしまった光秀は当然信長政権下には居れないので、嫡男である信忠を早急に討っておかなければならなくなります。
こうして日頃は用意周到なはずの光秀は、何の準備も出来ないまま反逆者の汚名を着せられてしまい全て計画通りの軍師黒田官兵衛が操る秀吉軍によって打ち負かされるのです。
最後の仕上げに、織田信長暗殺部隊の労をねぎらう為に、毒入りの酒を吞ませるなどして口封じしてしまえば完成です。
はてさて、実際はどうであったか定かでは有りませんが色々調べて考えてみるのも歴史の楽しみ方。
そもそも歴史そのものが勝者によって都合よく作り変えられた歴史であって、私たちが定説として良く知っている歴史ですら、定説ですら信憑性に欠けると言っても過言ではないように思います。
色々な立場に立って当時を考える。
歴史とは答えのないクイズなのではないでしょうか!?