第七十五章 宰相夫人の思い出のドレス
朝、宰相と王太子と顔を合わせた途端、レオナルドは二人に今日の予定を尋ねた。
すると二人は呆れた顔で、このまま帳簿の確認に決まっているだろうと言った。
そこでレオナルドは、それらの作業はマリア王子妃の父上であるスチュワート公爵や、宰相の部下であるケイシーに任せて、我が家にいらっしゃいませんか?と彼らを誘った。
王太子や宰相を事前の約束も無しに誘うなどという事は、非常識極まりない所業だった。しかし今は非常事態だ。
どこから情報が漏れるか分からない状況下では、外に予定が漏れなくする為の方法は即断即決しかない。
「今日実行予定の教会の査察の件の報告会をやるのかい?」
「その通りです。殿下。
それに、殿下にお会いして頂きたい者もいますので…それは殿下の弟君です」
「アダムスかい? あいつは陛下の命令で辺境地で再訓練しているんじゃなかったか?」
今更あの弟に会ってどうする? しかも侯爵にとっては二度と会いたくはない人物ではないのか? そう王太子は不審に思ったが、レオナルドは頭を振った。
「アダムス殿下ではありません。その下の弟君です」
「まさかエメランダ様の……?」
王太子と共に宰相も仰天した。
「君はエメランダ様の事をご存知だったのか?」
宰相の問いに侯爵は笑った。『今世紀最大の悲劇の美女』の逸話を知らない者はこの国にはいませんよと。
「そう言う意味ではなく、お会いした事があるのか?」
「いいえ、残念ですが。
私がエメランダ様のご子息と出会った時には、既にエメランダ様は亡くなっておられましたから」
「以前から君は、その…私の弟?と知り合いだったのかい?」
「はい。子供の頃からの親友です。もっとも、お互いに素性を誤魔化していたので、彼が陛下のお子様だと知ったのは、数日前ですが」
「今、どこで何をしているんだね? 名前は?」
そこで侯爵はゆっくりと名前を告げた。それは数日前に、彼が父王の代わりに養子縁組の許可を与えた人物であった。
その日は珍しく定時で仕事を終えたザクリーム侯爵は、帰宅する馬車の中で同行者に向かってこう言った。
「私が記憶障害になってから、まだお天道様が出ているうちに帰宅出来るのは初めてです」
「「・・・・・・・・・」」
侯爵の上司?に当たる二人の人物は黙っている。
「今は非常事態なので仕方がないと思うのですが、私はどうやら以前から似たような感じだったらしいのです。
ですので、いずれは待遇改善を上司に要求するつもりなんですが、お二方はどう思われますか? ご賛同して頂けますでしょうか?」
ニコニコとわざとらしい笑顔を浮かべる部下に、まず宰相がこう言った。
「私もお天道様を拝んだ事はないぞ」
「そりゃあ、閣下のお立場ならそうでしょうとも。しかし私はただの一兵卒です。
ご自分と同じ事を末端の者にまで要求なさるのはいかがなものでしょう?」
もっともな話だとは思う。しかし、この者が一兵卒のわけがないだろう。今だってこうやって有無を言わさずに、上司とやらを自宅に導こうとしているではないか!
そう二人は思ったが何も言わない。ヘソを曲げられて彼に登城拒否でもされたら一大事だ。
困った事に彼は出世を望んでいない。こちらは重い役職に就けて囲い込みたいのに。
しかし無理矢理にそんな事をしたら、彼は絶対に退職してしまうだろう。彼は領地経営だけでも十分過ぎるほど豊かに暮らせるだろうから。
手綱の引き具合が難し過ぎる!
彼がいなくなったら一大事だ。彼無しでは既にこの国は回らない状態になっている。特にここ数か月前からは、今更ながらにそれをジワジワと実感しているのだ。
とは言え、宰相は王太子よりもこの男との付き合いは長い。よって彼の弱みは一応は知っている。もちろんそれは強みでもあるので、この匙加減を間違えるとこちらの命取りだが。
ザクリーム侯爵夫人と懇意になってこちら側の味方にしたいところだが、一歩間違えればそれこそこちらの首を取られかねない。物理的に。
その危険性を考えれば、直接自分が近づくより、彼女が信頼している人物と懇意になった方が得策かも知れない。
今日公爵邸を訪れたら、夫人の相関図を把握しようと彼は思った。
まあ、前侯爵の頃とは違って、現在の侯爵邸のスタッフは全員優秀だという噂なので、簡単に手玉に取れる者はいないだろうが……
取り敢えず今日は様子見だ。それと、夫人と王太子殿下の余計な接触を避ける事も、自分の最大の役目なのかも知れない。
それにしても、侯爵はよくこんなリスクの高い事をする気になったものだな。王宮のパーティーにだって、いやいや参加させていたのに……
二人の絆が深まって、たとえ王太子だろうがもう気にしないという事なのだろうか? それなら少しは気が楽なのだが…
馬車の中で宰相はそう考えていたのだが、それは甘かったと、侯爵邸に足を踏み入れた瞬間に実感した。
出迎えてくれた夫人は、あの舞踏会を連想させるオールドファッションで登場したのだ。
ザクリーム侯爵夫人は見事なカーテシーで高貴過ぎる方々をお迎えした。
やはり舞踏会の時同様ハイネックで、黒に近い濃紺のドレス姿だった。ただしシンプル一辺倒だった前回とは違い、少しカジュアルな感じで若々しい雰囲気が出ていた。
ただし髪はしっかりと纏めたギブソンタックヘアーで、黒縁眼鏡をかけ、侯爵夫人というより王宮の女官長のような雰囲気を醸し出していた。
先々月宰相の奥方がお茶会を開いた時、彼女はザクリーム侯爵夫人を招待していた。
その時の様子を聞いたところ、宰相の妻はザクリーム侯爵夫人をべた褒めしていた。
「確かに、今どきあのドレスはいただけないと舞踏会の時には正直思いましたよ。
でも、今日は似たようなハイネックのドレスだったのに、上品なだけでなくてモダンで、とても若々しくて素敵でしたわよ。
なんでも、ジュジュ様付きの侍女の方のデザインでリメイクされたんですって。
あんまり素敵だから私のドレスも直して欲しいとお願いしたの。そうしたら、近々また拙宅を訪問してくださるそうよ」
妻が初めて招待した客人を愛称呼びするのを、宰相は初めて聞いて驚いた。
妻が言うには、侯爵夫人はどちらかというと聞き上手で、滅多に自分からは喋らないが、きちんと話を聞いているようで、返しがとても絶妙で、言葉が深いのだそうだ。その短かい言葉に彼女の機知に富んだ様が垣間見えたと言う。
「さすが貴方がずっと目に掛けていた方がお選びになった奥様ね」
と妻が言った。しかもこう言っていた。
「服装やヘアスタイル、そして眼鏡や化粧のせいでわざと地味に見えるように演出しているみたいだけど、素顔は相当に愛らしいくてかわいい方だと思うわよ」
その時の妻の評価は正しかったと、目の前の夫人を見て宰相は一人納得したのだった。
侯爵家の客室に通され、お茶を振る舞われて少しホッとした後で、宰相は夫人にこう礼を述べた。
「先日は妻のドレスの件で大変お世話になりました。もう二度と手を通さないだろうと思っていた物が、最先端の素晴らしいドレスになったと、妻が大変喜んでおります。ありがとうございます」
「喜んで頂けたのなら私どもも嬉しいですわ。あのドレスは元々とても良い生地を使われていたので、素敵にリメイクすることが出来たんですわ。
それに奥様のご希望された内容もとても素晴らしかったですし。
デザインする時にとても参考になったと、それを担当しました侍女もそう言っておりました。
ねぇ、ナラエ!」
夫人は先ほど我々にお茶を淹れてくれていた侍女に声をかけた。するとその若い女性も微笑みながら、こう言った。
「はい。宰相様の奥様の素晴らしいドレスをお直しするお手伝いをさせて頂けて光栄です。
あのドレスの生地は宰相様が自ら奥様の為にお選びなったとお聞きしましたが、本当に柔らかくて優しくて、お召しなる方を思って作られたドレスだという事が一目で分かりました。
その思いを心に留めて、今の奥様にお似合いなるように、デザインを考えさせて頂きました」
確かに肌がデリケートな妻の為に、結婚当初に彼が生地を選んで作らせたドレスだった。自分でも大分奮発したという記憶があった。
しかし、自分達には息子が三人いるだけで娘がいなかった。だからあのドレスを着る者はもう誰もいないと思っていた。
まさか息子の嫁に型の古いお下がりを着させるわけにもいかないだろうと。
それなのに二十年の時を隔て、再びあんなに素晴らしいドレスに生まれ変わるとは思いもしなかった。
リメイクされたドレスは今の妻によく似合っていた。そして、その妻の笑顔は昔同様に美しく愛らしかった。
「ザクリーム侯爵夫人、そしてナラエさん、本当にありがとう」
宰相の言葉に二人は眩しい笑顔を返してくれた。
その時、特に夫人の笑顔を見て宰相は心の中でこう思った。
「ちょうど王太子殿下がエチケットルームへ行っていて良かった。夫人のこの笑顔を見たら、初恋の相手だと気付かなくても一目惚れしていたかも知れない。今、妃殿下の事で傷心していらっしゃるところだし……」
と・・・
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